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至誠一貫

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第一部
第五章 ~再上洛~
  五十四 ~陳留にて~

 本来であれば、腰を据えて官渡の視察を行いたかったところであるが、状況がそれを許さぬのでは仕方あるまい。
 予定を切り上げ、そのまま洛陽に向かう事にした。
 途中、歩みながら地形を認めていく。
 運河が複雑に入り組んでいて、嘸かし行軍に難渋する事であろう。
 これでは、袁紹が寡兵の曹操相手に手こずったのも当然であろう。
「さて、長居は無用だな。急ぐとするか」
「そうですね。……どうしましたか、疾風?」
「…………」
 疾風が、南の方をジッと眺めている。
「如何した?」
「……どうやら、お客さんのようです。いえ、お迎えと言うべきでしょうか」
「……流石に、黄巾党らではないようだが」
「ええ。……ある意味、もっと厄介ですが」
 南の方角から、立ち上る砂塵。
 驀地に、此処を目がけて進んでくるようだ。
「疾風。この位置からすると……まさか?」
「そのまさか、だな稟。歳三殿、如何なさいます?」
 辺り一面、何処までも続きそうな平原。
 身を隠そうにも、森や林どころか、岩すら見当たらぬ。
 加えて、こちらは徒歩。
 迫り来る一団の先頭を双眼鏡で見ると、軽装とは言え騎馬で構成されている。
 疾風単身ならばどうとでもなるやも知れぬが、私も稟も、そこまで素早く立ち回れる筈もない。
「あがいても無駄であろう。疾風、お前は一足先に洛陽に向かえ」
「え? しかし、それでは」
「私ならば心配要らぬ。だが、軍は今更止めようもない。ならばお前が行き、皆と合流を果たしておいた方が良かろう」
「私も、歳三様の意見に賛成です。三人とも約定の日に来なければ、殊更騒ぎになりましょう」
「……わかりました。では歳三殿、くれぐれもご無理をなさらぬよう」
「案ずるな。それよりも、早く行け」
「はっ。では洛陽でお待ち申し上げておりますぞ」
 疾風は未練を断ち切るかのように、素早く姿を消した。
「さて。我らは迎えを待つとするか」
「そうですね」
 稟も落ち着いたものだ。
 ……相手がわかっていれば、こんなものであろうが。

「で、まずは何から説明して貰おうかしら?」
「……私としては、お前がこの場にいる理由も聞かせて欲しいところだが」
 向かってきた一団は、予想通り華琳の軍であった。
 ……ただし、当人が率いている事までは、流石に想定外ではあったが。
「先に質問したのは私よ。答えなさい、歳三?」
「良かろう。私はこの地に来てより、黄河より南を見た事がないのだ」
「で、軍だけを進ませて、貴方は郭嘉だけを連れてこんな場所にいる、と?」
「そうだ。私とて、時にはそんな気分にもなる」
「護衛も伴わずに? 郭嘉には悪いけど、歳三よりも腕が立つようには見えないわよ?」
「ええ、曹操殿が仰せの通り、武では敵いません。ですが、私は大陸中を旅した経験があります」
「道案内という事かしら? 確かに、不自然ではないわね。でも歳三、貴方のは理由にしては弱いわよ?」
 ふっ、やはり華琳相手にこれでは通じぬか。
「理由か。繁栄していると聞く、陳留をこの目で見たかった……ではいかぬか?」
「あら、それは光栄ね。けど、貴方は勅令で呼ばれている身。それを無視したと言われても仕方ないわよ?」
「無論、そんなつもりはないが」
「貴方がそのつもりだとしても、よ。今この時に取る行動としては、褒められたものじゃないわ」
「確かにな。だが、この折でなければ、身軽な行動が取れぬのもまた事実でな」
「ふむ……。なら、護衛を伴わない理由は? 貴方の許には関羽、張飛、趙雲、徐晃と一騎当千の猛者がいるわよね? 張コウは留守居だからともかく、他の将が貴方だけで別行動を取らせるとは思えないわ」
 流石、我が陣営を正確に把握しているようだな。
 全く、抜け目のない事だ。
「その事なら、心配は無用だな」
「あら、何故かしら?」
「まず、この地が華琳の影響下にある事だ。治安には何の不安もないであろう?」
「ええ。このエン州で、盗賊や無法者が大手を振って歩けるような真似はさせないわ。まぁ、白馬の一件は、痛恨の極みだったけど」
 やはり、あの地にいた兵の通報でやって来たのか。
 ……尤も、典韋から事前に知らされていた可能性も否定出来ぬが。
「まだ、理由があるようね?」
「ああ。私と稟だけなら、夫婦と称すれば良いが、三人では怪しまれたら厄介。それ故、このような形としたのだが」
 華琳は私の顔を暫く見ていたが、
「……ま、いいでしょう。一応、信じてあげましょう」
「そうか。それで華琳、お前こそ洛陽にいるのではなかったか?」
「ああ、その事ね。ちょっと持っていくのを忘れた書があったのよ。近いから取りに戻っただけよ?」
「なるほど。しかし、態々自らこうして参る事もなかろう?」
「知らせがあった容姿から、歳三以外にはあり得ないと思ったからよ。それなら、自分の目で確かめたいもの」
 と、華琳は意味ありげに口角を上げる。
「そうそう。黄忠、と言ったかしら? 歳三について行くつもりが、何時の間にか姿が消えていた、って当惑していたらしいわよ? ただ、貴方の偽名には気付いてないみたいだけど」
「まさか、正々堂々と名乗る訳にはいかぬからな。黄忠と申す者、素性が定かな訳ではなかった故、な」
「慎重なのか、大胆なのかわからないわね。……とりあえず、陳留へ案内するわ。貴方が望むままに、見せてあげましょう」
 華琳が私の話を全て信じたとは思えぬが、然りとてそれ以上追及しようともせぬようだ。
「歳三様。……先程曹操殿に言われた事、真ですか?」
 稟が、声を潜めて訊いてきた。
「陳留行きの事か?……あながち、嘘ではないな」
「そ、そうではなくですね」
 む、耳まで真っ赤になっているようだが。
「そ、その……。夫婦とぶはっ!」
 盛大に鼻血を噴き上げる稟を、何とか抱きかかえた。
 華琳も流石に驚いたらしく、いつになく狼狽しているようだ。
「ちょ、ちょっと! 郭嘉、大丈夫なの?」
「う、うむ。止血すれば大事なかろう」
 ……最近、すっかり影を潜めていたから失念していたが。
 話の流れとは言え、ちと不用意だったか。

 半日後。
「あれが陳留よ」
 行く手にそびえる城壁。
 ひび割れ一つなく、見事に手が入れられている。
「流石に、堅固そうですね」
「うむ。それに、兵の動きに無駄がないな」
「当然でしょ。誰の本拠だと思っているのかしら?」
 不遜でもあるが、華琳の場合はそれが確かな自信に裏打ちされている。
 ……袁紹とは、やはり決定的な差があるとしか言えぬな。
 城から、一隊が此方に向かって出てきた。
「華琳様。お戻りなさいませ」
「ええ、ただいま秋蘭」
「……ふふ、やはり土方殿でしたか」
 夏侯淵が、我らを見て軽く頷いた。
「だから言ったでしょ? 私が出向いて正解だったわ」
「はい。兵だけでは、土方殿程の御方を相手にするには荷が重過ぎるかと」
「お陰で、こうして無事に確保出来たものね。ねぇ歳三、何ならずっとこの城に」
「断る。そもそも、今の私は昔とは違い、兵も抱え官位もある身だぞ?」
 華琳の言葉を、敢えて遮った。
「ふふ、だから何? 言った筈よ、私は欲しい物はどんな手を使っても手に入れる主義だって」
「…………」
 そんな華琳を、私は黙って見据える。
「曹操殿。冗談とは思いますが、そのような事で我が主が、貴殿に跪くとでも?」
「……言うわね、郭嘉。なら、貴女はどうかしら?」
「折角のお言葉ですが。私の仕えるべき御方は歳三様以外にあり得ませんから」
「でしょうね。駄目元で言ったまで、気にしないで」
 その割に、眼が笑っておらぬのだがな。
「さて、秋蘭。歳三達に陳留の城下を案内してあげて欲しいんだけど」
「は。しかし、宜しいのですか?」
「別に隠すような事もないでしょう? じゃあ、頼んだわよ?」
「わかりました、華琳様」
 華琳は頷くと、城の奥へと去って行った。
「済まぬな、夏侯淵。お前も忙しい身であろうが」
「いえ、構いません。華琳様の命ですから」
 何気ない言葉にも、華琳への全幅の信頼が窺える。
 この主従の絆も、相当なものだな。

「ここが目抜き通りです」
 まず、案内されたのは陳留一の繁華街。
「活気がありますね」
「うむ。店の数も相当なものだな」
「ギョウと比べて、如何ですか?」
「そうだな。稟、どうか?」
「はい。甲乙つけ難し、ではないかと。それに、陳留とギョウでは、街の役割が異なりますし」
「郭嘉殿、それはどういう意味でしょうか?」
 稟の発言に、夏侯淵は興味を覚えたらしい。
「此処陳留は洛陽からも程近い立地。洛陽が住みにくいと感じた人々が移住したり、洛陽の代わりに諸国からの物資が集まっていると見ました」
「ほう。何故そう思われる?」
「言葉と、身に纏っている衣装ですよ。実に多種多様ではありませんか」
 言葉の差異までは流石にわからぬが、なるほど衣装は実に様々だ。
 店や市に並べられている品物も、見た事のない物が相当数混じっているようだ。
「一目見ただけでそれがわかるとは……流石、土方殿の知恵袋だ」
「いえ、これは旅の賜物ですよ。一方、ギョウは河北の拠点になっています。人も河北から集う為、比較的同じ地域の人々が多いですね。言葉にもあまり違いは見られませんし」
「なるほど。だから甲乙つけ難い訳か……」
 夏候淵は、しきりに頷いている。
 だが、これも華琳が一代で築き上げた繁栄と聞く。
 私の許には、愛里、元皓らの優秀な文官がいるが、華琳はそれをほぼ独力で為し遂げた。
 それだけで、華琳が如何に抜きん出た才を持つか、自ずと知れよう。
「さて、土方殿。次は何処をご覧になりますか?」
「今少し、この通りを見てみたいのだが」
「わかりました」

 途中、洒落た茶店にて、一息ついた。
「ふむ、なかなか良い茶を出すな」
「ええ。茶菓子も良く吟味されていますし。流石は、夏候淵殿推挙の店だけの事はありますね」
「この店は、華琳様も認める程の亭主がやっているのです、質が良くて当然です」
 そう語る夏候淵は、何処か誇らしげだ。
「内政に長け、戦の駆け引きにも優れ、謀も得意。おまけに舌も肥えているとは……まさに、完全無欠ではないか」
「確かに、華琳様は何事にも秀でた御方です。ですが、そこに至るまでには不断の努力をされておいででもあります」
「ただ、生まれ持った才能があるのは確かでしょうね。何人かの諸侯にも会いましたが、曹操殿のような方は私は存じ上げません」
 夏候淵はフッと笑った。
「ですが、そんな華琳様が認める数少ない人物の一人が貴殿です。運だけではなく、実績でその才を示されましたからね」
「そうでもあるまい。私が今日あるのは、皆の支えがあってこそ。私は武人、華琳のように政治には向かぬ」
「ふふ、相変わらずのようですな。地位や権力を手にした途端、馬脚を現す輩が多い中、貴殿は以前のまま。それ故、華琳様も高く評価されておられるのでしょうが」
「褒めても何も出ぬぞ? 私はこれでも、自分を弁えているつもりだからな」
「ところで曹操殿は、料理の腕も確か……と聞きましたが、本当なのですか?」
 稟が話題を変えようとしたのか、夏候淵に訊ねた。
「その通り。並の料理人では太刀打ちすら及ぶまい」
「なるほど。ちなみに夏候淵殿は如何なのです?」
「私か? 華琳様には及ぶところではないが、それなりにこなせる自信はあるな」
「……ふむ。私も心得がない訳ではないのですが、恐らくは貴殿には敵わないでしょうね。何となく、そんな感じがします」
「いや、あくまでもそれなり、と言っておこう。華琳様ならともかく、私程度で過大評価されるのもどうかと思うからな」
「なるほど。では、他の方は如何ですか、例えば夏候惇殿とか」
 すると、夏候淵は苦い顔つきになり、小さく頭を振った。
「……妹の私が言うのも何だが、姉者には料理は向かない。いや、むしろさせるべきではないな」
「得手ではない、と?」
「それどころか、厨房がいくつあっても足りなくなるぐらいだ。……それ以上は、察してくれると助かる」
 厨房がいくつ合っても足りぬ?
 ……あの調子で包丁を振り回すのやも知れぬが、その程度で壊れる訳もなかろう。
 夏侯惇の料理を食す機会などないであろうが、一応留意しておくか。
「そう言う土方殿の方はどうなのだ? 実に多彩な顔ぶれが揃っているが」
「そうですね。歳三様の麾下では、やはり彩……張コウが最も優れていますね」
「張コウ殿か……ふむ」
「それから最近、まだ年若いですが、有望な料理上手と知己になりまして」
 言うまでもなく、典韋の事であろう。
 さりげなく、探りを入れるつもりか。
 ……だが、相手が夏候惇ならばともかく、夏候淵ではどうか?
「なるほど。その者も土方殿に仕官を望んでいると?」
「いえ。洛陽に同郷の親友がいるとかで、我が軍に同行していますよ」
「ふふ、土方殿は本当に顔の広い御方なのですね。……さて、そろそろ参りましょうか」
 やはり、おくびにも出さぬか。
 稟もそれは期待していなかったらしく、涼しい顔のままだ。


 その後、日が暮れるまで、陳留の城下を見て回った。
 総じて治安が良く、清潔な街並み。
 そして何より、庶人に活力が感じられた。
 誰かの模倣ではなく、自らの発想と視点で築き上げた成果。
「見事としか言いようがないな」
「そうですね。私も陳留を訪れたのは初めてですが、想像以上の繁栄ぶりでした」
 華琳に宛がわれた宿で、稟と二人、感想をぶつけ合った。
「ほう。大陸中を廻ったと思ったが、意外だな」
「……歳三様も知っての通り、私は嘗て、曹操殿に仕官する事を目標にしていましたから。陳留を訪問するのは旅の最後に、と決めていたのです」
「そうか。率直にどうであった、この陳留は?」
「歳三様にお会いする前に、訪れなくて良かったと思います。……曹操殿の器量もそうですが、この街には人が離れ難くなる、そんな魅力に満ち溢れています」
 私も同感だ。
 ただ活気があるだけではない。
 華琳の、未来を見据えた想いが、この陳留全体を包んでいるとしか思えぬ。
「……ですが」
「何だ?」
「私は、比べるならばギョウの方が優れていると思います」
「お前ほどの者が、身びいきで申す訳もないと思うが。理由は?」
「確かに陳留は活力があり、人が集まって当然の場所です。ですが、それは曹操殿の器量と性格が反映されている場所、とも言えます」
「……うむ」
「それに引き替え、ギョウは歳三様、というよりも、歳三様の許に集った皆で作り上げた街です。無論、私自身を含めて」
 いつになく、熱っぽく語る稟。
「陳留は、曹操殿が他に行かれたら、恐らくはそこで止まってしまいます。ですが、ギョウは仮に歳三様がおられずとも、皆の想いが街を作り上げていく……そう思います」
「皆の想い、か」
「そうです。無論、歳三様がその中心にいればこそ、皆がより一層、力を合わせられるのもまた事実ですが」
「あら、興味深い会話ね。私も混ぜて貰えるかしら?」
 不意に、華琳が部屋へと入ってきた。
「刺史ともあろう御方が、随分と身軽だな?」
「あら、私だって四六時中公務って訳じゃないのだけれど? それよりも歳三、郭嘉。ちょっと付き合いなさい」
 私と稟は、顔を見合わせた。
「何処へ連れて行くつもりだ?」
「ふふ、来ればわかるわよ? 安心なさい、貴方達を捕らえるつもりはないわ」
「……良かろう。稟、良いな?」
「はっ。歳三様と別行動を取るつもりなど、毛頭ありませんから」
「ほーんと、妬けるわね。まぁいいわ、ついて来なさい」
 華琳は、笑顔のまま顎をしゃくった。

 城中に連れて行かれるのかと思いきや。
 ……案内されたのは、城壁の上。
「今宵は月が美しいわ。こんな日に月を愛でないなんてあり得ないわね」
「月見酒、という事か。……良かろう」
 簡素ながら、酒器と肴が、既に用意されていた。
 華琳手ずから、杯に酒を注いだ。
「じゃ、名月に乾杯、でいいかしら?」
「うむ」
「はい」
 ……む、この酒は?
 香りといい喉越しといい、あまりに覚えがある。
「流石、気がついたようね。そう、この酒は貴方の発案だそうね?」
「存じていたか」
「当然よ。試してみたら、今までにない美味しさがあったもの」
「そうか。それは何よりだ」
 華琳は杯を干すと、私に向かって突き出してきた。
「注ぎなさい」
「いいだろう」

 華琳は、いつになく饒舌であった。
 月を題目にした詩吟を、即興で作って朗々と詠う程に。
 私にも何か見せよ、と迫られた故、やむなく拙い俳諧を披露したが、
「ひねりがないわね。……言葉は綺麗だけどね」
 案の定、その程度の評価であった。
「貴方、本当に私のところに来ない? 詩吟というものを、徹底的に教えてあげるわよ?」
「……いや、良い。私には、そこまでの才はない」
「なら、努力なさい。貴方は、この曹孟徳が見込んだ男なのよ?」
「曹操殿。飲み過ぎではありませんか?」
「いいのよ、たまにはこうして飲みたくなる時もあるのよ」
 普段の、覇王ぶりはすっかり、影を潜めているな。
 ……ならば、この希有な機会、存分に過ごさせて貰うとするか。

 月が沈むまで、そんな酒宴は続いた。 
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