至誠一貫
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第一部
第四章 ~魏郡太守篇~
三十五 ~采配を振るう者~
既に深夜に差し掛かった頃ではあるが、事は一刻を争う。
謁見の間、としか例えようのない場所に、主だった者が揃った。
「さて、皆にも知らせた通りだが、刺史の韓馥殿より、火急の知らせが参った。黒山賊が蜂起、韓馥殿の拠点に向かっているそうだ」
「黒山賊ですか。恐らくは、黄巾党の残党も紛れ込んでいましょう」
「数も約五万とか。数の暴力は厄介ですからな」
愛紗達は、深刻な表情だ。
……それに引き替え、旧来の文官共は、反応を異にしている。
「やれやれ、刺史ともあろうお方が、不甲斐ない事ですな」
「全く。たかが山賊如きにだらしのない」
……今は、他人を嘲笑う場ではない筈だ。
この古狸どもには怒りを覚えるが、いずれ手痛い目に遭わせてやる……そう思うに止めた。
「では、まず……」
「お待ち下さい、土方殿」
いきなり、逢紀に話の腰を折られた。
「……何か?」
「いえ、どうやら、軍議の場に相応しくない者が混じっているようですな」
そう言って、逢紀は田豊を睨む。
「同感ですな。貴様、誰の許しを得て此処にいる!」
畳み掛けるように、怒鳴り付ける郭図。
「田豊ならば、私が同席を認めた」
「ほう。土方殿が」
審配は、侮蔑を露にして私を見た。
「失礼だが、土方殿はまだ、この魏郡の事を正しく理解されておいでではありませんな」
「正しい理解、とな?」
「如何にも。この者は、文官見習い同然の若輩者。恐れ多くも、我らと同席などとは片腹痛い限りですぞ」
他の文官も、半数程は相槌を打っている。
……確証はないが、皆同じ穴の狢なのであろう。
「止めよ。田豊については、太守としての命だ。従えぬ、とあらば相応の処分を下す事になる」
すると、審配は大仰に嘆いて見せた。
「何と横暴な。太守とて、横紙破りは許されませんぞ」
「それはどうですかねー」
まさに、一触即発。
そんな空気を和ませるような、のどかな声がした。
「何だ?」
「今、審配さんが言われた事は、明らかにおかしいのですよ」
「何だと、小娘。如何に土方殿の軍師であろうと、無礼は許さんぞ!」
「ではお尋ねしますが。審配さんを文官として採用したのは、前の太守さんでしたねー?」
「そうだ」
「ではでは、田豊ちゃん。同じ質問に答えて貰えますか?」
「僕も、同じです。前の太守様です」
「そうですね。基本は、太守さんと豪族さん達の合議で登用するという制度ですよね?」
風の言葉に、審配はフン、と鼻を鳴らす。
「それがどうした? 今更、郷挙里選の仕組みを紐解くのが、軍師たる者の役目なのか?」
審配の皮肉にも、風は表情を変える事はない。
「いえいえー。そして、郡の太守さんも、本来はこの制度で選ばれる事が多いのですが、前の太守さんもそうだったようですね」
「そうだが?」
「その場合、太守さんと言えども、豪族さんから選ばれた方々には、気を遣う必要もあるでしょうねー」
「…………」
「でも、お兄さんの場合は違うのですよ。前の太守さんと違って、お兄さんは陛下から直接、任じられたのです」
「……だから、どうした?」
思いの外、察しが悪いな。
「では、申し上げますね。お兄さんは、陛下の直臣、とも言えます。つまり、お兄さんの命は陛下の命でもあるのですよ」
「詭弁だ!」
「そうだ! どう選ばれようとも、郡太守には変わりないぞ!」
黙って聞いていた郭図と逢紀が、まくし立てる。
「そうでしょうか? 本来、郡太守は、その地方の責任者。その下にある官吏は、その命に従う……それが、本来の制度であり、定めですが?」
稟の指摘に、二人は言葉に詰まったようだ。
「だ、だが、今までの習わしでは!」
「今までは、それでも良かったのでしょう。ですが、今までがそうだったから、未来永劫そのままでなければならない……そんな決まりは何処にもありませんよ」
「…………」
風も稟も、正論を言ったまでの事。
どうやら、勝負あったな。
「さて。話が逸れたが、韓馥殿の救援は一刻を争う。星、すぐに出せる兵数は?」
「はっ」
星はチラ、と郭図達を一瞥して、
「郡全体を合わせても、まともな戦闘に耐えられるだけの兵は揃いませぬな。どうやら、前の太守殿が討ち死にされた後、まともに軍事を取り仕切る人物が不在だったようです」
「そうか。では、連れて参った兵から選抜するしかあるまい。どれだけ揃えられる?」
「そうですな。守備兵の事を考えると、一万、というところでしょうか?」
一万か。
韓馥がどれだけ兵を残せるかにもよるが、少々厳しい戦いになるやも知れぬな。
「では、一万で良い」
私は愛紗と鈴々を見て、
「将はお前達二人とする。直ちに手配りを」
「御意!」
「合点なのだ!」
飛び出していく二人。
「指揮は私が執る。田豊」
「は、はいっ!」
名指しの糾弾にも、黙って耐えていた。
性根も確かだ、後は素質を見てみたい。
「お前も従軍せよ。此度の軍師を命ずる」
「え……僕が?」
皆、呆気に取られている。
「そうだ。不服か?」
「い、いえっ! 御意です!」
「なりませぬ! そのような」
再び、異を唱えようとする逢紀。
「……二度、同じ事は言わぬ。良いな?」
わざと、抑えた声で言い放つ。
それに刃向かえるだけの胆力は持ち合わせておらぬようで、騒ぎ立てていた者共は黙り込んだ。
「では、急ぎ出陣の準備にかかれ。他は追って沙汰する」
大多数の文官共は形ばかりの礼を、それ以外の者ははっきりと礼を返した。
数刻後。
輜重隊は後からついてくるように指示し、急ぎ出発した。
「あ、あの……太守様」
「何だ?」
田豊が、馬を寄せてきた。
文官と言えども、最低限の馬術を身につけているのは流石と言うべきか。
「良かったのですか、本当に僕で?」
「無論だ」
「ですが、太守様には、郭嘉様と程立様がいらっしゃいます」
「確かに、二人は私の軍師。だが、魏郡の建て直しも急務故、残って貰った」
「それはわかりますが、お二人がよく承知なさいましたね?」
「……それは、問題ない。よく言い聞かせてある」
「そう、ですか……」
ふう、と息を吐く田豊。
「自信がないか?」
「……正直に言うと、そうです。僕は学問として兵法を学んできましたが、実践するのは初めてです」
「だが、経験を積まねば、何時までもそのままだぞ?」
「はい。ですが、相手が山賊とは言え味方は劣勢。その状態で、僕の策が破れたりでもしたら、と」
「……………」
「それに、そうなれば太守様はますます、信を失ってしまいます。折角、この魏郡にいらしたばかりだというのに」
そう言う事か。
「田豊、言った筈だ。しくじりを恐れるな、と」
「ですが……」
「案ずるより産むが易し、まずはやってみる事だ。それ以上躊躇する事は許さぬ、軍師の迷いは全軍の士気に関わる」
「……わかりました。精一杯、頑張ります」
パン、と田豊は頬を手のひらで叩いた。
「お兄ちゃん! 向こうに何か見えるのだ」
鈴々が、そこに駆け込んできた。
確かに、少し離れた場所から砂塵が上がっているようだ。
どれ、確かめてみるか。
双眼鏡を取り出すと、田豊は目を丸くした。
「太守様、それは?」
「双眼鏡という、舶来の品だ」
いやに輝きを放つ兵の一団が、我が軍と同じ方角へと進軍しているようだ。
……それにしても、金色の鎧とは、お世辞にもいい趣味とは言えないな。
「田豊、見てみるか?」
「宜しいのですか?」
「うむ。見たものの正体、存じているならば教えよ」
「は、はい。では、失礼致します」
恐る恐る、田豊は双眼鏡を受け取る。
「こ、これは……。遠くが、はっきりと見えます!」
「にゃはは、驚いているのだ」
鈴々も、最初は驚いていたのだがな。
「どうだ?」
「……あれは、どうやら袁紹軍のようです」
「袁紹軍? 確かか」
「はい。黄金色の鎧を使っているのは、大陸広しと言えども袁家ぐらいのものです。尤も、袁紹軍と同一の装いを嫌って、袁術軍は銀一色とか」
「どっちも趣味が悪いのだ」
「ふっ、鈴々の申す通りだ。戦は見た目でするものではないからな」
だが、袁紹が既に冀州にいるとは、想定外だ。
先日の様子では、まるでそのような素振りもなかったのだが。
「にゃ? お兄ちゃん、何か心配事でもあるのか?」
鈴々が、私を見上げてきた。
「そう見えるか?」
「うん。お兄ちゃん、視線が少しだけ、泳いでいたのだ」
ふむ、鈴々は勘が良いから、気付かれてしまったか。
……まだまだ、私も未熟だな。
「太守様。袁紹軍の展開が速い、それを気にされておいでですか?」
そのやりとりを見て、田豊がそう言った。
「察しがいいな、その通りだ。袁紹殿は、勃海郡の太守。赴任までの日数や出陣の準備を考えると、何とも解せぬ話だとは思わんか?」
私の言葉に、田豊は考え込む。
「なるほど。進軍の向きからして、恐らくは同じく救援に赴かれるのでしょうが。詳細は確認する必要がありそうですね」
「それは、後回しで良い。まずは、韓馥殿の支援が第一だ」
「はい」
私は頷き返す。
「太守様。少し、周囲の地形を見ておきたいのですが」
「構わん。好きにするがいい」
「ありがとうございます、では」
田豊は軽く頭を下げ、騎乗のまま駆けていった。
「お兄ちゃん、一つ、聞いていいか?」
「何だ?」
「今回は、稟も風もいないのだ。大丈夫なのか?」
「軍師の事か?」
「そうなのだ。お兄ちゃんが考える事だから、平気だと思うけど。……でも、ちょっぴり心配なのだ」
無理もない、か。
田豊の人となりを確かめ、私なりには問題ないと言う想いはある。
……だが、何と言っても、今の田豊は無名。
稟と風は実績で信頼を勝ち得ているが、同じものを望むのは酷と言うもの。
口には出さぬが、前衛で指揮を執っている愛紗も、内心では鈴々と同じ事を考えているやも知れぬな。
……ちと、一芝居打つとするか。
「申し上げます! 黒山賊が、韓馥軍と交戦状態に入ったとの事!」
合流を急ぐ我が軍に入った知らせは、吉報ではなかった。
「そうか。ご苦労、新しい報告が届き次第、また知らせよ」
「はっ!」
伝令の兵を返し、田豊に目を向ける。
「さて、如何すれば良いか?」
「……は、はい」
愛紗と鈴々、主だった兵は、じっと田豊の言葉を待っている。
「そうだ。お前に、これを預ける」
兼定を鞘ごと、田豊に渡した。
「た、太守様? これは……」
「指揮はお前が執れ。それは、その証だ」
「…………」
「皆に申し渡す。此度は、田豊が全軍に指示を出す。従わぬ者は、軍規違反とみなし、斬り捨てる。然様、心得よ」
「……え、ええと……」
固まったままの田豊に、兼定を握らせた。
「如何致した。事態は一刻を争うのだぞ!」
「は、はいっ!」
弾かれたように、田豊は居住まいを正す。
「で、では。ゴホン」
咳払いを一つ。
うむ、もう戸惑いの色はないな。
「まず、このままの行軍では、韓馥軍との合流は不可能です。……そこで、まず噂を流します」
「噂?」
「そうです、関羽様。太守様の軍は、黄巾党征伐の際、賊軍からとても恐れられたと聞いています。そうですね?」
「そうだ。悔い改めた者は赦したが、そうでない者や所業が残虐非道な者には容赦しなかった」
「それに、連戦連勝という事もあります。そんな軍が自分達に向かっていると聞けば、どうすると思いますか?」
愛紗は少し考えてから、
「浮き足立つだろうな。少なくとも、警戒はするだろう」
「そうです。幸い、袁紹軍も向かっていますから、数については此方が多い、と思わせる事も可能です。そうですね、七万と号しましょうか」
数を多く見せるのは、心理戦の常道である。
「なるほど。だが、賊軍が先に韓馥軍を撃破してしまう、その可能性だってあるぞ?」
「無論です。……ですが、それは困難でしょう」
「何故、そう断言できる?」
愛紗が疑問を呈すると、田豊は微笑んだ。
「韓馥軍には、張コウ将軍と、沮授がいますから」
「張コウ殿はわかるが。沮授とは何者だ?」
「そうですね、韓馥軍の軍師兼司令官、と言ったところでしょうか。歳は僕と同じですが、才は太鼓判を押せますよ」
と、黙っていた鈴々が、口を挟んだ。
「でも、それなら鈴々達が助けに行く必要があるのか? 田豊の言い方だと、何だか大丈夫に聞こえるのだ」
同感だ、と言わんばかりに皆が頷く。
「……いえ。十分な備えがあって、かつ……」
「どうしたのだ?」
言い淀む田豊。
「……いえ、何でもありません。ただ、我々の救援なしには、黒山賊を支えきれない事だけは確かです」
「うー、よくわからないのだ」
「鈴々、後で説明を聞けば良いではないか。田豊、噂の流布だけが策ではないのだろう?」
愛紗の言葉に、田豊は表情を引き締める。
「勿論です。関羽様、騎兵二千を率いて黒山賊の背後に回り、撹乱を謀って下さい」
「撹乱か? 向かってきた賊はどうする?」
「軽く一当てしたら、引いて下さい。追ってきたら引き、引いたら追う。この繰り返しです」
「わかった」
「それから、張飛様。歩兵四千をお任せします。合図と共に、敵中突破をお願いします」
「突撃して粉砕、ではないのか?」
「いえ、それには兵数が心許ないですから。そのまま、韓馥軍と合流し、沮授に書簡を渡して下さい。書簡は、すぐに認めます」
「了解なのだ」
「そして、太守様。偽兵の計を用いますので、合図と共に、一斉に旗を掲げて下さい」
「うむ。お前はどうする?」
「太守様と共に。私は、軍師ですから」
そう言い切る田豊の言葉には、自信が漂い始めていた。
「では、ご主人様。行って参ります」
「お兄ちゃん、鈴々に任せるのだ」
二人を、田豊と共に見送る。
……ふと、田豊の肩が震えているのに気付いた。
「怖いか?」
「……はい。僕の策に、大勢の人の命がかかっていると思うと……。申し訳ありません」
「いや」
私は、その肩に手を置く。
「その臆病さも、必要な事だ。戦とは、いくら美麗字句を並べたところで、人同士の殺し合い。その責務の重さを忘れたものに、軍師たる資格はない」
「……はい」
「己の手を血で穢す。……こんな日々、早く終わらせたいものだな」
「太守様……」
田豊の震えが、止まったようだ。
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