開戦前夜
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第五章
「これからもな」
「露西亜を退けられたとしても」
「まだ苦しみは続く。しかしだ」
「はい、我々にも生きる権利はあります」
小村もまた必死の顔だった。彼は身に寸鉄も帯びていないがそこには剣、抜き身のそれが確かにあった。
それを手にして伊藤に言うのだった。
「私も及ばずながらその為に」
「わかっている、頼むぞ」
伊藤は小村の目を見据えて述べた。そうした話もしたのだった。
明治帝は御所において海軍を取り仕切る山本権兵衛の話を聞かれていた。そのうえで厳かな声で仰った。
「連合艦隊司令長官は東郷か」
「はい」
山本もまた謹厳な声で答える。
「あの者にしようと思っています」
「そうか、あの者は英吉利にも留学していたな」
「左様です」
「そして国際法にも詳しい」
「また将としての資質もあります」
「だからこそ司令に推挙するのだな」
「いえ」
山本は帝のこのお言葉には首を横に振った。
「そうしたこともありますが第一にです」
「第一に。何だ」
「あの者は運がいいのです」
山本は帝にこう答えた。
「だからこそ司令に推挙します」
「運か」
「戦いにおいて最後に必要なものは運です」
山本は言い切る。彼とて戦場を知っている、その彼の言葉だ。
「それがなければです」
「例えどれだけ資質があっても敗れるな」
帝も御存知だった。幕末の動乱をその目で御覧になられてきたからこそだ。
「それでな」
「その通りです。ですから」
「運のいい東郷に任せるか」
「それで宜しいでしょうか」
「わかった」
帝は小さく頷いて答えられた。
「では東郷にしよう」
「畏まりました」
「陸軍と海軍には奮闘してもらう」
帝はこうも仰った。
「生き残る為にな」
「そうです。ここで敗れれば何もなりません」
山本も同じ考えだった。彼とてもこの未曾有の国難のことはよくわかっていた、そしてだからこそだったのだ。
「ですから東郷です」
「あの者に任せるか」
「そうするべきです」
「打てる手は全て打っている」
誰もがそうしている。無論帝もである。
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