亡命編 銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第六十四話 訓練
宇宙暦 795年 7月 22日 第一特設艦隊旗艦 ハトホル ジャン・ロベール・ラップ
「どういう事だ、これは!」
艦橋にチュン参謀長の怒声が響き渡った。
「訓練が始まって未だ二日目だぞ、バーラト星系を出たばかりだ。何故ここで奇襲を受ける! 哨戒部隊は何をやっていた! 眠っていたのか!」
誰も答えられない。状況を確認したくとも妨害電波が酷く確認できないのだ。バツの悪い表情をする人間が多い中、ヴァレンシュタイン司令官だけが指揮官席に座り無表情に戦術コンピュータを見ている。
「妨害電波が止まりました、通信機能回復します」
「司令官閣下、通信が入っています。スクリーンに映します」
オペレータが妨害電波の停止と通信機能の回復を告げ、さらに通信が入っている事を告げた。おそらくは敵の指揮官だろう。ワイドボーンか、ヤンか……。
『やあ、ヴァレンシュタイン提督、残念だな』
ワイドボーンが満面に笑みを浮かべてスクリーンに映った。この野郎、こっちの気も知らないで……、ヤンなら済まなさそうな顔をするだろう。ワイドボーン、お前を一発殴ってやりたい気分だ。そう思っていると奴が俺を見てニヤリと笑った。絶対一発殴ってやる。
「御見事、と言った方が良いのかな、ワイドボーン提督」
『どちらかと言うとそちらの錬度の低さが原因だな。こうまで簡単に奇襲が成功するとは思わなかった』
余計な御世話だ、この野郎。お前は昔からそういう嫌味な奴だ。チュン参謀長はこめかみを引き攣らせていたが、奇襲を受けた原因を調べるべく哨戒部隊に連絡を取り始めた。 俺もその作業を手伝う、参謀長だけに負担はかけられないし、奴の顔など見るのも嫌だ。
「仕方が無いでしょう。寄せ集めですからね、現状ではこんなものです」
本当にそう思っているのだろうか、そう思わせる口調だった。まるで他人事のようだ、感情が見えない。いかんな、聞こうとは思わないのだが聞こえてくる。作業に集中できない。さっさと通信を切れ、ワイドボーン。
『まあそうだな、……だがいつまでもそれに甘えてはいられん。戦場に出れば帝国軍は待ってくれんからな』
ワイドボーンの声が真剣なものになり、ヴァレンシュタイン司令官が頷いているのが見えた。確かに何時までも寄せ集めという現状に甘えてはいられない。でもな、お前に言われたくないんだよ、ワイドボーン。いかんな、どうしても視線がそちらに行く。
「そうですね、帝国軍は待ってはくれない……。第一特設艦隊が戦場に出れば帝国軍は我々を叩き潰そうと躍起になるはずです。私を殺そうと次から次へと押し寄せるに違いない……」
司令官の声に司令部の要員が顔を見合わせた。今更ながらヴァレンシュタイン司令官が帝国から憎まれているのだという事を認識した。
スクリーンに映るワイドボーンが頷いている、そして面白くもなさそうな口調で話しだした。
『その通りだ、今のままではあっという間に二階級特進だ。同盟史上最年少の元帥の誕生だな』
ヴァレンシュタイン司令官が微かに苦笑を漏らした。
「ブルース・アッシュビー、リン・パオ、ユースフ・トパロウルを超えますね……。同盟史上最大の英雄、エーリッヒ・ヴァレンシュタイン元帥は帝国からの亡命者か、なかなか笑えますよ」
ヴァレンシュタイン司令官が笑いだした。笑い声が耳に痛い。
『冗談を言っている場合か、お前、どうかしてるぞ、ヴァレンシュタイン』
呆れたような口調と表情だった。ミハマ中佐が二人の会話をクスクス笑いながら聞いている。良い度胸だ。
「冗談を言うことぐらいしか出来そうな事は有りませんからね。……第一特設艦隊は二十四時間、現場にて待機します」
『……了解した、こちらは先に行っている』
通信が切れるとヴァレンシュタイン司令官がチュン参謀長に顔を向けた。
「奇襲を受けた原因は?」
司令官の問いかけに参謀長の顔が歪む。無理もない、原因は碌でもないものだったのだ。
「哨戒網に穴が有ったようです。哨戒部隊の一つが担当範囲とは別の場所を哨戒していたと……。第一艦隊にはその穴を突かれました。ただ、何故そうなったかはまだ不明です」
周囲から溜息が洩れる音がした。おそらく呆れたのだろう、そしてやはりという思いも有るはずだ。哨戒部隊が迷子になるのではないかという不安は当たりはしなかったが見当はずれでもなかった。役に立たない哨戒に何の意味が有るのか……。
報告を聞いてもヴァレンシュタイン司令官の表情が変わることは無かった。目を閉じて左手で右肩を押さえ摩る様にしている。以前負傷した場所だと聞いているが痛むのだろうか?
「会議を開いて原因の特定と対応策を検討してください。急ぐ必要は有りません、二時間ほど休息を入れてからの方が落ち着いて出来るでしょう」
「了解しました」
「我々は二十四時間ここで待機することになります。乗組員には交代で休息を取らせてください、貴官達も会議終了後は交代で休息を取ってください」
「待機時間終了は明日の十五時になります。十三時には総員を配置につかせ出航に備えさせます。宜しいでしょうか」
参謀長の問いかけにヴァレンシュタイン司令官は頷いた。相変わらず目は閉じたままだ。左手で右肩を摩るのも変わらない。
「哨戒活動はこのまま続けさせてください」
「続けるのですか? 待機中ですが」
訝しそうにチュン参謀長が声を出すとヴァレンシュタイン司令官は肩を摩るのを止め閉じていた眼を開けて参謀長を見た。
「待機中ではありますが訓練を中断したわけではありません。第一艦隊が再度奇襲をかけてこないとは限らない。それに……、第三艦隊の所在は確認できているのですか?」
参謀長がきまり悪げな表情を浮かべた。
「いえ、確認は出来ていません」
ヴァレンシュタイン司令官の眼が僅かにきつくなった様に見えた。
「二十四時間の待機は二十四時間の休息ではありません。奇襲を受け損害を出した艦隊が再編するのに二十四時間を必要とする、そういう事です。再編中に周囲を警戒しないなど有りえません。第一、第三艦隊は敵です、これは実戦を想定した訓練なのです。総員にそれを徹底させてください、そうでないと何のための訓練か分からなくなる」
眼だけではない、声も先程までとは違う。明らかに司令官は怒っている。ミスを犯した事よりも訓練の意味が理解出来ていない事を重視しているようだ。司令官が視線を我々司令部要員に移した。皆気まり悪げにしている。
「しばらく此処を離れます。後をお願いします」
「……閣下、会議には参加いただけるのでしょうか?」
立ち去りかけたヴァレンシュタイン中将が足を止めチュン参謀長に視線を向けた。
「……私が居ないほうが話しやすいでしょう」
「ですが」
「私が会議に入るのはもう少し後の方が良いでしょうね。今入ってもプラスにはならないと思います」
「……」
さりげない口調だったがチュン参謀長を口籠らせるのには十分な内容だった。おそらく我々の意識が低すぎて話しにならないと見ているのだろう。そしてその事は自分の口から言うよりもチュン参謀長の口から言わせた方が良いと判断したに違いない。飾らずに言えば相手に出来るレベルでは無い、そういう事だ。
「怒っているのでしょうか」
デッシュ大佐が口を開いたのは司令官が艦橋から立ち去ってからだった。それまでは口を開くことを憚るような空気が艦橋に有った。
「怒っているだろうな……、それに呆れているかもしれん」
チュン参謀長の言葉に彼方此方で溜息を吐く音が聞こえた。訓練二日目で奇襲を受けている、呆れられても仕方がないだろう。しかも哨戒する場所を間違えたなど怒る以前の問題だと思っているかもしれない。そして我々の意識の低さも問題だと思っているだろう、情けない限りだ。
「ミハマ中佐、貴官はどう思う」
デッシュ大佐が問いかけると中佐はクスクス笑いだした。
「司令官閣下はそれほど怒ってはいないと思いますよ」
皆が戸惑った様な表情をした。あれで怒っていない? それは無いだろう。
「そうかな、結構きつい事を言われたと思うんだが」
「あれは注意しただけです、とても怒ったとは言えません。デッシュ大佐、司令官が本当に怒ったときは冷たく見据えられるか、笑顔になります。笑い声を上げたら最悪ですよ、皆凍りつきますから。ブリザードが吹き荒れるんです」
司令部要員全員の顔が引き攣った。頼むからニコニコしながら怖い事は言わんでくれ。想像したくない……。
二時間後、旗艦ハトホルの会議室に司令部要員、分艦隊司令官が集まった。コの字型に並べられた会議卓、その正面にはヴァレンシュタイン司令官の姿は無い。怖い司令官が居ないのだ、会議室の雰囲気は明るいとは言えなくともごく普通であって良いはずだ。だが、現実には全員が苦虫を潰したような表情をしている。司令官が居たら皆無表情になっていただろう。
「つまり何か、哨戒任務などやったことのないど素人が哨戒任務を行ったという事か、しかも御丁寧に座標を間違った……」
チュン参謀長がうんざりした口調で吐き捨てた。頭が痛いのだろう、しきりにこめかみのあたりを指で揉んでいる。
「無理も有りませんよ、元は星系警備隊、星間警備隊なんです。哨戒任務なんて真面目にやったことは無い、極端な事を言えば、せいぜいその辺をぶらついていただけです。今回の訓練もその調子で行った。で、いきなり奇襲を食らって慌てている……」
ブレツェリ副参謀長も同じようにうんざりしているのが分かる口調だ。
「国内の警備隊などそんなものでしょう。軍の艦を襲うものなどいない、哨戒などする必要が無いんです。同じ軍でも実戦経験が有るか無いかで全然違う」
スコット准将だ。元々国内の補給部隊の警備が主任務だったと聞いている。実情は良く知っているという事か。だったらもっと早く言ってくれればよいのに……。
「念のため、奇襲を受けた時点での各哨戒部隊の位置を確認しました。八つ有る哨戒部隊の内三つが本来居るべき位置に居ませんでした、今回の奇襲は偶然では有りません、必然と言って良いでしょう」
俺の報告に会議室の彼方此方で溜息が洩れた。天井を見る者、俯く者、頭を抱える者、皆様々だが笑顔だけは無い。
テーブルの上にはコーヒーが用意されているが誰も飲もうとはしない、そんな気分にはなれないのだろう。喜びの女主人の会議室は陰鬱な空気に染まっていた。
「ラップ少佐、今は大丈夫なんだろうな。また訳のわからん所を哨戒している、そんな事は無いだろうな。ここで奇襲を受けたら司令官閣下がどう思うか……」
「御安心ください、参謀長。会議が始まる前に位置を確認しました。問題は有りません」
誰も安心したような表情をしていない。まあ当然だろう、哨戒部隊の位置を司令部が一々確認しなければならないとは……、呆れてものが言えない。
「錬度が低すぎる、寄せ集めである事は分かっていたが此処まで酷いとは……。この状態で戦場に出たらあっという間に二階級特進だな。この艦隊が帝国軍から眼の敵にされるだろうという事を皆分かっていない」
「ここ最近大きな勝利が続いているからな。二万隻という数にも安心しているのだろう」
ホーランド少将、ワーツ副司令官がぼやく様な口調で話している。会議室の空気が更に暗くなった。陰々滅々、そんな感じだ。皆、現状の悲惨さに頭を抱えている。二階級特進、現実味を帯びてきた。ジェシカ、どうしよう……。
「司令官閣下は御存じなのかな、この現状を」
キャボット少将の言葉に皆が顔を見合わせた。自然と視線がチュン参謀長に向かう。参謀長が渋い表情で答えた。
「或る程度の予想はつけていたと思う。会議への参加を要請したが自分が居ない方が話しやすいだろうと言われた。自分が会議に参加するのはもう少し後の方が良いだろうと……」
「どうやら気遣って貰ったらしいな。確かに司令官閣下の前でこんな情けない話は出来ん、首を括りたくなる……」
ビロライネン准将が溜息交じりの口調でぼやく、周りからも溜息が聞こえた。
会議室のドアが開いた、ミハマ中佐が笑顔を浮かべながら中に入ってくる。会議室が緊張に包まれた。中佐は司令官から何か言われてきたのかもしれない、皆そう考えたのだろう。
中佐は手に結構大きいサイズのピクニックバスケットを持っていた。会議卓に近づくと“ヴァレンシュタイン提督からの差し入れです”と言ってバスケットの中から小さな菓子入れを取り出してテーブルの上に置いていく。全部で四つ、俺の前にも一つ置かれた。中にはクッキーが入っている、美味しそうだ。
「中佐、提督からの差し入れと言ったが貴官が作ったのかね」
「いいえ、提督が作ったんですよ、コクラン大佐。とっても美味しいんです」
ミハマ中佐の答えに皆の視線がクッキーに集中した。一瞬にしろ毒入りかと思ったのは俺だけではないだろう。皆が厳しい視線でクッキーを見ている。
「提督からの伝言が有ります。急ぐ必要は有るが焦る必要は無いとのことです。艦隊を精強ならしめるのは訓練が終了するまでに実現できれば良いと……。先ずは現状をきちんと把握して欲しいと言っておいででした」
そう言うとミハマ中佐は軽く一礼して会議室を出て行った。後にはクッキーと困惑した空気が残っている。
皆が顔を見合わせた。
「……残すのは拙いでしょうな、……捨てるわけにもいかない」
沈黙の後に悲痛とも言える声を出したのは俺の隣に座っていたウノ少佐だった。クッキーをじっと見ている。確かに残すのは拙い、捨てるのも論外だ。となれば食べるしかない。会議室の空気が更に重くなった。
「小官が先陣を切ります、後を頼みます」
待て、ウノ少佐、後を頼むとはどういう事だ? 食べてくれという事か? 大体何でクッキーを持つ手が震えている?
クッキーがウノ少佐の口の中に入った。皆、じっとウノ少佐を見ている。
「……美味しい、ですな」
どっと疲れた。俺だけではあるまい、皆気が抜けたような表情をしている。
「そ、そうか、美味しいか。では私も一つ頂いてみよう」
チュン参謀長がクッキーを一つ掴む。少しの間クッキーを見ていたが口の中に運んだ。
「うむ、大丈夫だ、確かに美味しい。提督からの差し入れだ、皆も食べてくれ」
大丈夫とはどういう意味だろう、一瞬そう思ったが考えるのは止めた。そんな事よりも俺もクッキーを食べなければならない。一つ手にとって口に運んだ、確かに美味しい。彼方此方で美味しいという声が上がった。
少し休憩を入れようと参謀長が提案し、皆が賛成した。冷めたコーヒーを熱いコーヒーに代え、クッキーをつまむ。うむ、間違いなく美味しい。あの冷徹、非情、峻厳と言われる司令官がクッキーを作る……。エプロンを着たのだろうか、それとも割烹着か……。似合いすぎる、思わず噴き出しそうになった。
「急ぐ必要は有るが焦る必要は無いのだ。提督の仰る通り、先ずは現状を把握する事だ」
「参謀長の仰る通りですな。そこから問題を片付けていけば良いでしょう、幸い提督は現状をきちんと認識しているようだ。無理な事は言わないと思います」
チュン参謀長とブレツェリ副参謀長がクッキーをつまみながら話している。先程とは違って表情が明るい。
「今の第一特設艦隊は最低のレベルに有ると思う事だ。これから先は上がるだけだと思えば良いだろう、我々が暗い顔をしては兵達の士気が下がる一方ではないか」
「同感だ、良い酒を作るには時間がかかる。焦らずじっくりと仕込めば良い」
デュドネイ准将とビューフォート准将だ。その隣でマリネッティ准将が頷いている。マリネッティ准将だけではない、皆が頷いていた。
会議が終わったのはそれから二時間後の事だった。休憩後は嘆く事よりもどうすれば現状を変えられるかを中心に皆が意見を出した。参考になったのはスコット准将の経験だ。国内の補給部隊の警備が主任務だった准将の話を皆が聞きたがった。准将も最初は恥ずかしがっていたが徐々に話してくれた。
実りある会議だったと言えるだろう。会議が終わった時には皆がこれからなのだと口々に言った。俺もそう思う、第一特設艦隊が精強になるのはこれからなのだ。ワイドボーン、いずれは借りを返してやる、倍にしてな。
クッキーは全てきれいに無くなっていた……。
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