亡命編 銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第六十五話 地雷
宇宙暦 795年 7月 23日 第一特設艦隊旗艦 ハトホル ミハマ・サアヤ
二十三日の十四時、出航一時間前になりました。出航に備え総員が配置に付いたのは更に一時間前の十三時の事です。当然ですが艦橋にはそれ以前に司令部要員全員が揃っています。そして各分艦隊からは十三時を過ぎると待ちかねたように“出航準備良し”という連絡が入ってきました。
艦橋では司令部要員が忙しく情報を確認しています。各哨戒部隊の位置、報告の確認、さらに哨戒のローテーション、補給位置の確認……。チュン参謀長、ブレツェリ副参謀長の元にそれらが集められ、二人が最終確認を行う……。
良い意味で艦橋には緊張感が満ちています。昨日有った何処かヴァレンシュタイン提督に遠慮するような、萎縮するような空気は何処にも有りません。おそらく、そんな余裕は無いのでしょう。それほど第一特設艦隊には問題が有るのです。そしてそれを皆が理解している……。
そんな彼らをヴァレンシュタイン提督は指揮官席に座って黙って見ています。色々と思うところは有ると思います、自ら作業の指揮を執りたいとも思っているでしょう。誰よりも仕事が好きな司令官にとって黙って見ているのは苦痛だと思いますが、それでも口を出すことはしません。私は昨日この艦橋で有った事を思い出しました。
ヴァレンシュタイン提督の命令で会議室にクッキーを運んだ後、艦橋に戻ると提督はシェーンコップ准将と三次元チェスをしていました。ヴァレンシュタイン提督が仕事をせずに遊びに興じているのは珍しい事です。
「閣下、会議室にクッキーを置いてきました」
「有難う、で、どうでした、様子は……」
「あまり良い雰囲気ではなかったと感じました」
私の言葉にヴァレンシュタイン提督は少し苦い表情で“まあそんなものでしょう”と呟きました。
「歯痒いのではありませんかな」
幾分冷やかす様な、茶化す様な口調でシェーンコップ准将が提督に話しかけました。そして駒を動かします、もしかして心理戦をしかけているつもり? ちょっと可笑しくなりました。提督がこの手の心理戦で負けるとは思えなかったからです。
ヴァレンシュタイン提督が無言で駒を動かしました、シェーンコップ准将が一瞬提督を見てから駒を動かします。状況は提督が有利のようです。提督相手に心理戦は無謀ですよ、シェーンコップ准将。
「何故、御自身で指示を出さないのです。その方が効率は良いと思いますが……」
「それでは駄目なんです。それではこの艦隊は地雷を抱えたままですから」
地雷? その言葉に私とシェーンコップ准将は顔を見合わせました。
私達の様子が可笑しかったのでしょう、ヴァレンシュタイン提督はクスッと笑いましたが表情を改めると駒を動かしてから話し始めました。
「この艦隊の地雷が何か、分かりますか?」
シェーンコップ准将が難しい顔をしてチェス盤を見ています。動かした駒を見ているのか、それとも地雷の事を考えているのか……。
「この艦隊が寄せ集めの集団だ、などという事ではなさそうですな」
「それは既に見えています、そして皆が除去しようとしている。確かに地雷かもしれませんが危険度は少なくなりつつある。いずれはゼロになるでしょう」
准将がチェス盤から視線を私に向けました。
「中佐、貴官は分かるかね?」
「……皆が提督を必要以上に怖がっている事でしょうか?」
私の答えに提督は傷ついたような表情を浮かべ、シェーンコップ准将は大きな声で笑い出しました。
「なるほど、確かにそれは有りそうだな」
シェーンコップ准将がちょっと冷やかす様な口調で提督を見ています。そしてさりげなく駒を動かしました。提督は何か言いかけて口を閉じ苦笑してから話し始めました。もっとも視線はチェス盤を見ています。
「この艦隊の地雷が私、という事では合っていますね。私は指揮官としては失格なんです、それがこの艦隊の地雷です」
シェーンコップ准将がちょっと驚いたような表情をしています。私も多分似たような表情をしているでしょう。提督が指揮官に向いていない?
「よく分かりませんな、私は貴方ほど指揮官に向いている人は居ないと思いますよ。貴方は状況判断が的確だし運も良い、何より貴方は常にクールだ。貴方の下に居れば武勲が立たないまでも長生きが出来そうだとおもっているんですが……」
シェーンコップ准将が上官の品定めを本人の目の前で行いました。大胆というか何と言うか、ヴァレンシュタイン提督は苦笑していますが本来こんな事は許されない事です。ですが評価そのものは私も間違っているとは思いません。
確かに提督ほど指揮官に向いている人は居ないと思います。何よりも兵の命を大切にする気持ちの強さはどんな提督も及ばないでしょう。誰よりも指揮官に相応しい人だと思います。
「過大評価ですね、その評価はヤン提督にこそ相応しいでしょう。まあ、それはともかく私は身体が丈夫じゃないんです、月に一度は寝込んでいる。もし戦闘中にそんな事が起きたらどうします?」
「……」
「指揮官の役割は決断する事です。その指揮官が居なくなる……、艦隊は混乱するでしょうね」
私もシェーンコップ准将も言葉が有りません。提督は笑顔を浮かべています。その口調は冗談を言っているように軽やかでしたが笑顔は何処か寂しそうに見えました。
私はずっと提督の傍に居ました。だから提督の事は良く知っているつもりです。前線、後方の両方で傑出した能力を持っている提督は軍人としては完璧に近いと思っています。多少身体が丈夫ではない所もそれほどハンデになるとは思っていませんでした。でも提督自身はそうは思っていなかった……。周囲には悟らせませんでしたがいつも何処かで自分の身体の事を遣る瀬無い気持ちで思っていたのかもしれません。
「参謀であれば問題は有りませんでした。私が倒れてもヤン提督、ワイドボーン提督が穴を埋めてくれたはずです。実際私はこれまでかなり無理をしたと思います、多分あの二人を無意識のうちに頼っていたのでしょう」
「……」
「ですが今度はそうはいきません。あの二人を頼ることは出来ない……。この艦隊の中でその危機を凌がなければなりません。そのためにもチュン参謀長を中心にまとまって貰わなければならない……、チェックですよ、准将」
シェーンコップ准将が難しい顔をしてチェス盤とヴァレンシュタイン提督を見ています。先程までの面白がるような表情は有りません。低い声でゆっくりとヴァレンシュタイン提督に問い掛けました。
「だから会議の中に入らないと?」
「そうです」
「……この実戦を想定した訓練もそれが理由ですか、バラバラな彼らをまとめるには敵が必要だ。単にこの艦隊の欠点を見つけるという事だけではなく敵を与えその敵と戦う事で一つにまとめる……」
シェーンコップ准将が駒を動かしました。
私は提督と准将を交互に見ました。准将は険しい表情を、ヴァレンシュタイン提督は嬉しそうに笑みを浮かべています。
「鋭いですね、シェーンコップ准将。ならばもう少し推理を働かせてみてはどうです?」
「推理?」
シェーンコップ准将が訝しげな表情をしています。私にも分かりません、一体提督は何を推理しろというのか……。
「第三艦隊が何処に居るか……、分かりませんか?」
「第三艦隊……」
シェーンコップ准将が考え込んでいます。第三艦隊は私達同様ランテマリオを目指しているはずです。ただどのルートを使うかは分かりません。私達はリオ・ヴェルデ経由でランテマリオを目指そうとし第一艦隊の奇襲を受けました。同じようにリオ・ヴェルデ経由を使うのか、それともケリム経由か。
第一艦隊の奇襲を受けた直後の提督を思い出しました。哨戒活動の継続を命じる提督に対しチュン少将が疑問を呈した時の事です。“第三艦隊の所在は確認できているのですか”。提督は第三艦隊の所在を知っているようです。
提督が私と准将を交互に見ました。悪戯っぽい笑みを浮かべています。
「ヒントを差し上げましょう、ワイドボーン提督もヤン提督も第一特設艦隊が寄せ集めの烏合の衆だという事を知っています、それが危険だという事も……。この訓練はそれを克服するために用意されました。訓練の最大の目的は第一特設艦隊を精強ならしめる事……」
「訓練の最大の目的は第一特設艦隊を精強ならしめる事、ですか……。そうか、ケリム星系、そういう事か……」
呻くようなシェーンコップ准将の言葉でした。私にもようやく分かりました。第三艦隊はケリム星系に向かっています。
提督が嬉しそうに笑い声を上げました。
「その通りです、第一艦隊はリオ・ヴェルデ星系、第三艦隊はケリム星系の二手に分かれて第一特設艦隊を鍛える役を担っているのですよ。私達がどちらの航路を選んでも奇襲できるように」
「ワイドボーン提督が我々を挑発するような物言いをしたのもわざとですか。敢えて悪役を演じる事で敵対意識を煽った……、第一特設艦隊を一つにするために……」
呆れたような准将の口調でした。提督は嬉しそうに笑みを浮かべて准将を見ています。
「ワイドボーン提督は良い仕事をしてくれましたよ。ヤン提督ではああはいかない」
そう言うと提督がまた笑い声を上げました。
「やれやれ、酷い話ですな。ミハマ中佐、そうは思わないか」
「酷いですが、提督らしいと思います」
シェーンコップ准将が笑い出しました。私も笑うしかありません。提督も苦笑しています。
「一番酷いのは貴女ですよ、ミハマ中佐」
提督のその言葉にまた准将の笑い声が上がりました。
一頻り笑うと提督は表情を改めました。笑みを収め厳しい表情をしています。
「リオ・ヴェルデに向かうまでに最低でもあと一度は奇襲をかけてくるでしょう。その後はワイドボーン提督次第ですね。リオ・ヴェルデ以降は航路が複数に分かれます。こちらの進路をどう読むか、向こうも決して楽な訓練ではない……」
提督の言葉にシェーンコップ准将が頷きました。ヴァレンシュタイン提督、ワイドボーン提督、ヤン提督。今回新たに艦隊司令官になった三人はいずれも若いのです。それだけに周囲の反発は必至でしょう。それを跳ね返すのは実力だけです、抜擢に応える事でしか跳ね返せません。訓練をおろそかには出来ません……。
「閣下、出航時間まであと一時間です。出航準備整いました」
チュン参謀長の報告にヴァレンシュタイン提督が頷きました。
「哨戒部隊からの報告は?」
「異常ありません。第一、第三艦隊が至近に居る形跡は有りません」
「哨戒部隊は後方にも配置していますか?」
「配置してあります」
チュン参謀長は落ち着いています。それだけ自信が有るのでしょう。提督もそれが分かったのだと思います、微かに笑みを浮かべました。何となく嫌な予感が……。
「注意してくださいよ、第三艦隊は我々の後方に居る可能性が有ります。第一艦隊は最低でももう一度は奇襲をかけてくるでしょう。奇襲が成功すればその時点で第一艦隊に奇襲をかける……。二個艦隊が二十四時間待機になるのです。後はランテマリオを目指せば良い……」
「なるほど」
参謀長が提督の指摘に頷きました。他の司令部要員も顔を見合わせて頷いています。確かに有り得る話だと思います。私も第三艦隊がケリム星域に向かっている事を知らなければ頷いていたでしょう。
「或いはその逆のパターンも考えられますな。我々が第一艦隊に奇襲をかけた直後に第三艦隊が我々を襲う……」
シェーンコップ准将です。不敵な笑みを浮かべていますが表情だけでなく内心でも面白がっているに違いありません。此処にも根性悪が居ました。
「確かに……。もう一度哨戒を徹底させます。此処は敵地なのだと念を入れましょう」
チュン参謀長の言葉にブレツェリ准将、デッシュ大佐、ラップ少佐達が哨戒部隊に連絡を入れ始めました。それを満足そうに提督と准将が見ています。多分第一特設艦隊の司令部はこれからもヴァレンシュタイン提督とシェーンコップ准将に苛められるのでしょう……。
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