すれ違い
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
2部分:第二章
第二章
髪の毛は和風に上に結い上げている。化粧は目を切れ長にさせ唇を紅くさせている。眉は目に合わせ顔は白粉で白くさせている。それでおそらく本来からであろう美しさをさらに際立たせていた。彼は今その美貌をその目にはっきりと焼き付けたのである。
「これはまた」
「美人だな」
「いや、嘘みたいな」
見てみると達哉よりさらに見入っていた。
「これ程の御婦人が東京におられるとは」
「東京にか」
「東京に美しい女はいない」
何故かこう言う幸次郎だった。
「そう聞いていたからな」
「誰からそんな戯言を聞いたのだ?」
「兄からだ」
呆然としたまま答える幸次郎だった。
「僕の兄からだ」
「君の兄さんというと確か」
「そうだ。今は大蔵省にいる」
つまり官僚になっているというわけだ。
「その兄から聞いたのだが。そして今まではそうだと思っていたが」
「その認識が変わったか」
「変わったどころじゃない」
そう言っている間にも女は少しずつ二人の前にやって来る。二人も前に向かって歩いているからその距離は近くなっていくのは当然だった。
「あんな美しい人は。はじめて見た」
「大袈裟だと思うが?」
「いや、大袈裟じゃない」
しかもそれを否定する幸次郎だった。
「僕は嘘は言わないな」
「確かに」
これは達哉も知っていた。幸次郎はとかく一本気な男で裏表がない。このことは彼もよく知っているのだった。学友としてである。
「それはそうだな」
「だからだ。今度も嘘じゃない」
そしてまた言うのだった。
「あんな奇麗な人は。とてもな」
「そうか」
「しかしだ」
彼女がさらに近付いたところで言葉を止めた。
「もう近いな話を止めるか」
「うむ、そうしよう」
「そしてだ」
幸次郎の方から話を変えてきた。
「君、今度の我が校と例のあの学校との交流試合だが」
「確か今度は剣道だったか」
「そう、それだ」
幸次郎は演技で達哉の言葉に頷いた。
「それだがな」
「今度は勝てそうか?」
「さて、どうかな」
腕を組んで首を捻ってみせる。
「相手もかなり有望な一年生がいるという」
「一年生か?それならそれ程怖くはないだろう?」
「いや、それがな」
話しているのは演技だがその内容は事実であった。
「これがかなりの腕前らしい」
「そんなになのか?」
「直心影流免許皆伝らしい」
「というとあの」
「そうだ、あれだ」
幸次郎は達哉もこの流派を知っていることがわかってさらに言った。
「あの薪割り剣法と言われたな」
「やはりあれか」
「そうだ。だからかなり手強いぞ」
「我が校の危機だな」
「間違いなくな」
こう二人で話す。その間に幸次郎は横目でその美女を見る。その顔は艶やかでありそれでいて清楚さも持っている。相反する二つのものを持った不思議な美女であった。
彼女がすれ違ってその姿が遠くにいってから。幸次郎は話題を元に戻すのだった。
「横顔も後姿も」
「美しいか」
「あそこまでの美人は見たことがない」
ここでも彼はこう言うのだった。
「今までな」
「惚れたとでもいうのか?」
「冗談はよし給え」
今の言葉は少し真剣に咎めた。
「そうした言葉は好きではない」
「それはわかっているがな」
「では止めてくれ。いいな」
幸次郎の言葉はさらに強いものになった。
「それにしてもだ」
だがそれでも美女の顔が印象に残った。その印象深い顔を思い出しつつ達哉と共に己の大学へ向かう。大学での講義を終え夜になると。学友達と酒を酌み交わすのであった。
「ところでだ諸君」
「どうした?」
学友のうちの一人千坂明人が不意にそこに集っている面々に声をかけてきた。右手に杯、左手に干物を持ちそのうえで話している。
「この前話していた小説のことだが」
「芥川だったか?」
「そうだ。芥川龍之介のな」
「あの作家の作品は作品によって文章を変えているな」
恰幅がよく大柄な明人とは正反対に小柄で細い神奈昭光が芥川について述べた。
「時には候文が出て驚いたものだが」
「あの作家の教養は並ではないらしいな」
明人は昭光の話を聞いて静かに述べた。
「本朝に関するものはまず古典についてかなり詳しい」
「うむ、確かにな」
「支那や西洋のことにもかなりのものだしな」
「そういえば海軍で英語を教えていたそうだな」
芥川の最初の仕事はそれであったのだ。すぐにその異才ぶりをさらに発揮し作家に専念することになった。彼は元々英語畑の人間なのだ。
「それを考えれば当然か」
「ではあの作風はそちらの素養もあってのことだな」
「そうなるな」
明人はあらためて学友達の言葉に頷く。
「これからが楽しみの作家だな」
「確かにな」
「然るにだ」
ここで学生でありながら軍人の如き口髭を生やした者が言った。津田友喜である。
「林君」
「むっ!?」
「今日の君は少しおかしいな」
こう彼に対して言うのだった。
「どうしたのだ?いつもなら文学の話なら乗ってくるというのに」
「そういえばそうだな」
「しかもだ」
明人と昭光もここで幸次郎を見て言った。彼等は全部で五人いた。幸次郎も含めて。
ページ上へ戻る