すれ違い
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
1部分:第一章
第一章
すれ違い
林幸次郎はいつもその道を通っていた。その道が通学路だったからだ。
東京の静かな道。また人が増えたこの街で数少ないものになった静かな道だった。
そこを通りつついつも同じ宿舎にいる学友達と何かしらの話をしていた。話の題目はその日その日で違っていたがこの日は軍に関するものであった。
「では君は陸軍の方がいいというのか」
「そうだ」
幸次郎は毅然としてその学友の一人である浜崎達哉に応えた。二人共きりっとした顔をしていて学生服と学帽の上にマント、それに皮の靴といった格好だ。如何にも大学生といった格好である。その格好で端整な姿勢で天下国家を語り合う姿が実に絵になっていた。
「僕はそう思うぞ」
「それは何故だ?」
「海軍はとかく予算がかかり過ぎる」
こう主張していた。
「だからだ。その感覚でやられては財政に負担がかる」
「財政か」
「今我が国の財政は苦しい」
幸次郎は眉を顰めさせて言った。
「それも非常にだ。それを考えれば」
「海軍主導では駄目か」
「僕にしろ海軍の拡充はやるべきだと思う」
どうやら軍備の話をしているらしい。
「しかしだ。それは予算、ひいては国家あってのものだ」
「国家あってのものか」
「海軍、いや軍隊は何の為にある?」
彼は達哉に対して問う。
「何の為にあるのか」
「我が国を護る為だ」
「そうだ。ではそれが国家の財政を苦しめる状況はどうなのか。本末転倒ではないのか」
「いや、それは仕方ないだろう」
しかし達哉は達哉で己の主張があった。
「確かに露西亜は倒した」
「うむ」
「そして欧州での戦乱で勝者につけた。しかしだ」
「まだ敵がいるというのだな」
「亜米利加だ」
達哉の顔に剣呑なものが走る。
「亜米利加がいる。東のあの国がな」
「亜米利加か」
「あの国を甘く見てはいけない」
こう強い声で主張してきた。
「決してな。だからこそ海から来る彼等に対して」
「備える為にも海軍をか」
「僕はそう考える」
こう述べて己の主張の根拠としてきた。
「亜米利加に備えるのだ。海軍を整備してな」
「それは一理あるな」
幸次郎もそれは認めた。
「亜米利加は信用できないところがあまりにも多い」
「君もそれには同意か」
「西班牙のことは知っているか」
「西班牙か」
「そうだ。露西亜との戦争の前に亜米利加と西班牙の間で戦争があったな」
「うむ」
所謂米西戦争である。この戦争は戦争自体は早期に終結したがアメリカという国にとっては非常に大きな意味を持つ戦争だったのだ。
「あれで亜米利加は多くのものを得たな」
「その通りだ」
達哉は幸次郎の言葉に頷いてみせる。
「玖馬やフィリピンだけではない。そこを足掛かりにして」
「亜細亜を狙うな」
「間違いない。亜米利加が狙うのは支那、そして」
達哉の言葉がまた鋭く、かつ強いものになる。
「我が国だ。だからこそ海軍は必要だ」
「一理ある」
幸次郎はまた達哉の言葉を認めた。しかしであった。
「だが」
「だが。何だ?」
「やはり海軍は金がかかり過ぎる」
「また金か」
「何度も言うが国庫に負担をかけては何にもならない」
あくまでここを指摘するのだった。
「それでは本末転倒だ。しかもあの戦争以後軍はかなり変わっていっているそうだな」
「そうなのか?」
「ローズ君から聞いた」
不意に横文字の名前が話に出てきた。
「彼からな」
「ローズ君というと彼か」
「そうだ。あの英吉利から来ている留学生だ」
その留学生の言葉を話に出すのだった。
「彼が言っていた。あの戦争では塹壕があり」
「うむ」
「そして飛行機があり戦車があった」
「それは僕も知っているが」
「それだけではない。戦い方も随分変わったという」
彼が言うのはこのことだった。
「それを学び軍を然るべき形にしていかなければならない。陸軍をな」
「だから君は今は海軍に予算を回すべきではないというのか」
「今は只でさえ陸軍が重要になっている」
幸次郎はまた一つ話を出して来た。
「半島も台湾も護らねばならないしな」
「半島か」
「既に二個師団を新設している」
日韓併合後に新設されたその二個師団である。これは朝鮮半島防衛の為だ。なおこれを新設するにあたって陸軍はよく言えば必死に、悪く言えばかなり強引に主張した。その存亡をかけて主張したと言ってもいい。この結果当時の内閣である西園寺公望内閣は総辞職しかわって政権に就いたのは長州藩出身で陸軍の領袖の一人でもあった桂太郎だ。しかし彼は元々既に二度宰相を経験しており色々な政治的取引もあり政権を担当しない約束があり彼もその気はなかった。しかし陸軍のこの問題を抑えられる人物として元老の中でも指導者であり尚且つ陸軍の最高権力者でもあった山縣有朋に指名され首相となった。なお桂はこれにより激しく批判を浴び二個師団増設問題を処理した後総辞職している。そのすぐ後に死去していることからこれが彼の命を奪ったのは明らかである。
「しかしそれだけでは駄目だ」
「数の次は質か」
「その通りだ」
彼は言った。
「質だ。兵器とその運用のな」
「そこまで見ているのか、君は」
「これもローズ君から聞いたことだ」
またその英吉利からの留学生の名前を出したのだった。
「やはりこれからは大いに変えなければならないらしい。陸軍を」
「そうか。しかし陸軍はな」
「僕達は外から言うことしかできないな」
「そうだ。やはり陸軍は軍人の世界だ」
当時はその区分は完全にされていたのだ。
「士官学校を出た軍人達がやることだ。大学の僕達がやることじゃない」
「それが残念だな」
「しかし論ずることはできるからな」
「そうだ。まず言うことだ」
幸次郎は生真面目な顔で右手を拳にして語る。それはまさに演説をしている姿であった。
「言わないと何にもならない」
「その通りだな」
「そうだ。では浜崎君」
「うん」
「今宵も友人達と杯を交えながら語るか」
「酒はあるのか」
「それならおかみさんが用意してくれた」
宿舎のおかみさんがである。
「僕達の為にな。一升瓶を何本もな」
「ではそれを飲んで語るとするか」
「そうしよう」
酒の話も入るのが学生らしかった。どちらにしろ二人は大真面目に議論しつつ歩いていた。しかしここで不意に二人の横をある女が前から来たのだった。
「むっ!?」
最初に彼女を見たのは達哉だった。
「ほう」
「どうした、浜崎君」
「いや、見給え林君」
彼に対して声だけで見るように告げる。
「前から来るあの御婦人を」
「御婦人をか」
「不謹慎なことを言うが実に美しい」
楽しげに笑って幸次郎に言うのであった。
「あの御婦人は。実に」
「むう」
幸次郎は達哉のその言葉を受けてその婦人を見ることにした。そうして見てみれば。
赤い紅色の小袖を着た二十二か三の妙齢の女であった。その着物は絹で見事な艶がある。それに桃の花の刺繍が奇麗に入れられている。その着物が彼女が持っている白い日笠とよく似合っていた。
ページ上へ戻る