Lirica(リリカ)
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ヴェルーリヤ――石相におけるジェナヴァ――
―6―
6.
そうして、明けない夜の神殿はついぞ無人となった。屍は長き術から解かれ、音もなく腐敗を進行させつつあった。肉体を失くしてなおこの世に繋ぎとめられていた亡霊達も、もはや跡形もなく消え去った。
群晶の間に、水晶を透過した月の光が集まった。月光は、白銀の髭と、白銀の髪、白銀の瞳を持つ老人の姿を形作った。
老人は、かつてヴェルーリヤが寝室として使用していた一室に入った。テーブルに置かれた黄鉄鉱をパチン、パチンと打ち鳴らすと、火花が散った。
魚の脂のランプに火を入れると、その明るさに驚き、悪戯っぽい笑みを浮かべた。老人はランプをテーブルの上に置き、自分自身は何も持たず、壊れた木戸と屍を跨ぎ越し、テラスに出た。
夜空には渦巻く炎の円があった。老人の姿は光となって散り、その光は余さず炎の渦に吸いこまれていった。
※
老人は白い世界を、レレナの巫女の気配がある方へ歩いて行った。無数に浮かぶ窓の半数が青空を映し、燦々と降り注ぐ日の光を取りこんでいた。もう半数の窓は、月のない夜の闇に塗られている。
その世界で、老人は、昼と夜、女と男、火の精霊と水の精霊が、決して和合する事なく在る様子を見た。
レレナの巫女ブネは、蔦で編まれた床に座りこんでいた。腕に、ぐったりと眠りこんでいるヴェルーリヤをかき抱き、幾度となく口づけを繰り返していた。ブネの様子はまこと幸せそうであり、老人が眼前に立つまで、その存在に気付きもしないほどであった。
ブネは老人を見上げた。そして、畏れ、ヴェルーリヤを抱く腕に力をこめた。
「返してはくれんかね」
老人は優しく声をかけた。
「それは、生きているのだよ。悪いが、気に入ったからといって、物のようにくれてやるわけにはいかん」
胸に押し付けるように、ブネはヴェルーリヤを抱き直し、その額に頬ずりをした。
「それは、ここに来て一度でも目を覚ました事があるか?」
老人はなおも辛抱強く、ブネに語りかけた。
「随分と衰弱しておるな。このままこの世界にいたら、長くはもたんじゃろう」
ブネは強く首を横に振った。頬を伝う涙が振り払われ、蔦で編まれた床に落ちた。
「それは月の光の中でしか生きられんのだ」
そう話しながら、歩み寄り、ブネの前で膝を屈めた。そうして両腕を突き出して、ヴェルーリヤを渡すよう要求した。
「頼むよ。返してほしいんだ。それは私の息子なんだよ。死なせたくはない」
ブネはなおヴェルーリヤを抱きしめ、拒んでいるばかり。
「巫女よ、お前はその男を愛しておるのか? それとも、その男の屍が欲しいのかね?」
その言葉に、ブネは怯えて肩を震わせた。そして、何かに気付いたように、ヴェルーリヤの顔を凝視した。
「死んでしまってはどうにもならんのだ。さあ、返してくれ」
始終無言であったブネが、ゆっくりと唇を開いた。
「月があれば、この方は、生きてゆけるのですか」
か細い声であったが、老人は確かに聞き取った。
「そうだ」
「ならば、私は月が欲しい。月を下され」
「ならぬ。王の荒野の彼方に、この男の棲家はある。この男の月もまた、その地にあるのだ」
ブネの涙が二滴、三滴、ヴェルーリヤの頬に落ちた。
「王の荒野――」
「そうだ。お前がその地にたどり着くまで、しばしの別れぞ」
老人は、老人が持つ安らぎの力をほんの少しだけ巫女に行使し、その腕を緩ませた。老人、神ルフマンは、ヴェルーリヤをその腕に抱えて、ブネに背中を向けた。
ブネはルフマンの術によって深い安堵と満足を与えられ、代わりに思考力を失った。彼女は去りゆくルフマンの背を、陶然とした眼差しで見送った。
体に温かい神気が流れこみ、ヴェルーリヤは意識を取り戻した。ぼんやりと目を開け、己の体を抱いて歩く老人の顔を目にした時には、疑いようもないその正体を理解していた。
ルフマンは罰を下すだろうとヴェルーリヤは覚悟した。あれほど間近にいて正体に気付かず、数々の無礼な発言に加え、魔術を用いて刃向ったのだ。しかしルフマンは、予想を裏切り、ヴェルーリヤを彼の寝室のベッドに優しく寝かせた。寝室にはランプの炎が揺れていた。ルフマンはヴェルーリヤが目覚めている事に気付くと、穏やかに微笑みかけた。
「確かに、人間は、お前が思っていたようなものではなかったな」
そう語りかけながら、ルフマンはヴェルーリヤの肩口の、槍で突かれてできた傷を撫でた。傷はたちまち消えた。
「私はその事を初めからわかっていた。それでもなお、願いをかなえ、お前をこの世に生み落とした私が憎いか?」
ヴェルーリヤは首を横に振り、掠れた声で辛うじて答えた。
「いいえ、神よ――」
答えながら、数々の言葉を用いて神ルフマンに縋った数えきれぬ日々を想った。人間の体を返し、もとの存在に戻りたいと願った。ルフマンは願いを聞き入れなかった。しかし、決して、見放されてはいなかったのだ。見捨てられては。
「生きろ。それでもお前は、お前の嫌いな人間を救って生きてゆけ。お前自身の為に」
ルフマンは、両手でヴェルーリヤの右手を包みこんだ。
「生き切れ、ヴェルーリヤ。命の続く限り」
その手から生気を分け与えられるのを感じた。これまでの非礼を詫びなければならないと思ったが、言葉が出なかった。
ヴェルーリヤは、ただ一言、「はい」と答えた。ルフマンは満足そうに微笑みながら、月の光に融けこむように消えていった。ヴェルーリヤもまた満足であった。ルフマンは自分の傍から消えてしまったのではない。目には見えねども、傍にいるのだ。自分だけではなく、ルフマンを想い信仰する全ての人の傍に、寄り添っているのだ。今ではそれがよくわかった。
自分だけが特別な存在なのではない。命というものが、それぞれ、他に二つとない意図を持って生まれてきたのなら。それゆえに崇高であるのなら。高く清らかな世界から、誤って落ちて来たのではないのなら。命ある者が、間違って生まれてきたのではないのなら。
生まれ落ちた日と同じように、ヴェルーリヤは横たわったまま涙を流した。その姿を、真円に満ちた月が照らしていた。
長らく閉ざされていたルフマンの神殿の門が軋みながら開き、中から一人の青年が姿を現した。青年は裏の洞窟にまわり、小舟を漕いで島から出て行った。小舟は、かつてジェナヴァと呼ばれた町があった方角に消えて行った。
小舟が見えなくなった後、小島の神殿では、白々と夜が明け始めた。
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