| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

Lirica(リリカ)

作者:とよね
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

王の荒野の王国――木相におけるセルセト―― 
  ―1―

 1.

 光が一つ弾け、無我の闇が破れた。目覚めつつある自我が、男の声を認識した。
「死者ニブレットよ、我に従え」
 こうしてセルセト国第二王女ニブレットは、果てなき死の闇から現世に引き戻された。
 目に入る空には厚い雪雲が敷き詰められていた。点々と群れを成して浮く影は、魔術師たちが操る木巧魚(きこうぎょ)で、薄暗い静寂の下、哨戒を続けているのだ。
 覆いかぶさるように、魔術師の姿が視界に入った。黒い法衣で身を包み、顔はヴェールで隠している。見えるのは顎と口だけだ。
「サルディーヤか」
 ニブレットの言葉に、魔術師の口から癇に障る笑みが消えた。
「わかるぞ、貴様の名が」
 ニブレットは仰向けに寝かされた姿勢から、手をつき、起き上がった。石床に直接寝かされていたのだが、寒いとも、冷たいとも感じなかった。自分がいる場所を観察する。屋根と壁の一面が跡形もなく消し飛ばされた建物だった。
「わかる」
 ニブレットはなおも呟いた。
「貴様の腐術は私に対して不完全なようだな」
 魔術師サルディーヤが忌々しげに舌打ちをした。ニブレットは腐術の実行者の指示もなしに、自ら歩き、崩れた床の縁に立った。
 見下ろすセルセトの都の通りは深い雪に覆われていた。木巧魚たちが戦いの炎を放った痕跡が、雪に混じる煤から見て取れた。雪の中には、兵士達によって見せしめに破壊されたネメスの木兵(もくへい)達の残骸が散乱していた。目を凝らせば、木兵を操る蜂たちの、体を丸めた死骸も見える。
 しかし、自分を殺したのはどうやら木兵でも蜂でもないようだと、ニブレットは思った。ちぎれた手首を縫合する糸が、その思いを裏付けた。指で体をなぞった。喉や、肩や、膝も、同じように縫合されていた。

 ※

 一日と数時間前、ニブレットは都を見下ろす野営地で浅い眠りに就いていた。眠りの夢の中に、赤い光が三度瞬いた。木巧魚たちの報せだ。緊急の軍議が開催される。ニブレットは起き上がった。侍女オリアナが、一糸纏わぬ姿で同衾(どうきん)していた。ニブレットは燃えるように赤い髪をかき上げ、オリアナに毛布を掛け直してやると、服を着て、マントを羽織り、音も立てずにテントを出た。
 司令のテントには、既に将校たちが集まっていた。どうやら皆、自分を待っていたらしい。ニブレットは二人の魔術師、サルディーヤとベーゼの間に立った。
「時間がない。本題に入る」
 連隊長カチェンが低い声で告げた。
「都の包囲戦の芳しくない戦況は皆の知っての通りだ。都の西の森に展開するタイタス国イグニスの火焔兵団の数八千、南の丘陵に展開するネメスの木兵隊が一万五千、王の荒野に至る東の平原では七千五百の魔術木巧兵団が操る巨人機兵どもが展開し」
 ニブレットはうんざりして溜め息を漏らした。
「北の黒の山脈の麓には、巨人機兵により分断された我ら魔術連隊が取り残されているというわけだ」
「して、連隊長、我が軍の方策は」
「話を急ぐな」
 ニブレットには、カチェンがどこか困惑しているように見えた。
「今夕、王の荒野にて渉相術師レンダイルが死亡した」
 何人かが息をのみ、また訝しみ眉をひそめた。ニブレットもまたそうした。カチェンは、レンダイルが戦死したとは言わなかった。レンダイルは病を患っていたわけでもなく、老衰で死ぬ気配もなかった。
 渉相術師レンダイルは魔術の才が非凡であるばかりか、調略の達人であり、聖王ウオルカンにとって不可欠な存在であった。それはセルセト国にとって不可欠である事と同義であり、いよいよ絶望が将校たちの表情に、笑顔という形で広まり始めた。その終末期的な笑顔は、続くカチェンの言葉で皆の顔から消え去った。
「その死の直後、荒野に展開していた全ての軍が、敵味方の別なく消滅した。荒野にある種の異変がもたらされたとの事だ」
「その異変とは」
「知らぬ」
 カチェンはいらいらして言い放った。
「だがその事で俺を責めるな。孤立した我々が情報を得る手段は限られている――唯一この野営地に生還した木巧魚の情報によると、王の荒野の彼方では、石相との境界が曖昧になっているそうだ。レンダイルの死の理由は定かではないが、何らかの術の影響であると見て間違いないだろう。今後、石相からどのような脅威がもたらされるかは予測しがたいが、我々はこれ以上手を(こまね)いているわけにいかん」
 指令を下す際の癖で、カチェンは別に歪んでもいない剣帯に触れて直す仕草をし、絶望的な声で言った。
「王の荒野の異変により巨人機兵隊は相当の打撃を受け動揺している。南方のネメスの木兵隊より兵力の補充が行われ、その作業により我らに対する注意が薄れている。薄明、我らは東の包囲を突っ切り、セルセトの都の守備隊と合流する」
「恐れながら、それは――尚早では――」
 小心者のベーゼが口ごもりつつ意見した。彼は三年前、敵地タイタス国にてありもしない火焔兵団の増援の噂に怖気づき、それによってイグニス包囲戦に大敗した前科がある。カチェンに睨まれ、彼は太った体をぶるぶると震わせた。
「案ずるな。我らの増援が背後の黒の山脈を回りこみ、合流地点に迫りつつある」
「その増援は如何ほど」
「七百」
 いよいよ将校たちは乾いた笑い声をあげ始めた。ニブレットも薄笑いを浮かべ言った。
「憐れな事だ。その兵達は何をしに来るのだ? 死にに来るのか?」
「口を慎め」
 上官は憎まれ口を叩く第二王女に、苦々しい口調で命じた。その後、沈黙した。いささか長く感じられる沈黙であった。
「……木巧魚によれば、王の荒野では何者かが『瑠璃の界』より魔力を引っ張り、垂れ流しているらしい。王の荒野は通れる状況ではない。まして敵にとって戦場として布陣できる状況ではな。我らには今しかない。それを各々、胸に刻みつけろ」
 相の上位単位は階層、さらにその上位単位が界である。渉相術師レンダイルは瑠璃の界よりその魔力を得ていたはずだ。
「何者かが、レンダイルが最期に為した術を引き継いでいる、という事は考えられませんか」
 静かにサルディーヤが言った。
「陛下はこの戦が劣勢になるや、レンダイルと不仲になり、かの術師が何を企んでいるかと不穏に感じておられたと聞き及びます」
「いかにも、陛下とレンダイルの不仲は公然の秘密というものだ」
「それゆえ陛下は、ナエーズ平定の英雄イユンクスをレンダイルのもとに探りに行かせたと」
「そのイユンクスだが、先ほど王の荒野より北の隘路を通ってこの野営地に来た。死体でな」
 またも、魔術師達の緊張と沈黙。
「それを運んだ兵によれば……レンダイルの命令によってだ。イユンクスの(ざま)を見ろとな。何が起きたか、我らに知れという事だ」
 言うなり、カチェンはテント内を区切る厚い幕を払った。並べられた酒樽の上に、麻の遺体袋が安置されていた。カチェンは剣を抜き、遺体袋に突き立てた。カチェンは政略によって、妹を英雄イユンクスに嫁がせた過去がある。その妹は酒席にて、戯れに、イユンクスに斬り殺された。そんな事を思い出しながら、何が起きるかを、ニブレットは冷ややかに見る。
 カチェンの剣が遺体袋を直線に裂いた。その裂け目から湿り気のある白い粉が、音を立てて流れ出た。遺体袋は間もなく平らになったが、人の形をした物は残らなかった。カチェンはその粉を、人差し指に付けた。
「舐めてみるか」
 色を失う将校たちを見るや、彼は嬉しそうに人差し指を舐め、狂気の滲む目で笑った。
「塩だ」
 沈黙を破るのは、隣に立つ男、サルディーヤだ。
「人を塩に変える力を、私は一つしか知りません」
 ニブレットが後を引き継ぐ。
「歌劇、『我らあてどなく死者の国を』。死の神ネメスの託宣を受けた発相の巫女によって書かれ、第一幕の上演のみで水相を滅ぼした」
「然り。全ての相を震撼せしめる……恐怖の力だ」
「すなわち、魅了の力」
 サルディーヤの言葉に、カチェンは重々しく頷く。
「近習の者の噂に過ぎぬが、レンダイルは件の歌劇の追究に執心であったと聞く。確かに残された第二幕の台本を手に入れれば、その者は木相のみならず、全ての相を支配しうる」
「レンダイルはそれを手に入れたのではないか?」
 将校の一人が言った。カチェンは応じる。
「我が連隊の仕事は、王の荒野で起きた出来事の真相の追求ではない。話は以上だ」
 その後連隊長カチェンは、壊れた木兵達から飛び出した無数の蜂に全身を覆われた。正気を失い、手足をばたつかせて走り回り、地に伏せて尚もがいていた姿が、最後に見た彼の姿だ。生きてはおるまい。ニブレットは朝日が昇るのを目にした。戦火の神ヘブの力が彼女の体に流れこみ、彼女はそれを魔術に変換し解き放った。
 ニブレットは二体の巨人機兵を灰燼に変えた。記憶が途切れる寸前、己の体を切り裂く魔力を感じた。一瞬の出来事であり、ニブレットにできた事といえば、ただ最期の魔力の全てで隣のオリアナを庇う事だけであった。

 ※

 壊れた建物を出ると、オリアナが雪の中を、息を切らして走ってきた。短く切った琥珀色の髪にも雪が吹きつけ、凍っている。目に隈が浮き、薄い鎧は血まみれのままだ。
「ニブレット様! 何という痛ましいお姿……」
 オリアナは肩で息をしながらニブレットの前に(かしず)いた。
「私がおそばにおりながら……申し訳ございません!」
 ニブレットは薄く笑った。この年下の娘は、ニブレットの気に入りの侍従だった。情熱的な瞳が良い。ニブレットはしゃがみこみ、オリアナの顎に指をかけた。そうして上を向かせると、荒れた紫色の唇に、己の唇を重ねた。
「屍の口づけは不味いか?」
 オリアナの青白い頬にさっと朱が差し、瞳に情熱の輝きが戻った。
「とんでもございません。嬉しゅうございます」
 足音を立てて、後ろにサルディーヤが立った。ニブレットは苦々しい思いで立ち上がり、話題を変えた。
「オリアナ。ブネは何をしている」
「変わらず白の間におこもりになられたままでございます、ニブレット様。侍従長が説得を試みておりますが、入室さえままならぬと」
「ふん……無能が!」
「ニブレット、王宮で陛下がお呼びだ」
 サルディーヤが冷たい声で言った。
「聖王が? 何用だ」
「言って直接聞くがよい。その内容を伝えるのは、私には過ぎた仕事だ」
「どうせ大した用事ではなかろう。私には父に会うのに先んじてやらねばならぬ事がある」
「何だ」
「貴様の知った事か。オリアナ、ついて参れ」
 一方後ろを同行するオリアナに、ニブレットは微笑みかけた。
「戦死した私がまたも戦場に立つ事が許されるか、戦火の神ヘブにお伺いを立てる必要がある」
 ニブレットは王宮の、身分の低い客人用の門を、黙っているよう門番に言いつけて密かに通り抜けた。彼女は敷地内に建てさせたヘブを祀る神殿の入り口にオリアナを待たせて、一人中に入った。
 神殿内は雪雲の光のほか光源はなく、司祭の姿も消えていた。戦火の神ヘブは、灼熱と極寒の小さな地獄の星を従えた馬頭の神である。黒曜石の祭壇の奥には、魔力によって回転する二つの星に守られた、馬頭の神像が安置されていた。ニブレットは身廊に片膝をついた。
「緋の界にまします我が神ヘブよ、我ニブレットは先の戦により落命し果てたが、腐術により予期せぬ蘇生を果たしました。本来であらば生前の誓いに則り御国にてお仕えすべきこの身、人の世の戦の掟に背き、またも戦場に立つ事が許されましょうか」
 ニブレットは黒々と光る馬頭の像を見つめる内、額が疼き、ひどい耳鳴りと眩暈を感じ始めた。神像が緋の光を纏っているように見え、その内頭の中の後ろのほうに、直接ヘブの声を感じた。
「本来であれば許される事ではない」
 黒曜石の祭壇が一瞬、何者かの(まなこ)を映しだした。
「しかしながら、この度の蘇生はお前の予期するところではなく、悪意や謀略によって余に背いたのではない。またお前はよく余に仕えておる。余がお前の求めに応じて一つの火種を授ければ、お前は百の命を余の国に送りこみ、また余が凍裂の息吹を授ければ、お前は千の命を余の足許に送りこんだ。そなたの才覚と働きは、余の崇拝者の中でもぬきんでておる」
「有難きお言葉、恐悦至極に存じます」
「以後も余によく仕えるならば、二度目の死が訪れるまで戦場に立つ事を、崇拝者ニブレットに許す。台座の剣を取れ。以後はその剣によって命を刈り取るがよいぞ」
 ニブレットは畏れ多くも神ヘブの台座に歩み寄り、その台座に挿された漆黒の剣を恭しく抜き取った。
 その黒々とした刀身に、ニブレットは灼熱の業火と、炭になり果ててなお踊り狂う、永遠に身を焼かれる人々の姿を幻視した。刀身を返すや、今度は、凍てつく氷原の果て無き行軍を見た。痩せこけた人々が一糸纏わぬ姿で重い荷を曳かされ、その体は風雪によって切り裂かれ、血が流れていた。更に彼らは手、足、首を鎖によって拘束され、凍りついた鎖が更に、彼らの凍傷を悪化させるのだ。
 二つの幻視によって、ニブレットはこの剣で命を奪われた者の魂の行く先を察した。
「有難く頂戴いたします。この剣を抜く事を躊躇いはしますまい……私は慈悲深い性質(たち)ではございませぬゆえ」
 ヘブの乾いた笑い声が、頭内に響き、消えた。


 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧