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Eve

作者:ぱすた
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第一部
第一章
  二人の仕事(2)

結局あれから数時間ほども通りを歩いてみて、生者がいれば話し相手を務めようと尽力し、転がる骸があれば浄化への祈りを込めて弔う。今日もいつもと変わらずに仕事に明け暮れれはみたものの、今日もまともに返事を返してくれた生者は一人もいなかった。みながみな俯き、俺たちが声をかけようとも微動だにせずに、死んだような虚ろな目で地に視線を落とし続けているだけ。こちらが必死に微笑みかけても、反応など一切返ってこない。
今日に限ったことじゃないけれども、何とも言えない無力感に襲われるこの感覚は、いつまで経っても慣れそうにはなかった。
……最後に、俺たちの問い掛けに応答してくれた人。見つけたのはいつだったか。
美羽と二人で帰路を行きながら、足元に視線を放り投げながらボーっと考える。
第四……いや、第五大通りで出会った人、だっけか。瓦礫の下敷きになったとかで、片方の腕を失った若い男性。
曖昧な記憶を辿りつつ、徐々に記憶の引き出しから当時の記憶を抜き出していく。
その人も結局、俺たちが配給所の話を持ち掛けてみても、あまり乗り気じゃなかったんだよな。事実、一度もあの人の顔を配給所で見た記憶もないし……。
思い返せば、あの人も俺たちと話しているときにもほとんど笑顔を見せなかった記憶がある。憂いを帯びたような表情、何に意識を向けているかもわからない、焦点の合っていないかのような視線は、やっぱり生きる希望の宛てがないことの表れだったのだろうかと。
今更になって思う。やっぱりこの仕事をやっていて報われることは滅多にないことなのかと。
「……」
俺は俺の後ろをとぼとぼとついてくる美羽に、視線だけ向ける。美羽もさっきまでの俺と同じように、地面に視線を落とし、ただボーっと俺の後をついてきているだけのような。心ここにあらずと、美羽の様子が今日の仕事でほとんど何も得るものがなかったということを如実に示していた。
「美羽。疲れたか?」
「……うん、少しね。」
美羽は顔を上げずに答えると、少しだけ歩くペースを上げ、俺の横に並んだ。顔は足元に向けたままで。互いの歩調が合わさり、狭い路地裏で誰とすれ違う隙間もないまま、俺たちは歩き続けた。
時折ぶつかる肩。ちょっと触れ合ってはお互いに引っ込める手。美羽の様子を覗うと、まだ美羽の視線は地に落ちているようだった。
本当に疲れてるみたいだな……。
俺は口を噤んだ。これ以上特に言葉をかけることもなく、美羽の家の近くに着くまで。すっかり暗くなった道を、路上の僅かな灯火を頼りに俺たちは歩き続けた。細い路地裏を抜け、灯火がより一層多くなった第二大通りを道なりに進み、また細い路地裏に入り、また抜けて……。
幾度となく同じような道筋を辿り、どれほど歩いたかもよくわからなくなった頃。ようやく俺たちの目の前に、農場に隣接した一棟の平たいサビのような色をした一軒家が姿を現した。
レンガ造りと言ったか、以前に美羽に「この家、サビでできてるみたいだよなぁ。」とかなんとかうっかり口走ったときにはひどい目にあった記憶はまだ新しい。まあ、色合いがサビっぽいのは前々から思っていたことだけれども、それでもやっぱり統一されたムラのない外壁面と、この街の住家らしからぬ壮麗な佇まいからも、この街にありふれたサビついたトタン造りではない、気品に溢れた素材で作られているということは疑う余地もなく。やっぱり美羽の家が多少なりとも裕福な家系をなのだということも、疑いようもない事実なのだと見るたびに思う。
俺たちは美羽の家の玄関口に到着するまで、一緒に歩調を揃えて歩く。やがてたどり着く、所々のひび割れや塗装落ちは目に留まるけれども、それでも白く映える支柱に支えられた屋根付きの玄関。俺は玄関の手前で立ち止まり、俺の横を並んでいた美羽の背を押した。
「ほら、美羽。ゆっくり休んで。」
「うん……」
美羽の背中に軽く触れたか否か、ゆっくりと美羽は玄関口へと歩き出した。徐々にひらいていく距離。俺は、今日も疲れの色を隠せていない美羽の背中をじっと眺め続けた。
「ねぇ、恭夜くん。」
「ん?」
ふと、立ち止まる美羽。声をかけられ、返事を返す俺。だけれども、美羽はこちらを向かずに、玄関口を見つめたまま言葉だけ紡ぐ。俺は美羽の言葉を待った。
「……やっぱ、なんでもない。」
「そうか?」
歯切れが悪く、特に俺に伝えることもなく美羽は口をつぐんだ。そのまましばらく、美羽は無言でその場に立ち尽くしていた。歩き出そうか歩き出さまいか、それに何かと葛藤しているようにも見えるけれども、美羽はただ無言で。ただ時間だけが刻一刻と過ぎていく。
……んー、最近あまりやってこないと思ってたけど。あれかな。
脳裏を過る一つの答え。美羽の行動の理由に、一つだけ思い当たる節があった。
「美羽。」
「……」
スッと俺の方を振り返り、疲れ切った顔を覗かせた美羽。今日はまた一段と疲れている様相だけれども、俺は僅かに口角を上げて玄関口の前でこちらを向いて立ち止まる美羽の方へと歩み寄った。
詰め寄る距離。さっきまで少しづつ開いていた距離が、今度はまた少しづつ縮まっていく。
「恭夜、くん?」
俺たちの20cm以上もある背の差。美羽が近づく俺を見て、見上げるように顔が上を向いていく。俺は特に何も言葉にせず、近づく美羽との距離はもう手を伸ばせば触れられる距離。俺は最後の一歩を踏み出して、ゆっくりと美羽のサラッとした横髪を梳かすように手を通し、後頭部へと回した。
「あ……」
美羽の小さく、漏れるかのような声が、俺の胸元から俺の鼓膜を震わせた。俺は美羽の後頭部をもう少しだけ強めに抑える。
「なんか久しぶりな気がするけどな。」
「……うん。」
美羽は強張ったように身体をピンと張りつめていたけれども、徐々に抜けていく体中の力み。美羽はいつのまにか俺の胸元に、ぽすっと頭を預けるようにして顔を埋めていて……。
久しぶりだな。美羽をこうやって抱きしめるのも。この前は俺たちの目の前で老人が、落下してきた住居群の瓦礫に押しつぶされたときだっけか……。泣きじゃくりながら、こんなぽすって感じじゃなくて、もっとこう押し付けるようにさ。ずっと泣いてたときが、たぶん最後。
今日は俺からだったけど、これでいいんだよな。美羽。
「そんなに疲れたんだ、今日は。」
「……ちょっと、ね。」
胸元にかかる美羽の僅かな重みが、少し圧を増す。ふと気づいた時には、いつの間にか美羽は両手で俺の胸倉辺りを握りしめ、瞳を閉じて深く顔を埋めていた。
俺はもう片方、空いていた左手を美羽の背中に回した。そっと触れて、おずおずと力を込めてゆっくりと抱き寄せて。少しでも、美羽の不安とか疲れが消えるならこれくらい、なんともない。
抑えられない胸の高鳴りを抑えるように、俺は美羽を優しくも力強く抱きしめた。
むしろ早くなった鼓動が聞かれないかとも思ったけれども。でもそんなことを気にするような美羽じゃないよな。友人の心臓の鼓動が早くなったなんてことを、その友人にわざわざ言うなんてこと。からかうでもない限り、きっと言わない。それに美羽は今でこそこんなに感傷的になってるけど、元気な時には俺をいろんな言動でいじってくるようなやつだもんな。
小さくて暖かい美羽の頭。押さえる右手に力が篭る。
そもそも、俺には……イブがいる。あっちの世界に戻れば、イブが待っていてくれてるんだ。
「……」
また、美羽の頭を支える手に力が篭ったような、そんな気がした。同時に俺の心に小さく刺さる棘が、急に疼いたような。そんな気も。
「……恭夜くん、ありがと。」
「え?」
「今日はさ……」
いったん言葉を途切り、口を閉じる美羽。少しの間が空いて……。
「恭夜くんの方から……こうしてくれたから。」
美羽は俺の胸元に埋めた顔は上げずに言った。美羽の小さく動く口、俺の服越しに肌を撫でていく美羽のまだ温かい吐息の感覚がくすぐったい。
「まぁ……たまにはな。」
駆け巡る二つの想い。俺はとても美羽を直視することはできず、視線を逸らせて頬をぽりぽりとかいた。顔をちょっとだけ上げた美羽が俺のその内心には気付かずとも、妙な様子に気付いたのか、俺を上目づかいで見据えながら小さく微笑んだ。
「あったかいなぁ……」
「……そ、そうか。」
俺は美羽から視線を逸らしながら。でも、美羽の頭を押さえていた手は今はすでに、さらっと流れるような美羽の髪を梳かすように、頭を撫でるようにさすり続けていた。美羽が、もう大丈夫と名残惜しそうに俺の胸元から自分から離れていくまでは、ずっと。休むこともなく、いつまでもそうしていた。
「……」
やがて俺の胸元から離れ、俺の両の手の束縛を解き放つように一歩……二歩と距離を開ける美羽。俺はその道を塞ぐことなく、美羽の頭を撫でていた左手は宙に浮かせ、美羽の背中を支えていた右手は、重力に逆らうことなく俺の身体に沿うようにしてぶら下げた。
少しだけ俺から離れた場所に立ち、紅潮した頬と少しだけ上目づかいの目線で俺のことを見つめる美羽。特に何の意図があるわけではないとわかってはいるけれども、それでも少しドキッとしてしまう気持ちは、慣れることのない女の子との小さな触れ合いが織り成す青春の、その喜びに叫ぶ心の声だと。いつだかイブに教わったな……。
「恭夜くん。また明日ね。」
「あ、ああ……またいつものところで、かな。」
少しぎこちない口調になってしまうが、その俺の一言に微笑む美羽。広場とは言わずにいつものところと俺は言う。明日は広場ではなく、俺と美羽だけが知る二人の集合場所。今日とは違う仕事が待っている。
向きを変え、とうとう距離が開いていく美羽の背中を眺め続ける。美羽が玄関口に立ってぴょんとこっちを振り返り、俺に手を振ってくれるまでの間はずっと。
「……」
手を振り返す。やがて美羽が満面の笑みを浮かべつつ玄関の奥へと消えていくまでの間、ずっと。美羽が扉の奥へと消え、やがて訪れる静寂に、ようやく俺は両の腕を重力に逆らわせることなく下げた。
……ちゃんと、帰ったな。
最後までしっかりと家の戸が閉じられたことを確認し終えた俺は、人っ子一人通らない美羽の家の前で、しばらく一人立ち尽くした。ただ、ボーっと立ち尽くすだけ。何も考えずに、視線だけを美羽の家。二階の美羽の部屋辺りを眺めながら。
音の鳴りやんだ世界。無音が耳に痛い。それだけが、今の俺が感じる唯一の刺激だった。
「……帰るか。」
とりあえず美羽も家に送り届けたし、今日すべきことは全て終わった。特に成果があったわけじゃないけれども、無駄な一日を過ごしたわけでもない。充分に充実した一日だった。
俺は身を翻し、美羽の住む家に背を向けた。若干後ろ髪を引かれる気持ちを断ち切り、一歩を踏み出すと、自然と二歩目三歩目と足が動き出す。しかし、さっきまでの美羽との一連の行為が、折節俺の脳裏を駆け巡っては褪せていく、この妙な不安に駆られる想いが俺の心をチクチクと刺す。
美羽のこと、確かにこの世界の誰よりも意識している人間だとは思う。自分の心にバカ正直に問いかけてみたとしても、たぶん同じ答えが返ってくるだろうし、そのことで自分の心を騙すようなことはしない。
骸の数も増えてきた路地裏へと差し掛かり、暗い足元をしっかりと見据え踏みしめて歩く。
でも……俺はこの世界だけに生きてるわけじゃない。もう一つ、違う夢の世界とこっちの世界。二つに生きている。現状では、ほぼ真逆の性質を持つ理想郷と……この世界。
「……」
そして、あっちの世界にはイブがいる。こっちの世界で一番……意識しているのが美羽だとしても、あっちの世界で俺を待ってくれているイブと美羽。どちらを優先すると聞かれたら……俺は迷わずにイブを選ぶだろうと。そう思う。
確かに俺だって、美羽が俺に心を寄せてくれているとは思わない。あまり気にすることでもないのかもしれないけれども……さっきみたいなことがあると、ついつい意識してしちまう。いくら美羽が意気消沈していた、心身ともに疲弊していたからと言ってもさ。心の底から好きだというわけではない女の子を、この手で自ら抱きしめるだなんてこと。
なんとなくさ……悪い気がしてきちまうってもんだろ?なぁ、イブ。
道行く路地裏に転がる無数の木材やら建材やらが、俺の行路を阻むが、気にも留めず。建材が転がっていればその上を。トタンやら石ころが転がっていれば、跨ぎ蹴り飛ばし進む。
……それでもやっぱり、俺はイブを優先する。いくら、美羽が俺のことを嫌っていなかったとしても。俺が美羽のことをこの世界の誰よりも意識しているとしても。俺の世界のイブには適わない……。
俺が道行く先々に待つこの光景だって、毎度変わり映えのない死に満ちた世界であり、現実。昼か夜かなんてことすら、この世界では些細な問題にすらもならない。
でも、俺が今から行くであろう世界には、希望に満ちた世界があり、理想が待つ。どちらかの世界を選べと言われて、誰がこちらの世界を選ぶのか。
単刀直入に言う。好きな人がいる世界で、理想郷とも呼べる世界と。このこれ以上の廃れようがない、死に瀕した世界との何を比較対象にすればいい?
もちろん、この世界を捨てたいわけじゃない。むしろこの世界を、俺の理想とするあの世界に近づけたい。今のこの腐れきった、死に瀕した世界を何とかして変えたいと。だから俺と美羽は行動しているのに……。
路地裏を抜け、ようやく俺の部屋が属する住居群が俺の右脇に聳え立つ。今日も通りの凄惨さは語るにも心苦しいほどで、俺は目を逸らして前を見据えながら歩き続ける。
でも、二者択一。どちらかしか選べないのならどちらがいいかとなれば……この世界に選びたいと思える要素は限りなく零に等しかろう。変えたいと思う心を退けるかのごとく日を追うごとに姿を悪しくし、俺の目に映り込むこの世界を選ぼうと思える理由。
そんなもの、どうやったって見つからないじゃないか。
すっかり闇に包まれて、灯火がなければ道行くことも危ぶまれる大通り。軒並み立ち並ぶ巨大な住居群のうちの一つ。灯火に浮かび上がる、中と外とを隔てる木扉ですら粉々に破壊された入口へ、俺はようやく足を踏み入れた。
……大丈夫、だな。
昼間は人が蠢いていて然るべき入り口付近だが、今宵はみながみな地に倒れ伏していて、あるものは三角座りでピクリとも動かず、またあるものは屍となり。そして骸となり、生ぬるい夜風にその骨を晒していた。
「……」
相変わらず中は薄暗い。薪木の灯火は所々に灯るが、既に火種だけになってしまった灯火のほんのりと足元を照らす程度の種火ですらも、この闇夜の世界には頼もしい灯火だった。
人と散乱物には注意し、住居群の入口から階段へ。階段から廊下へ……。
どこまでも続くかのように長い廊下は、各部屋の住人が所々灯す明かりだけでも充分に明るく進みやすい。しかし、みながみな廊下と自室との間には何かしらの遮蔽物を一つ二つかませ、中には木の板で入口を完全に塞いでしまっている部屋さえもある。だけれども、中で揺らめく仄暗い灯火は薪の灯りだろうか。一応灯火がまだ生きていることから察するに、この部屋にもきっと住人はいるのだろとは思うけれども……。
何を考えているのかはよくもわからない。今からここで死を迎えようとしているのか、それとも人様が入ってくることを心の底から忌避しているのか。全てを遮断し、全ての恐怖から孤立し逃れようと部屋の隅で篭っているのか。
俺は完全に閉ざされた、一種の悲しみのようなものを醸す部屋を横目に、ただ足は止めることはなく通り過ぎた。
長い長い廊下を進み、やがてようやく視線の先に姿を現す、夜風に靡く自室の暖簾。
ようやくの帰還だ。
俺は、急ぎ足に自室の前まで寄り、廊下とそれとを隔てる暖簾を手で掻きわけ、重ったるい足を一つ踏み入れた。
「……ふぅ。」
その瞬間。やっと今日の一日の仕事を終えたんだなと。そんなちょっとした達成感が、ドッと津波のような疲労と並走しつつ実感として襲ってきた。大きな溜息が自然と一つ、俺の口から漏れ出で、俺は机の上に無造作に置かれた、美羽からもらった太めの蝋燭に、これまた美羽からもらった錆びついたライターで火を灯した。最初は小さな炎が仄暗く机の周辺を照らしだし、やがて大きな炎へと変わった蝋燭が灯す火は、部屋全体をほんのりと。しかし明るく照らし出した。
蝋燭とライター……本当の昔にはよく電気いらずの照明器具として用いられていたと聞くけれども、今となってはもう滅多に手に入らない貴重品だ。
俺は片手に持つライターを見出した。
あいつからは、いつもいろいろ便利な生活用品を譲ってもらってるからな……。今度何か礼でもしなけりゃなるまいよ。
俺はライターを蝋燭の脇に滑らせるように置くと、ベッドにドッと腰かけた。そのままベッド脇に掛けてあった一枚の布きれを引っ張って手に持ち、さらにベッド脇に水を張ったまま置かれた錆びたトタン製のバケツにおもむろに突っ込んだ。
……冷てえ。
手に伝うひんやりとした感触。染み入るような水の冷たさの後には、徐々に温かみを増してくる手の慣れ。しっかりと布に水がしみたことを確認してから、俺はそいつを水上に引き上げしっかりときつく硬く絞った。布から手へと滴は伝い、手からバケツへと滴は滴下していく。ジャバジャバという流水音から、やがてポタポタと滴下音に変わり、終息するまで。二三度手をバケツの上部で振り、手に残っていた水滴を弾き飛ばした。
「……」
ふと手の平に残る、きつく絞った後の赤みと痛み。さして気になるわけでもないが、物を絞ると大抵いつも手のひらを確認してしまうのは癖のようなものなのか。
まぁいいか。
俺は布を開き、これまた二三度バサバサと空で振り、しわを伸ばした。そしてそれを顔にギュッと押し当てて、顔に頭に体をしっかりと拭いていく。
いや……これが気持ちがいいったらありゃしない。仕事柄、移動範囲や行動の密度など、普通の貧困層の人間とは比較にならないほどだ。その疲れと汗を、この一枚の布に擦り付け、擦り取る。素晴らしい。
ついつい、何度も何度も絞り直しては同じように拭きなおしてしまう。悪いものが全て拭き取られていくようで、気分も段々と研ぎ澄まされていく。
……あともう一回、拭いておこうか。
そしてようやく一日の汗を拭き取り、もう一度絞り直してから先ほどまでと同じようにベッド脇の支え棒に引っかけておく。今日も、これくらいの気温があれば朝起きた時には乾いてるだろうと思う。
「ふぃー……」
俺は腰を降ろしていたベッドに、足を投げ出すようにして転がり込んだ。硬いベッドだけれども、下に敷いている数枚の布が多少のクッションの代わりをしてくれて、俺の身体は何と言うこともなくベッドにその身を横たえた。
……なんか、疲れたな。
目を閉じて、今日の出来事をよくよく振り返ってみる。さっき、帰路で考えていたことと同じようなこと。同じように脳裏にリフレインしては、また鮮明に鮮烈に脳裏に焼き付いた記憶を補完していくように上書きされていく。
広場での一連の出来事。高台で美羽を、軽く慰めたこと。美羽を慰めたことで浮き彫りになった、自分自身にも言えること、また自身を慰めたことや嘲笑したこと。美羽と一緒に誰を助けることもできなかった、第二大通りでの一連の仕事のこと。
「……」
そして、最後の美羽宅前で、美羽をこの両の腕に抱きしめたこと。
……正直な話。あれでよかったのかと、今になって思う。本当に美羽は俺にああされていて落ち着くことができたのか。あの時、美羽本人に聞いたときには確かに落ち着くことができたと、その口で俺に伝えてくれたけれども。今こうして、ここに寝転がって冷静な状態で思い出してみると、やっぱりあの時の行動が正しかったのかと、自問に耽る俺がいた。美羽にとっても、俺自身だって美羽を抱きしめることで余計に不安や焦燥、罪悪感に駆られてしまう現状があることも考えると、やっぱりあそこで抱きしめずに別れた方がよかったのではないかとも……。
深く考えたって、結局はどうすることもできない。納得できずとも看過し、次に美羽と会うときにまた同じ失敗をしないように留意しておくことしかできない。そして今、この時だけ留意して、結局また同じような状況に置かれてしまえば、そのときの冷静さを欠いた気分に任せて美羽を抱きしめてしまったりするんだ。
……何とも言えんね。このすっきりした後のやるせなさというか、何度も何度も納得してはまた同じように納得した内容にケチをつけるかのように繰り返す問答。
このエンドレスループに終焉を与えるのがただの納得ではなく、心の底から満足した結果がもたらす納得か自己嫌悪から派生する「どうでもいいや」と、一種の諦めの気持ちのいずれか。俺はループを打ち切るかのように頭を振り払い、諦めるように思考を遮断した。
早くイブに会いに行こう。美羽じゃなくて、イブに……。
俺は卓上で煌々と部屋に明かりを灯す蝋燭の方を向いて、全力で息を飛ばした。しかし、その一種のプラズマなる状態は俺の吐息を受けて揺らぐだけ。消火はされずに、また先ほどと何も変わらずに煌々と灯りを灯した。
……横着はいかんな。
俺は結局ベッドから立ち上がり卓上前に移動し、振り返った際にベッドの位置を確認し、蝋燭の灯火を一息に吹き消した。部屋は一瞬で闇に包まれ、やがて廊下から僅かに差し込む別室の灯火だけが、俺の部屋をほんの僅かに照らした。
さぁ、今度こそ……。
俺はベッドに戻り、また足を投げ出し、その身を横たわらせる。今度こそ、完璧に目を閉じて、意識の主導権を睡魔に委ね、できるだけ何も考えずに。ただ、目を閉じる。
「……」
イブ……すぐ行くから、あと少しだけ……。少し、だけ……。
やがて、俺の意識はゆっくりと暗転し、この世界から遠ざかった。

………
……


玄関の扉をしっかりと閉めて、内側から鍵をかける。二段式の鍵。これで、鍵を持ってない人はうちに入ってくることはできない。
「……」
ボクは扉を背に寄りかかり、頭も扉に寄り添い、擡げた。
恭夜……くん。
心の中で問いかける、彼の名前。
息苦しくて、呼吸が早いよ……。
手を胸の前で組んで、胸元の鼓動に意識を集中するだけで……すぐにわかる。早くなった鼓動。いつもよりも、きっとものすごく早くなってる……。恭夜くんがボクことを抱きしめて、頭をずっと撫でてくれていたこと。いろいろあった今日の出来事だけど。そのことばかりが、ボクの頭の中でずっとリフレインしていて……。ついさっき、ほんの数メートル先でのこと。でもそのことを思い出すだけで、ボクの鼓動と呼吸は早くなっていく。
……ここじゃ、ダメ。とりあえず、部屋に戻らないと。
「ただいま……」
薄暗い廊下に響き渡る、ボクの声。反響しては虚空へと消えていく。後の残るのは、今の奥から聞こえてくる衣擦れの音。
お母さん。いるみたい、だね。
ホッと一息ついたボクは一歩、また一歩と歩いて、廊下と玄関とを隔てる段差の前へとたどり着き、腰を屈めた。暗く、居間から漏れる灯りだけが、廊下からボクの足元までを照らしてくれる。行動するには十分すぎる灯り。
ボクは腰を屈めたまま玄関に立って、右足に履いているブーツサンダルの紐を解いて、ヒールをつまんで脱いだ。途端に、靴に触れていたところが外気に触れ、ちょっとだけ感じる涼しさ。同じように左のブーツサンダルも脱いで、玄関先に揃えて置いておく。両足に感じる、僅かな涼しさ。自分の足に籠っていた熱と汗が外気に触れた瞬間の気化熱が、足の体温を奪っているのがわかる。
ちょっと、気持ち悪いかな……。
廊下に足をついた瞬間に、気体とは違う固体と足ならではの急激な温度の差。一日中、靴を脱ぐこともなく履き続けていたせいもあってか、熱と汗が篭って床に足をつく度にぺたぺたと足の裏がくっつくのが気になる……。
靴もそろそろ洗おう……。
ボクは足先に視線を落とし、そのまま居間へと向かおうとした。そのとき。
「美羽。お帰りなさい。」
「あ、お母さん。ただいま。」
突然の聞き慣れた声。パッと顔を上げたそこには、いつの間にか居間を抜けてきていたのか、お母さんが上半身だけを扉から覗かせ、笑顔をこちらへと向けていた。お母さんの顔を見た瞬間に、心に安堵の灯が仄かに灯る。ようやく帰ってきたって実感が、沸々と心に湧く。
そのままボクはお母さんのところまで小走りに走り寄った。
「ケガはしてないわね?」
お母さんの大きな手がボクの頭を触れる。スッと滑るように頭を撫でてくれるお母さん。
あったかい……。
そんなお母さんの手が頭を滑っていく感覚に、さっきまでボクの頭を撫でてくれていた恭夜くんのことがふっと思い浮かんで。そして、またボクの頭をいっぱいにする。振り払おうと思っても、それはそう簡単には消えそうにない。
恭夜……くん。
「うん……大丈夫。」
大丈夫なんて。そんな風に答えてはみるけれども……でもこの頭を満たす想いは、とても大丈夫には感じられなくて。でも、お母さんにこれ以上心配かけたくはないから。だから、大丈夫じゃないなんて言えなくて。大丈夫じゃないけど、大丈夫だって……そんな、ちょっと曖昧な返事になる。
「……そう。ごはんは?食べる?」
でもお母さんはちょっと心配そうな顔をするだけ。これ以上は追及して来なかった。察してくれたのかもしれない。
「今日はいいかな。ちょっと、休みたいの。」
「ん、わかったわ。おふとん干しておいたから、ちゃんと敷いてね。」
やがてボクの頭からお母さんの手が離れ、ボクも一歩後ろに下がる。お母さんの笑顔がボクの方に向く。その何気ない優しさが嬉しかった。
だから、ボクも小さく微笑んで。
「うん、おやすみなさい。」
「ええ。おやすみ。」
一つだけおやすみの挨拶を交わして、ボクは二階へと続く階段を登った。

「ふぅ……」
扉をボクが入れるほどに開き、部屋に入って真っ先にランタンに火を灯す。机の上に置いてあるランタンと、ベッド脇の台の上に置いてある、ランタンの二つ。机の上から、部屋全体を仄かに照らし、ベッド脇のランタンが一つ目のランタンの灯りに折り重なるように光を放つ。机。本棚。ベッド。化粧台……とか言われるもの。そして壁のアラベスク模様がランタンの灯りを受けて、より際立って部屋の雰囲気を仄暗く演出していた。
ただいま……。
もう一度だけ、心の中で唱えた。
……そうだ。忘れないうちに日記、書かなくちゃ。
早く汗を流して、ベッドに倒れ込みたいけれど。毎日欠かさずに書き連ねてる日記をなおざりにするわけにはいかない。
ボクは手に持っていたライターをベッドの脇に置き、振り返る。ボクの後ろにある白色の木組みの椅子。ランタンを倒さないように移動し、疲れた身体で椅子に腰かけ、体重をかけるようにして椅子を引いた。
ボクの目の前の机の上に置かれた一冊の古びた予定表。表紙に描かれているデフォルメされた子猫とピンクと水色、きいろの色とりどりの花たち。2032と数字が、右上に書かれている。
今から、もう20年以上も前のスケジュール帳。まだこの世界が正常だった、国というものが存在していた頃の……。昔、恭夜くんと高台にいるときに見つけたもの。元の持ち主が誰かはわからないけれども、その子の色褪せない思い出が、このスケジュール帳の一番最後のページにだけ、色褪せたまま残されていた。
ページを一番最後まで捲る。ボクが書いたところ以外、なにも書かれていないページが続いた、その最後のページ。
……あきらくんとでーと。ゆうえんちへいった。
そんな拙い言葉と一緒に描かれた、カラフルな絵日記。
遊園地って場所で、二人の子供が手を繋いで。たぶん笑ってる絵を描こうとしたんだよね、これ。
笑っているようには見えないけれども、笑ってる二人が一緒にお日様の下で遊んでる。そんな絵。昔ではなんてことはないことだったのかもしれないけど、今じゃこんな絵日記を描ける子なんていない。こんな生活。送れるわけないんだもん……。
この絵日記を見るたびに、ボクの心に芽生える悲しみを帯びた想いが心を蝕む。悲しさが真っ先に駆け巡って。それから段々とこの世界を変えなきゃ、とも思えてくる。
遊園地っていう遊べるところ。昔の本で読んだ覚えがあるの。いろいろな乗り物に乗れて。おいしい食べ物や飲み物、お菓子がいろいろなところで買えて。友達や家族。そして恋人同士で、一日中遊んでお互いの友情。愛情を確かめ合って……。お日様の下で、みんな笑いあって楽しめる世界……。
お日様が見える世界。みんな笑いあえる世界って……想像もできないよ。
頭に思い浮かぶ光景は、どれも白黒で色褪せていて。夢や希望もわくわくも感じられない世界しか浮かんでこなくて。
どんな世界なんだろうなぁ……。
「……」
恭夜くんと……一緒に行けたら。
色褪せた姿で色褪せない思い出が描かれた絵日記に視線を落とすボクの頭にふと浮かんでくるのは、恭夜くんの笑っている姿。その隣で笑っている、ボクの姿。楽しく笑ってるボクたち二人の姿が、ボクの目の前の絵日記に重なっては鮮明に色褪せることのない映像となってボクの脳裏に焼き付いていく。
「……」
絵日記から視線が逸らせなくて。やがて、熱くなった目頭から滴った一滴の滴が絵日記を濡らした。
「あっ……」
ボクは咄嗟に右手で滴を拭って、近くに置いてあった布で拭き取った。それから布を掴んで、滴が落ちたところを静かに押し付けるように拭く。
だけれども、一滴。また一滴と、ボクの目からは滴が落ちて……。
「きょうやぁ……」
ボクの両方の目から、堰を切ったように涙があふれ出して止まらなくなった。
なんで……なんで!こんなに苦しまなきゃいけないのっ……?ボクだって……こんな世界に生まれたくなかったよっ!
自分でも驚くくらいに押さえきれない溜めこんでいた想いが、堰を切ったように溢れ出す。心の中に溜めていた想いは、涙となって幾筋も目尻から頬を伝って、机。ボクの腕、服を濡らしていく。布が握られた手に力が篭って、震える。
「えぐっ……ぐずっ……」
ここまで涙が止まらないのもどれくらいぶりだろう……。ここ最近じゃ、こんなに泣く機会なんてなかったから。きっと、だいぶ前のこと。
恭夜くん……ボクのこと、どう思ってるの?好き?嫌い?それとも、どっちでもないのかな……。
「ひっく……」
次々と自分自身への問い掛け、世界への問い掛けが巡り巡ってはまためぐり返してくる。神さえにもぶつけたくなるこの想い。止まらなかった。

「……」
それからようやく落ち着いたのは、家の溜め水で体を今日の汗を洗い流してからしばらく経ってのことだった。髪を洗って、体も念入りに洗って。足が気持ち悪かったこともあったから、足先までしっかり洗って。しばらくおふろ場で自問に耽りながら過ごしてから、部屋に戻って布団を敷きなおして……さっきと同じように椅子に座った時には、もうだいぶ落ち着いていた。
今は筆を右手に携えて、さっき書けなかった日記に文字を連ねている。
……仕事で得られたものは何もなかったけど、明日は何か変わるかもしれない。
日記に、思い浮かんだ今日の出来事、想いを書き綴っていく。ボロボロの鉛筆を走らせ、間違えたところは横に線を引いて修正して。今日の出来事は綴られていく。
いつも、挫けてばっかだけど……。でも、きっと未来は今とは違う、もっと素敵な世界に変えられるって信じてる。諦めないよ……ボクは。
素直に思った気持ち。出来事。今日は見開き2ページが、ぎっしりと埋まりそうだった。
そして。
「……書けた。」
どれほどの時間書いていたかもわからない。一時間ほども書いてた気がするけれども……。つい白熱してしまっていたボクはゆっくりと筆を置き、書き綴った内容を一通り見直してみた。
出来事はもちろん、ボクの気持ちも今日に限ってはたくさん書かれていて。今日はいろんな想いが巡っては消えて、解消されてはまた巡っての繰り返しで。その一つ一つというわけじゃないけど。でもたくさんの想いについて、いろいろ書き記されていた。
でも、それだけじゃない。それだけじゃないどころか、大体はある一人のことについて書かれていて……。
……恭夜くんのことで、半分くらい埋まってるね。
ふと見返してみれば、数行仕事のことについて書かれているかと思えば、すぐに恭夜くんの名前が顔を出す。そのまま数行連ねて、仕事への思いについて書かれてるなーなんて思ってると、またすぐに恭夜くんのことについて書かれ始めて……。無意識のうちに恭夜くんのことについて書いているみたいな……そんな感じがする。
ふと気づけば、恭夜くんのことばかりを考えていて……。いつからだろう。ずっと気になってたど、ようやく最近になってこれが『好き』の気持ちだってわかった。
今まで『好き』なんて気持ちに触れることなんてなかったから……。触れる機会なんて、これからもないんだろうなって。そう、ずっと思ってた。
でももう、自分の心に嘘をついてまで否定したりしないよ。否定したって。どうせ、いつでも恭夜くんのこと考えちゃってるから……。
「……」
日記を置いて、机に腕を乗せて顔を突っ伏す。横を向いて、ランタンをじっと見る。
……大好きな彼のことで埋まっていく日記。
このまま、どこまで埋まっていくのかな。最後のページの前まで。きっと恭夜くんの名前が消えることなんてないけど。
ボクは顔を上げ、椅子から立ち上がって、机上に灯るランタンの火を鉄のフタで覆い消した。少し、薄暗くなる部屋。
うん……明日も忙しいし、もう寝よう。
少し重い足腰を上げてベッドまで移動し、腰かけ、脇の台上でも部屋を仄暗く染め上げるランタンの灯火をフタで覆いかぶせて消す。パッと火は消え、部屋は一瞬で暗く闇に染められる。
部屋の窓から差し込む明かりは、ほとんど唯一と言ってもいい。だけど、煌びやかな灯りを放つ巨大なビル。家の中を、部屋の全景を映し出すくらいには明るく染める。
「……」
ボクは腰かけたベッドに転がるようにして横になった。暗い天井。真っ白い壁と、点くことはない電気式の吊りランタンだけがボクの視界に映り込む。
恭夜くん……。
目を閉じる。
明日は、恭夜くんとちょっとしたお仕事が待ってる。今日よりは、楽なお仕事。明日も……恭夜くんと一緒にお仕事。
恭夜くんも……ボクのこと好きでいてくれたらいいのにな。
ボクは掛け布団を口元までぽふっと掛けて、ぎゅっと目を瞑った。
「おやすみなさい……」
小さくつぶやく。
……。
「恭夜くん……」
少しだけ恥ずかしかったけど。ボクはそう、もう一つだけ小さくつぶやいて、迫りくる眠気に身を委ねた……。 
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