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Eve

作者:ぱすた
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第一部
第一章
  二人の仕事(1)

配給が終わって小一時間ほどが過ぎた頃。広場に集まり歓談に耽っていたみんなも散り散りに自分の居場所へと帰り、ミレアたちも最後に俺に向かって『遅刻はもうダメだよ!』と念を押してまで忠告してから帰宅の途に着いた。とは言っても、頬をふくらませていたミレアの表情や楽しげに広場を走り回っていた時の三人の表情が脳にしっかりと焼き付いているあたりは、やっぱり俺自身も楽しかったんだろう。今も俺の目の前にその三人の姿があるかのように……みんなの楽しそうな様子が目に浮かぶかのようで。
俺は配給の品物が入っていた箱を両の手に一つずつ引っ提げつつ、さっきまでの賑やかだったこの広場に思いを馳せた。今はすっかり人気も失せ、草木一本生えずに荒れ果てた褐色の土に覆われた広場があるだけの寂れたこの世界を狭く顕在化したような場所にすぎないけれども、週に二・三度は欠かすことなくここに宿る確かな生気。活気というにはあまりにも貧相で弱々しくもある小さな小さな集会に過ぎないけれども。でも、確かにここには理想に一歩近づいた世界の復興の種が根付いているような気がした。
ひょんなことから始まる平和だってあるかもしれないじゃないか。
それが、俺の小さな希望だった。
「……よっと。」
俺は最後の空箱をいつも通りに、広場の端にひっそりと数棟連立する木小屋の中へと運び終え、ようやく一息ついた。さっきまで配給の品が所狭しと並んでいた場所へと戻り、トタンの台の上に腰かければ、すっかり静寂に支配された広場に生ぬるくそよぐ風が吹き抜けていく。スモッグに覆われた薄暗い空と荒廃した広場のコントラスト。見事なまでな静けさと物寂しさ。人の動きという動きはほとんど感じられないこの空間で、俺は一人何らかの自分以外の生を探していた。
……ああ、静かすぎて落ち着かないね。この辺りに美羽がいるはずなんだけれども。
ちょっとあたりを見回してみるが、やはり人っ子一人見当たらない広場の静けさにはよくわからない焦りを感じさせる雰囲気がある。ちょっと奥のほうまで眺めてみても人の影は見当たらず。どうやら美羽も今はこの広場にはいないようだ。
どこ行ったんだ?あまり一人でそこら辺をうろうろされても困るんだけどな……。
この荒廃した街を、少女がひとりでに歩いていて安全なわけがない。俺はくるっと首を回して、後ろを振り返ってみた。そして、そのゼロコンマ数秒後。
「ばぁ!」
「うおおおッ!?」
突如として視界を塞ぐ見慣れた幼顔と、言葉の意味通りに耳をマッハで走り抜けていく大声量が、俺の心臓にダブルで鋭いパンチをかましていく。あまりに突然の幼顔と声に、俺は腰を落ち着けていたトタン台から飛び退き、瞬速で後ろに後退いてしまった。
なんだなんだなんなんだ……。
飛び退いた直後、高ぶる心臓を抑えつつバッと振り返ったそこには……。
「ん、恭夜。びっくりした?」
俺がさっきまでのんびりと一仕事後の身体的疲れの癒やしを求めて一息ついていたトタン台のすぐ背後。ちょいと前かがみに立つ、見慣れた顔と見慣れた容姿。重力に逆らわずに下にサラッと流れるミディアムヘア。さっきまで一緒に配給の品々を配っていた幼女モドキが、こっちを見て不敵な笑みを浮かべていた。
「美羽か……急にやめてくれよな。」
俺は小さくため息を漏らす。
「へへっ。」
美羽がその場から台座の上から飛び降り、俺の隣にぴょんっとうさぎのように飛び跳ねてきた。そのまま俺の左腕をひっつかみ俺の周りをくるっと一周して、俺のすぐ右隣。今度は右腕にくっついたまま、純粋無垢な満面の笑みで俺の顔を覗いた。
「ったく。」
微妙に火照った頬を隠すように俺は左手で右頬を覆った。
……こいつ、わかっててやってるのか?
美羽に急に驚かされたせいもあって、まだ心の臓の鼓動は治まりを見せない。いや治まったら死ぬわけだがそうじゃなくて、速くなった鼓動が元の調子に戻るにはまだしばらくかかりそうだという話。久しぶりにあんな驚かされ方をした気がするけれども、まさかあそこまでびっくりするとは自分でも思いもしなかったしな。
でもそうじゃない。
「……」
「ん?恭夜くん?」
美羽が不思議そうな表情で俺の顔をじっと覗きこんできた。
……驚かされたのもそうだけれども美羽の顔があんな近くにあったら、それはそれで違う意味で心臓が高鳴るっちまうのもおかしな話じゃないよな?驚かされて心臓が高鳴った分が3割だとするならば、残りの7割は多分美羽の顔が近かったせいで……。
確かにこんな世界には住んでいるけれども、俺だって夢見る男の子ですもの。夢が枯渇した、希望に程遠い世界の住人ではあるけれども、本能には勝てませんもの!
「ふぅ……見境なしとはこのことか。」
俺は左頬に当てた手はそのままに、顔を左右に振って大きなため息をはいた。
「なんか、深刻そうな顔だね……」
ふと気づけば、美羽は引き攣った苦笑いを浮かべて俺の方をじっと見ていた。
「いや、ちょっとな……」
「……ふーん?」
どことなく棘がある頷き。ふーんとは頷いてはいるが、非常に疑わしそうな美羽のジト目が俺の目を見つめる。
そんな目で見られてもな……。
俺は目を逸らして頬をポリポリとかく。
美羽の行動にドキッとしちまったってことだけならまだしも、イブと美羽の二人を意識しているだなんてこと、美羽に言えるはずもなく。そりゃあ、いろいろな意味で言えるはずがないだろう。そもそも美羽はイブの存在を知り得ることはあり得ないわけで、美羽にはそんな話をしたところで、頭おかしい人呼ばわりされるのがオチだ。
そう。だから今は、話の腰を折って別のことに意識を向けさせるのが最善策なんだ。
「……よし。ほら、とりあえずいつもんところに行こうぜ。」
話の腰を折りつつ、軽く美羽の背中を押す。
うむ。自分でも惚れ惚れするほどにわざとらしいやり方。普通ならば確実に気付くであろう話の腰の折り方なのだけれども。
「あ、うん。そうだね。」
……案の定だった。美羽は特に抵抗することもなく、俺に押されるがままにゆっくりと前へと歩き出した。
いや、相も変わらずちょろい。流石に今回は一言のもとで美羽からの了承を得ることはできないだろうなと思っていたけれども、これも単純明快な思考回路を持つ美羽のなせる技なのかと。
とりあえず俺は引っ切り無しに沸き上がってくる負の思考連鎖を断ち切り、いつもの場所へと行くための広場の出口へと歩みを進める。美羽もどことなく納得がいかないなって表情をしているが、そこは単純な美羽のこと。やがていつもの様子に戻り、黙って俺の横を追従し始めた。
広場を抜け、俺がここに来る時とは反対側の出口には、また同じように苔生した石段が続いている。細い路地裏の両端にはどこまでも高く聳え立つ住居群が立ち並び、時折突出した住居から落ちてくる木材や瓦礫の破片を食らわないように細い道筋をたどる。足を滑らせないようにということも同時に念頭に置いておけば問題ない。
「恭夜くん、ここ滑る。」
「そりゃ苔生えてるからな。」
「……ん。」
何を当たり前のことを言っているのか。もう慣れっこだろうに。
俺は後ろを追従する美羽の方をチラッと見遣るが、妙にムスッとした顔をしていること以外は足取りも軽そうな様子。
別に怪我をしているわけでもなさそうだし、何をムスッとしているのかははたして謎だが……まぁ、大丈夫だろう。
俺たちは路地裏を抜けて大通りを横切り、また同じような路地裏を抜けて大通りへと。さらにまた裏道へ……。しばらくそんな調子で街の中心地から外れていった。
やがて何度かそんなことを続けた先に見えてきた、非常に急な傾斜を持った坂のような階段。要注意どころだ。足を踏み込む幅も小さい上にここもまた茶色く変色した苔が生している。一度足を滑らせればどこまで転がっていくかわからない。
「今日もちょっと滑りそうだね……」
「ま、気をつければどうということはないさ。」
そうだ、気をつければ何と言うことはない。
俺たちはゆっくりとその先に待つ『いつもの場所』へと歩を進めた。

………
……


あれからどれほど歩いたか、特に意識もしていなかったもんで数分と言われれば数分な気もするし、数十分と言われれば数十分と納得できそうな気もする。急な石段を上り詰めた先に待っていた、俺たちが『いつもの場所』と勝手気ままに命名した、俺たちにとっての安息の地とも言うべきか。非常に見晴らしのいい、この街の端に堂々と雄大なその姿を晒す丘陵。その上の石造りの展望デッキに俺たちは立っていた。
「ふぅ、ようやっとだ。」
「ぼく、もうへとへとだよ……」
美羽は展望デッキまで至る最後の石段を登りきると、操られるようにふらふらとボロボロのデッキの石柵に凭れかかり、柵に顔を伏せた。
疲れたんだろう。かくいう俺も、この石段をただ登っただけでもう相当に疲れた。配給の時の疲れもあったとしても、こちらの疲れには到底及びそうにもない。
俺も美羽と同じように石柵に凭れ、腕を預けるが顔は伏せず。眼前に広がる光景をボーっと眺めた。
ここもなんとなく久しぶりに登った気がするけれども、まぁこの展望デッキに凭れる腕の感覚には慣れたもんだ。ほぼ毎日のように俺たちが登っている場所な上に、登るたびにここに凭れかかっているからな。
日頃からいつものように通ってしまう、特に特別な思い入れのある場所というわけでもない。ただ俺たちがあの場所で配給を初めて、一番最初の疲れを癒した場所。それがここだったってだけだ。あの時から俺たちがここを訪れるたびに出迎えてくれる、良い見晴らしと比較的に澄んだ空気が俺たちの心に身体を癒してくれるってのが、ここに通う一番大きな理由なんだろうと思う。
「……」
視界に広がる、巨大な一つの街。日々の変遷が、ここに来る度に手に取るように見渡せる。
誰がこしらえたかもよくわからない、この俺が立ち凭れ、美羽が凭れ伏せる展望デッキ。遥か前に先人たちの憩いの場所として設けられてとも聞くが、真偽のほどはわからない。だけれども、ここからの眺めの全てはこの街の全景。ここからならば、この街の全てを遠く見渡せるんだ。
……ここに来る二番目の理由は俺の目の前にある。限りなく一番に近いもう一つの理由。ここから人々の様子まで見渡すことはできないけれども、俺たちがどのような環境で今日明日を生きているのか。ここから、この街並みを見据えることで日々の街の変遷に想いを馳せ、どのような日々の生の営みがこの世界を支えているのか。どのような苦心の中に俺たちは生への執着を見つけられるのか。自分の考えを整理し、今後の世界。俺の生き様を考えられるのならば、それもここに来る理由としては十分だろう?
今日はこんな変化があったと気付けたときには、様々な思いが交錯し俺の心を満たす。いいとは言えない想いだったりもする。でも、それでも日々進歩後退を続けるこの世界を見据えていると、まだこの荒廃に荒廃を重ねた世界でも必死に生にしがみつき、絶滅という絶望から抗い足掻いていることを如実と実感できて……日々の街中の様子を見ているだけでは得られない、この世界への微かな希望の糧になるような気がして、俺はここへと通い詰めることをやめられずにいるんだ。
止める理由もない。身体の疲れなどそんなもん。このデッキが俺にもたらす福音の一つにも勝らん、些細な問題だろ。疲れた身体はここで癒せばいいんだ。心も癒せれば身体だって癒せるんだ。
俺の目の前の光景。巨大な住居群と小さな倉庫、河川、荒地、炊事場、中央通り。その至る所に灯る、火の灯火。どこの誰が灯している火なのかは当然わからないけれども、その誰かがどうして火を焚いているのか。ただの明かり取りか。暖か。それともその小さな灯火を肴に自分の過去を顧み、現状を想い感傷に耽るのか。いや、自分を想い耽るだけじゃないかもしれない。人を想ってその影を灯火に重ねるのか。そうでもないのならば、煌びやかな灯火に煌びやかな富裕層の生活を思い描き、自分をその像と重ね合わせて一時の楽しみを見出すのか。
「……」
富裕層の営みか……。そうだったな。
俺にはもう一つ、ここに来る理由があったわけだ。あまり見たいもんでもないが。
視線を貧民街から少しだけ逸らせば、俺の眼前。この街のど真ん中。放射状に広がる幾本もの大通りの伸び元に威風堂々と権力の行使を物語る、一つの巨大な建築物がここからの眺めの中でも一層目を引く。この貧相な街に相応しくない様相をしたそいつは、昼のこの薄暗い世界の中で煌々と明かりを灯し、微細粒子を孕んだ暗雲を煌びやかに照らしつける。見ればわかる。可動式のスポットライトが雲をなぞり、聳え立つバベルが雲をも突き抜けそうな様はまさに金と権力で叩いた張りぼての不撓不屈の権化。
一際巨大な建造物は並大抵の事象は恐るるに足らんと語っているかのようで。そんな中央シェルターが俺たちの眼前に聳え立っていた。その煌びやかな煌めきと一際強い灯火が、町全体だけではなく天をも染め上げる様は貧困層と富裕層とを分け隔てている、今のこの現状をこの上なく示唆しているかのようで……。あまりにくたびれた街の様相と荘厳で煌びやかな中央シェルターとのどこまでも相反する様は、まさに二つの層が相容れることはないと如実に物語っていて。
ふと左隣に突っ伏していたはずの美羽だが、いつの間にやらその小さな顔を上げ、俺と同じように眼前を見据え、何か想いに駆られているかのような表情を俺たちの街に向けていた。数日ぶりに見た、こんな美羽らしくもない険しい顔つきは、この世界にもまれ続けた心の闇の産物かと。そんな風にさえ思えた。
「……ねぇ恭夜くん。」
「ん?」
唐突に美羽が口を開いた。視線はそのまま街の方へと向いたまま、言葉だけを俺の方へと向けて。
「……ボクたちのやってることってさ。」
「……」
「意味が、あるのかなって。」
でも、言葉少なに数言だけ言葉を紡ぐと、美羽はまた顔をうつ伏せてしまった。パッと見ただけの美羽の横顔はどことなく憂いを帯びたような、少し困ったような表情をしていて。さっきまでの元気そうな美羽の面影もなくて。
「急にどうしたんだ?」
だから俺は美羽の顔色を窺い、そう問い掛けるだけで精いっぱいだった。
「……ううん。」
「え?」
「ただ、ちょっと気になっちゃっただけ。」
ちょっとだけ俺の方をへと顔を向ける美羽だけれども、伏せった腕から少しだけこちらを覗く顔はやっぱりどこか愁いを帯びているようで……。俺もしばらく押し黙るしかなかった。
あれだけ精力的に今日の配給をこなしていたのに、今になってこんな風に思うなんてな。今のこのご時世で、俺たちの行動は少なくても正義に傾く行動だとはわかりそうなもんだけれども……。
でも、そう論理的に言うわけにもいかず。俺はコホンと一つ、小さく咳ばらいをかました。
「……まぁ、そうだな。」
咳払い一つ、俺は美羽の頭に軽く手を乗せた。
「ん……」
美羽はこっちに向けていた顔をすすっとまた、腕の間に隠してしまった。それでも俺は美羽の旋毛辺りから髪の先端に向けて撫でるように、途中からしなやかな美羽の髪に指を通すように一回。二回と撫でた。髪に指を通しても俺の指に抵抗もなく、スッと流れて美羽の顔から腕にかかる。
「確かに、この世界を変えられる行動かって聞かれたら、そうとは言い切れないかもしれない。」
「……うん。」
小さく、消え入るような美羽の声。俺はもう一度、頭をなでつける。
「でもさ。さっき広場に集まったみんなの顔を思い出してみろよ。」
「……かお?」
腕に押し付けられているであろう美羽の口元から、もごもごとした言葉が聞こえてくる。美羽の頬が膨らんだり縮んだりを繰り返していた。
「そうそう。みんなの顔。広場に集まってくるみんなのさ。」
「……」
しばらく押し黙る美羽。俺は美羽の頭の上から手をおろし、そのうちに少しだけ。美羽のもっと近くまで寄った。
「……ミレアちゃんが怒ってた。」
「そっちじゃないんだな、これが。」
「……ミレアちゃん、ぷんすかしてた。」
「だからちげーっての。」
「?」
美羽は心底不思議そうな表情を、腕の横から覗かせる。
この天然めが……。
「あー、じゃあさ。美羽がミレアにりんごを渡してあげたとき、ミレアどんな顔してた?」
「……」
その質問に、また美羽は押し黙る。いや。このくらい、考えなくても思い出せそうなもんだけど……。
「……笑ってた。」
「だろ?」
俺はもう一度だけ美羽の顔をじっと見据え、その頭の上に手を乗せた。
「でも、それで十分じゃないか?」
「……」
「俺たちが美羽の家の物資を配給して、それでいつものみんなが喜んでくれる……」
美羽から視線を外し、眼前には広く淀んだ空と消え入りそうな灯火に包まれた街。この街のどこかできっとミレアも今日の配給に来たみんなも、今日の配給の果物や水を大切に食べて飲んで、きっと明日を生きる糧を備えてくれているはずで。
「ほら、十分だ。」
「……ん、そっか。」
美羽はどことなく気分の和らいだような声で、さっきまでのような言いようのない不安の入り混じった小動物が鳴くような弱々しい声ではなく。俺自身も多少は美羽の軽い手助けくらいはできたのかなと、内心ひっそりと安堵し、ちょっとした喜びに満たされていた。
「ああ。」
そのことにちょっとだけ気を良くした俺は、片腕を腰に当てながら美羽の頭をポンポンと軽く叩いた。
「……でもなんか、恭夜くんに慰められるの。へんな気分。」
「え。ひどくね?それひどくね?」
俺の言葉が心に響いたのかと思いきや、さっきまでの弱々しい美羽とは打って変わって、突然の闇発言。美羽の体勢はさっきと変わらずに頬を腕につけてこちらを見ている、ちょっとかわいらしい感じのポーズだというのに、言うことは闇を纏い、容赦なく俺の心を打ちつけてくる。
「……ん、いつもだけど。」
細まった美羽の目。声のトーンも少し下がった。
「あのあのあの。もっといやなんだけど、その情報。」
俺の心に突き刺さる悪言の数々。俺はいたたまれずに美羽と同じように手すりに額を打ち付けるように倒れ伏し、そして一つ溜息をついた。
うぅむ……この仕打ち。病みだ。
「でも。」
「……?」
美羽のぼそっと呟いた言葉。俺は顔を横に向ける。でも美羽は俺と目があった瞬間に、パッと顔を伏せて。
「……ありがと。」
「……」
そう一つだけ呟いた。それから美羽は顔を上げようとしない。伏せっぱなし。しばらくお互いが無言で、俺もそんな美羽の様子を見て、特に何も言わずに美羽の方をただ見ていた。
……美羽のやつ。素直じゃない分、もう適わんよ。
俺はもう一度だけ。美羽の頭に手を乗せて、ポンポンとさするように叩いた。
……それからしばらく、俺たちは次の仕事に向けて英気を養った。ようやく顔を上げた美羽と他愛のない話をし合ったり、なにとなくしりとりをしてみたり。やらなければいけないというわけじゃない。無理に理由付けをするならば、ただ心の掃除のようなもので。だって次の仕事では、桁違いの身体的精神的疲労が待っているから……。
配給が終わってどれくらいの時間が経っただろうか。それどころか、休憩し始めてからどれくらいが経ったかもよくわからない。時間による行動の制限というものが、この世界には日が落ちたか否かでしか存在しない。特に必要もない。正確な時間の計測なんて、そんなことをする必要性もなくなってしまった世界で今どれくらいの時間が経ったかもよくわからないでいる。
そろそろ、いつも通りに次の仕事に移る頃合いだろうと。俺たちでさえ、その程度の感覚さえあれば十分だった。
「美羽。」
「……ん、わかってる。」
名残惜しいがそろそろ時間だ。そう美羽に告げようとした俺だが、告げるまでもないことだったか。美羽はさっきまでの無邪気な笑い顔から一転。少し大人びた微笑みを浮かべて、ゆっくりと立ち上がった。
「恭夜くんは、大丈夫そう?」
美羽は今まで自分が座っていた古ぼけた長椅子の後ろに置いてあった、小さな布鞄を一つ掴んで持ち上げた。その振り向き様の一言。
「ああ、十二分だ。」
俺も膝に手をしっかりと押し付けて、体を前に倒すようにして立ち上がった。美羽と同じように、俺の背後にいくつも積み重なっている布鞄のうちの一つを無造作に引っ掴んで首から引っ提げると、重いとは言わずとも確かな重みが肩骨を圧迫した。
準備とも言えないような準備。でも大切な持ち物。さぁ、用意はできた。
「行こうか。」
「……うん。」
弱々しい響きだけれども、力強い美羽の返事。俺はひとつ頷き、そして俺たちはまた歩き始めた。今日来た道を辿るようにして……。

………
……



比較的に暖かい今日だけれども、空はどんよりとしてさっきよりも若干スモッグが濃くなったようにも見える。陽の光が覗くような隙間もなければ、いつもならスモッグすらも僅かに透ける陽の光ですらほとんど見受けられない。道行くにはまだ十分な明かりでも、辺りは非常に薄暗い。一歩一歩を踏みしめて歩く俺たちの行路を邪魔するかのように散乱する瓦礫の破片や木くず、石ころも用心を怠れば突っ掛かかってしまいそうになる。
「美羽、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。」
何度も何度も通っている道ではあるものの、この暗さだ。なにが原因で転ぶかもわからない状態では用心を重ねるに越したことはない。
俺は足元と前方を交互に見澄ましながら、なるべくゆっくりと歩いた。
……ひどい行路でも、ゆっくりと時間をかければ大したことはない。目的地には如何程もしないうちに辿り着いた。周囲の見通しはいいが、なにぶんこの暗さだ。見渡そうにも、ひどく先の様子までは詳細に窺えそうにない。
でも見える範囲での様子は、前に来た時と状況はあまり変わっていないらしいな。パッと見ただけだから正確な感覚はつかめていないけれども、たぶん大した変化はない。
喜べばいいのか、否か。状況が悪化していないだけましと捉えるのか、こんな状況に置かれた人間が無数にいること自体をそもそも負と捉えるべきなのか。
多分、どちらの感情も正しいんだとは思う。喜ぶべき場所とそうでない場所がある。この世界でもあっちの世界でも……多分上流階級の奴らだってそうだろう。喜びと負のベクトルの違う感情は、誰もが同じように感じて然るべき感情だ。どこに喜びを見出すか。どこに負の感情を感じるかは人それぞれだとしても、その感情を忘れた人間は……。多分、もう何をしても無駄なんじゃないかな。忘れたのならば思い出させるしかないが、それも適わないのならば……。俺はそいつを助けることは、もうできない。
俺は周りをぐるっと見渡す。
……ここにいる人たちだって、例え喜の感情を忘れていたとしてもきっかけさえあれば見出すことはできるはずなんだ。絶望に触れすぎて、そういう感情も忘れ去ってしまっている人たちが蔓延りすぎているだけで、その世界に囲まれ過ぎているだけでな。
「……」
「……行こう。恭夜くん。」
俺と美羽は、路地裏の細い道から一歩を踏み出す。開けた大きな通りへと。第三大通りと呼ばれている、この街の主要大通りへと。
この場所での仕事は二週間ぶりくらいになるか?前に来た時よりも、どうだろう。活気という活気はもう殆ど感じられないのは変わりない。ふとした喜びに顔を綻ばせるような人も、まだここにはいないだろうとは思うけれども。
「今日もひどいな……」
「ここは、いつもだよ……」
俺たちは近場にあった薪火の灯火の中から、眺めの薪を一本取り出して手元の明かりを確保した。まだ昼とはいえ、空から降り注いで然るべき陽光のほとんどは分厚いスモッグに遮られて、ほとんどが地表には降り注いでこない。日の僅かな明かりこそあれども、その明かりを頼りにしてこの場所を散策して行動するには、少し頼りなかった。
それに。この場所は危険といつも隣合わせだからな……。
俺たちはゆっくりとあたりを見回すが、やっぱりこの場所は今日もひどい有様だった。腰を落ち着ける事ができる人は須らく下に俯き、微動だにせず始終無言でいる。老若男女。みながみな、ほとんど動こうともせず、きっと動くこともできない人間も多数いる。
いや。むしろここでパワフルに蠢く人間がいたら……そいつからは真っ先に逃げなければならないと思った方がいいけれども。目をつけられたやつが男子だったらまずその場で惨殺され、女子だったら強姦の末に結局は殺されるから。
俺は灯火を上に翳し、なるべく遠くまでをこの場で見渡せるように調整する。
そうだ。こんな場所で元気にゴソゴソと蠢いている人間なんて、盗賊連中。強盗を生業にしている人間以外にいないんだ。悲しいことにな。
どこで間違えたのか。生きることを選び、この世界の運命と戦おうとしたまではいいが、その戦う方法を誤った人間たち。この世界での強盗は悪でも何でもない。法が機能していない世界での強盗なんてものは、ハイエナと同じだ。人から獲物を奪い、一目散に逃げ去る。もし相手が貧弱そうならば殺してでも奪い去って、適わないと悟れば自分に危害が加わらないうちに一目散に逃げ帰る。仲間内でも奪い合いが絶えない汚い世界に生きるゴミ野郎どもだ。
そんなハイエナ連中だって、そんな世界に生きているからには腕っぷしも強ければ洞察力にも長けている。洞察力で相手を見抜き、腕っぷしで相手を制圧する。場合によっては惨殺する。
連中に出会っちまったら、まだ子供の俺たちが勝つことはきっと難しいだろう。見つかるやつが俺だけならまだいいが、そこに美羽が居合せたら……。
「……」
「ん、恭夜?」
俺は無言で美羽の頭を撫でる。美羽は不思議そうに俺を見ながら、片目を閉じてくすぐったそうにした。
こんな美羽がだ。万が一にでも俺だけが無事に逃げ切って、美羽だけがそんな連中に捕まりでもしたら。そのとき、さぁ俺はどうする?死を覚悟で突っ込むか?それとも、何もできずに美羽が汚らしい連中に犯される様を眺め続けるか?挙句の果てに首筋を掻っ切られて、ぐらぐらと揺れ動く首から鮮血を撒き散らす美羽を抱きかかえて、その美羽の鮮血にこの身を染めながら狂ったように喚き叫ぶか?
火を灯す薪を持つ手に力がこもる。鳥肌が立ち、膝がぐらぐらと揺れ動くような、膝が崩れそうな感覚が俺を襲う。
だから……そうなる前に、そんなゴミどもを見つけたらば逃げるしかないんだ。今はまだ。
ゴミどもがいなければ、腰を落ち着けて無言、微動だにしない人間のほとんどは貧困層の希望を見失った人たちだ。病原菌にやられた人間なら、俺たちが応急処置をしよう。希望を見捨てた人間ならば、俺たちが話し相手になろう。死して地を這う人間ならば、俺たちが安寧を願いつつ弔おう。
美羽が提案し、一人でにやり始めようとした絶望への抵抗だ。希望を繋ぐ、俺たち流の絶望への抵抗。絶望がこの世界を包括しようとするならば、希望を人々に与え続けるしかないじゃないかと美羽は行動を起こした。
ついていかないわけにはいかないじゃないか。恩人のような美羽が、そんな危険なことを一人でやるなんて言い出したらさ。それに俺だって世界が絶望していく様子をただ眺めているだけしかないなんて、そんなことを考えている間は気が気じゃあなかったさ。
そんなときに美羽が言い出したそんな一言。俺の希望のような一言だった。何かをしなければならないと、常日頃から思っていた俺に行動を起こすきっかけを与えてくれた。美羽の行動の発端が、俺のこの世界への希望を見出す最初の一歩だったんだ。
夢の世界へどっぷり浸って、夢の世界の再現を夢見る前からこの世界への希望を見出そうとしていたと。そのことに気付いたのは、つい最近のことだった。
俺たちは近場に座り込んでいた一人の男性に近づいていく。頭髪は抜け落ち、骨と皮だけの四肢はさながら武者を連想させる姿。落ち着いてゆっくりと話しかける。
「こんにちは。」
「……」
返事はない。こちらを見上げる様子もない。動こうとすらしない。でもこれが普通だ。返事を返してくれた時がむしろイレギュラーだ。諦めずに、今度は美羽が話しかける。
「大丈夫ですか?」
と、小さく微笑みながら、美羽は小さな手で男性の肩に触れた。と、次の瞬間。
「ッ!?」
美羽が手をかけた肩骨付近がパリッと音を立てながら崩れ落ちた。瞬間、擡げていた男性の首がゴキッと鈍い音とともに首から外れ、固い地面にぶつかり砕け散った。ギリギリ身体全体を支えていたバランスが、美羽が方に触れたことで崩れてしまったのだろう。わずかに残った頭皮と一部の骨、歯だけが唯一完全な形状を保ち、地に転がる。スカスカの骨は僅かな衝撃で粉々に砕け、欠片を美羽の足元。俺の足元まで飛ばした。
一際大きな破砕音が木霊した通りを、やがて静寂が包み込む。
重しを失った頸椎は自分の役割を全うし終え、安心したかのように温い風にその全体を晒した。美羽の手が触れ、皮と骨が崩れ落ちた際に形成された陥没穴からは、小さなウジがくねくねと何匹か蠢いている様子が伺えた。
「……もう、死んでたんだな。」
美羽はゆっくりと男性の肩に置いていた腕を引き下げる。
「……気づかなかったよ。」
俺たちは両手を体の前で合わせて小さく一礼し、二人黙祷を重ねた。この世で死がその身と魂を別つまで苦しんだのだから、来世ではきっと多幸な人生を授かるようにと願いを込めながら、俺たちの小さな祈りは二者と一人の死者の間で駆け巡った。
「……」
やがて、俺たちはゆっくりと目を開け、顔を上げる。目の前には、さっきまで生きていると疑いもしなかった人間の疑いようもない屍のその姿。死に晒したその姿は、もう動くこともなく……。
「行こう、美羽。」
「……うん。」
俺たちはその場を去るしかなかった。
……いくら毎日のこととはいえども、人の死に出くわすのはやはり心にくるものがあった。
その場を離れ、再び俺たちは広い大通りの右寄りを歩く。どこを歩いても人とは出くわすもんで、端に寄れば寄るほど人の密集率は高くなるけれども、俺たちはあくまで真ん中よりも少し端寄りってほどのところを歩く。人が多すぎても、一対二で話しかけることがほとんどだ。あまり密集しすぎていると人に襲われた時に危ないから、俺たちは用心してその位置を敢えて歩く。
でも、道行く先々で目に留まる人の殆どは死に絶えているのもまた事実で、餓死。姦死。失血死。自殺したものも殺されたものも、病原菌に侵され死んだであろう人間ばかりだ。この通りも生きている人たちの方が圧倒的に少なくなってしまっていた。
……やばいかもな。
周囲の様子を見て改めて思う。確実に病原菌の脅威はこの世界を包み込もうとしていた。死の伝染だった。
病原菌による死……。今、この世界に蔓延している病原菌。名前もよく分かっていない、対策すらも講じられることはない。対策を考えることができるような人間も、もうこの貧民街にはいない。
ただ日々の経験則から、いくつかわかっていること。もしも感染し発症してしまったのならば、まず助かる可能性はないと諦めるほかにないという、途方もなく理解し難い、理解したくもない現実だった。でも、これだけは確実なことだった。
経過はまず頭髪が抜け落ち、肌が黒ずみ始めるという自覚の効く症状から始まる。この時点でもう、患者の死は確定する。抗えない死の定めを感染者は知ることになる。感染者が恐怖に打ちひしがれ狂気に走る者も後を絶たない現状も全て、自覚症状がはっきりしているということが起因していると思う。
やがて黒ずんだ肌という肌は黒く茶色く腐り、腐肉と血の入り混じった黒腐汁を垂れ流し、組織という組織は生きながらに腐り落ちていく。黒汁を垂れ流す部位は肉を引き裂き、焼き焦がすかのような激痛を伴いながら、発症すれば最後。発狂し、体中の組織が壊死し死んでいく。眼球も腐り落ち、臓物は腐汁に溢れ、穴という穴から漏れ出る。その間、僅か二週間。だが一週間は死の恐怖に打ち震え、やがて恐怖を忘れ、痛みに悶え続ける期間は1週間にも及ぶ、恐怖の病原菌だ。発症後の死が約束された病原菌。
唯一、希望だと言えるかどうか甚だ疑問ではあるが、感染してから発症する確率が低いこと。それだけが救いだった。感染しても発症はしない割合は、俺が見てきた感染者たちで考えると90%近く。発症してしまえば待つ未来は恐怖の死だが、発症さえしなければ何事も無く生き続けることができる。もしもこの病原菌の発症率が100%だとすれば、もうこの貧民街から人間は消え去っているだろうしな。
ただ他の病原菌と比べても比類なき恐ろしい感染能力を持っていることもあって、患者の数は減ることはない。事実、世界中の人間がこの病原菌を起因とする感染症によって、隔絶されたこの世界から姿を消した。生き残った人間のほとんどがよせ集まったこの街も、すでに貧困層の全員が感染していてもおかしくはない。ただ発症していないだけで、感染した身体に発生して然るべき抗体も、免疫力の極端に低下した貧困層の人間には無縁の存在だった。
患者は発症するまで、自分が感染しているかどうかを知ることはままならない。劣悪な衛生環境と最悪な生活環境がもたらした、病原菌による死者の増大。
……まぁもっとも、この病原菌が発生してしまった時点で、この病原菌に因る死者の増加は止められることではなかった。この感染力じゃあ、きっとどうすることもできなかっただろう。
俺たちは腐汁の強烈な腐臭が鼻を突くこの場所を、ゆっくりと通り過ぎた。 
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