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いがみの権太  〜義経千本桜より〜

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第四章


第四章

「源氏の者がこの辺りにも来たのです」
「何っ、源氏の者がか」
「はい、梶原景時がです」
「梶原景時がか」
 維盛はその名を聞いて流麗なその顔を曇らせた。
「頼朝の腹心であるあの男が」
「最早猶予はありません」
 弥左衛門の声にそれがはっきりと出ていた。
「維盛様、ですから」
「わかった。それではだ」
 維盛もそれを聞いて頷く。
「一刻も早くここを去ろう」
「既に隠れる場所は用意してあります」
 弥左衛門はその年老いた顔をあげて維盛に告げる。未れば皺が目立つがいい顔をしている。まっすぐに生きた男の顔をしていた。
「ですから御安心下さい」
「その場所とは?」
「上市村の私の隠居場です」
 そこだというのである。
「そこにお隠れ下さい」
「上市のか」
「はい、そうです」
 また語る弥左衛門であった。
「ですから今すぐにでもそこに」
「わかった。それではだ」
「思えばです」
 ここで弥左衛門は語りはじめた。
「重盛様が宋の育王山に寄付する時のことでしたな」
「弥左衛門、そのことはだ」
 維盛は彼が話そうとするのを止めさせようとした。
「私には関わりのないことだ」
「いえ、あります」
 しかし彼はこう言うのであった。
「重盛様は維盛様の御父上ではありませんか」
「それはそうだが」
「それでどうして関わりがないと言えましょう」
 重盛は平家の嫡男であった。棟梁である清盛が最も信頼し頼りとする者でもあった。成り上がり者であるが故に評判の悪い清盛を宥める役目を果たしていたのだ。
 実際のところ平清盛は実に人柄のいい男であった。決して残虐でも傲慢でもなかった。その人柄は温厚であり身分の低い者にも優しかった。源氏が一族同士で殺し合いを続けていたのに対して彼は一族を非常に大事にした。また人の苦労も知る人物であった。
 その清盛を支えてきたのが重盛であったのだ。維盛はその嫡男なのだ。
「私がその役割を仰せつかわり」
「しかし音戸の瀬戸だったか」
「はい」
 海賊が多く出た場所である。瀬戸内は非常に海賊が多い場所でもあった。藤原純友もそうであったしこれより後の戦国時代もそれは同じであった。
「そこでその銭を奪われ責を取り腹を切ろうとしたところ」
 弥左衛門の声がうわずってきた。心が抑えられなくなってきたように。
「そこを助けて下さったのが重盛様だったではありませんか」
「あれは父がしたことだ」
 だが維盛はあくまでこう言うのであった。
「私ではない」
「いえ、それでもです」
 弥左衛門の言葉は続く。
「私には恩があります」
「だから私を助けてくれるのか」
「その通りです。ですから早くお逃げ下さい」
 再び維盛に逃亡を進める。
「追っ手が来ないうちに」
「わかった。それではだ」
「後で娘も行かせます」
 お里のことも忘れてはいなかった。
「では今すぐに」
「よし、では」
 維盛は弥左衛門の言葉を遂に受けた。そうして今まさに店を発とうとした。しかしその時だった。
 不意に店の玄関の扉を叩く音がしてきた。二人はその音を聞いて顔を見合わせる。
「まさか」
「追手が!?」
 強張った顔でその可能性を考えた。今はそれを考えてもおかしくはない状況だった。だがその危惧はこの時は幸いにして外れたのであった。
「若し」
「!?この声は」
「女の声ですな」
「うむ、間違いない」
 維盛は弥左衛門の言葉に対して頷いた。
「では追手ではないか」
「いえ、それはまだわかりません」
 弥左衛門はあくまで慎重であった。
 
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