八百比丘尼
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4部分:第四章
第四章
「花魁の方々だけでなく」
「明治になっても色々ありましたしね」
「東京になりましたが。まずは」
「薩摩の人ですか」
「はい」
彼女はまたしても頷いた。
「大層立派な御方でしたが。亡くなられました」
「どんな方でした?」
「二人おられました。大柄で恰幅のよい方と。痩せていて鋭い目をした方です」
それを聞いておおよそのことがわかった。薩摩で幕末、そして維新に活躍したあの二人だ。袂を分かつことになったが幼い頃からの親友同士であり、そして盟友であった。彼等なくして維新はなかっただろう。
「皆さんは大柄な方ばかりを慕っていましたが。私はあの鋭い目をされた方もお慕い申しておりました」
「二人共私がなかったそうですね」
「はい。本当に一途な方々でした」
私はなかったので有名な二人であった。蓄財も一切なく、そして全てを公に捧げた。口で言うのは容易いがやはり簡単に出来るものではないだろう。あくまで彼等の武士道により価値観に基づくものであろうしそれを過剰に賛美するつもりはないにしろそれでも己の価値観を守り通したのは賞賛に値すると思う。
「それでも」
「残念なことですね」
だがそれがいいのか悪いのかというとこれはまた別の問題になるかも知れない。あの二人はあまりにも個性が強かった。あれ以上歴史の舞台にいては変な影響があったかも知れない。若しかするとでしかないが歴史的にはいいタイミングでの退場であったのだろうか。そう思う時がある。
「あの方々に御会い出来たのは幸せでした」
「それはいいことです」
「それから。東京におりました」
「江戸の頃と比べてどうでしたか?」
「華やかなものでした」
声が笑いだしているのがわかった。
「何もかもが瞬く間に変わって。まるで万華鏡みたいに」
「ザンギリ頭を叩いてみれば」
ここで私は口ずさんだ。
「文明開化の音がする、ですか」
「それからも。変わり続けましたし」
「綺麗だったのですね。あの頃の東京は」
「今は全然違うのでしょうね」
「まあ少し観ただけですけれど」
私はやはり関西の方がいいのであるが。
「今は今で魅力のある街になっていますよ」
「そうですか」
「けれど行かれないのですね」
「はい、もう」
彼女の声から笑みが消えた。また俯いた声になった。
「焼け野原になって。そしてあの方も死んで」
「太宰さんですか」
「時々あの訛りの強い言葉で言っておられたのですよ。また故郷に帰りたいと」
「ほう」
それは初耳であった。太宰は戦災を避けて帰郷していた時期がある。戻ってすぐの頃だったし、それに故郷の実家とは複雑な事情があったのに。自作でもよくその複雑な事情や心境を語っている。それでその様なことを言っていたのは意外であった。
「最後の頃は。そう仰っていました」
死ぬ前にそう思っていたということであろうか。
「それで。あの方が亡くなられた後津軽に行き。東京に戻ろうと思ったのですけれど」
「ここで立ち止まってしまったと」
「まさかここが。あの山伏だった方々が最期を遂げられた場所だったとは、と思いまして」
またしても無常に遭ったということか。
「懐かしくもあり悲しくもあり。ここに足を止めてしまいました」
「それからここにおられるのですね」
「はい。もう暫く」
寂しい声で答えてくれた。
「私も。もうすぐ去りますから」
「もうすぐとは」
「永遠というものは結局ないのです」
声が更に寂しくなる。
「気の遠くなるような長い時間を生きていても。それが終わる時が来るものです」
「その魚の肉を食べてもですね」
「あの魚を食べたのは。きっと運命だったのでしょう」
「運命、ですか」
「はい。私に寂しさや無常を教えてくれる為に。神が食べさせて下さったのです」
「よかったと思われますか?」
「よかったのでしょう」
自分でその結論は下せないようであった。
「ただ。あまりにも時間が長過ぎました」
「長い時間は不要ですか」
「人間には相応しい時間があるものです。そしてそれが終われば輪廻に身を任せる」
「その輪廻に加われなければ悲しみが待っているだけ」
「多くの別れと悲しみを見てきましたから。こうしたことが言えるのでしょうか」
「人間生きていれば絶対に別れと悲しみがありますからね」
私は言った。言いながらまたお菓子とお茶を口にする。確かに美味いがどうもこうした場面では酒を飲みながら話をしたいと思った。御仏に仕える人の前でこう思うのは不謹慎だが。
「その悲しみを何度も何度も味わうのは地獄であります」
「長く生き過ぎるのは地獄ですか」
「人の背負える限度を越えると。何もかも地獄になります」
「悲しみの地獄」
私はポツリと呟いた。
「私にはわからないでしょうね。申し訳ないですが」
「いえ、聞いて下さったことに感謝しています」
優しい声で答えてくれた。
「私の。とりとめのない話を」
「いえ。お聞かせ頂いてこちらも感謝しています」
この時私達は互いを見てはいなかった。茶と菓子を嗜みながら前を見ていた。目は少し下にあった。
「寂しいお話ですね」
「寂しい、ですか」
「はい。これからどうされるのですか?」
「最後の時間も一人で過ごすつもりです」
彼女は言った。
「私は。他に誰もいませんから」
同じ時代の人間は当然残ってはいない。そして知っている者達も全て先に旅立った。だから一人しかいないのであった。本当に寂しいことである。
「その方がいいでしょう」
「けれどすぐに一人ではなくなりますよ」
私は言った。
「えっ!?」
「貴女は確かに多くの別れを経験されてきました」
私は言葉を続けた。あえて彼女は見なかった。
「ですが。その方々は皆貴女をお待ちしておりますよ」
「私を」
「そうです。人は死んでも。それが別れではないのですよ」
「別の世界で会えるのですか」
「これはある人に言われたことですが」
私はまた言った。
「別れは確かにありますけれどね。絶対の別れはないのだと」
「はじめて聞きましたが」
「気付かれなかっただけです」
「長い間。生きていて、ですが」
「一つのことに捉われていると。他のものまで目がいかないのですよ」
「・・・・・・・・・」
黙ってしまった。機嫌を損ねてしまったのだろうかと思った。だがそれは違っていた。
「では。御会いできるのですね」
「そうです。次の世界で」
私は言う。
「皆さんお待ちしていますよ」
「では憂いは必要ありませんね」
「勿論です」
励ますつもりではなかったがこの言葉が出た。
「安心して旅立たれるといいですよ」
「それを聞いて救われました」
声が微笑んでいるのがわかった。
「それでは」
すっと立ち上がった。小銭を置いていく。
「また。御会いしましょう」
「はい、また」
それが別れの挨拶であった。彼女はそのまま何処へかと去って行った。後には何も残しはしなかった。
衣川での話であった。今ではもう遠い昔の話に思える。あの人は今どうしているだろうか。旅立たれたかも知れない。しかし私はそれを確かめる術を知らない。若しかすると知ることになるかも知れない。
だがそれは今ではない。しかしいずれやって来る。その時を楽しみにしておくだけであった。
八百比丘尼 完
2006・4・18
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