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乱世の確率事象改変

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日輪と真月編
  彼の背に羽は無く、彼女の身は地に落ちて

 凄く強い人だとずっと思ってた。

 頭も良くて、力も強くて、なんでも出来て……

 本当は凄く弱くて、臆病で、子供のような人だった。

 その人を怖いと感じた事は無かった。

 本当は優しい事を知っていたから――――否。

 誰かの為にありたいと願っていたから――――否。

 自分と……同じような人だから――――それも否。

 あの人はただ普通に、天に行こうとしただけ。

 日輪が朝に昇るように。真月が夕闇に浮かび上がるように。

 私は知っている。私と、彼女だけが理解している。辿り着いた先がどれほど冷たくて、寂しい所か。

 多分、何をしているのか理解しているから怖く無かった。

 消えてしまったあの人に、私は何も返せない。やっと気付いた気持ちも伝えられない。

 あの子は泣いた。

 私も泣いた。

 そしてあの子は諦めた。あの人の幸せを願って。

 私はあの子の為に諦めない。二人の幸せを願って。


 でも……ほんの少しだけ、今この時に幸せを感じてる私がいた。



 †



 穏やかな日差しが街を照らしていた。
 覇王の膝元であるこの街には活気が溢れ、人々の表情は安堵に満ち満ちている。行きかう声は軽やかに、進みゆく民は充足感に満たされ地を踏みしめ、誰もが生を謳歌していた。
 そんな中に二つ、目を引く存在が居た。
 一人は黒い衣服を身に纏うすらりと高い背丈の男。ゆっくりと、身体の不調を気にしながら歩いている。行きかう民に楽しそうに挨拶を行いながら。
 一人は大陸で名を知らぬモノが居ない名店で給仕が着ているような服を着た、白銀の髪を流す美しい少女。男を気遣い、隣で優しく微笑みながら……こちらも挨拶を返しながら歩いていた。
 半月程前からであろうか。民達は毎日のように街に来て話しかけてくれるその二人を受け入れていた。
 大きな体躯と真黒な衣服、背に引っさげる長い剣を見た誰もが、その男の事を知っていた。大徳の将、黒麒麟……二つ名は覇王が治めるこの街でも有名であった為に。
 何故ここにいるのか、等と人々は聞くことも無く、気にもしない。その存在がこの街にいるというだけで、安心と期待が胸に来るだけである。ただ、既に至る所でこんな話が街中に溢れていたのも理由の一つではあった。

『我らが覇王の元に大徳が降った』
『徳と覇を併せ持つ覇王、曹孟徳こそがこの大陸を救える証拠なのだ』
『衰えてしまった旧き龍の時代はもうすぐ終わる。劉玄徳は大徳であろうと不足の存在なり。新しき時代は誇り高き覇王と真の大徳黒麒麟によって作られるのだ』

 中原の街々では同じような話を耳にするモノは多く、民の心はかつてない程に安定し始めている。噂話は希望のカタチとなって民の心に響いて行く。
 そんな噂が立ったのは一人の少女の指示で行われた情報操作の賜物であった。
 鳳雛、と世に広く伝わる少女が齎した波紋は大きく、河北の果て、幽州の地まで届き始めていた。

 曰く、白馬の王は救われた義を果たす為に、昇龍を引き連れて仁徳の君と共に。
 曰く、黒麒麟は民を多く救う為、そして白馬の王の無念を晴らす為に覇王と共に。

 漸く共に戦えるはずだった三人がすぐに別々になった事を想い、白蓮が治めていた街では涙を流すモノも少なくなかった。
 そして願う。どうか、この乱世で彼らが敵対すること無きよう。どうか、平穏な世になるならば、白馬の王に嘗ての平穏を。
 老獪な知恵あるモノ達は行く先に気付いているから涙を流した。覇王と仁君は争う可能性が高く、白と黒が混ざるはもはや乱世の終結でしかありえない、と。

 民の心がどのように動いていくのか予想して、嘗ての王たる白銀の髪の少女――月は心が沈んでいた。
 今、『彼』はいないのだ。
 白馬の王や昇龍の友も、覇王が欲した異質にして有能な将も、自身達を助けてくれた優しい男も、兵士が想いを預けた黒麒麟も……そして鳳凰が愛して救いたいと願った『彼』も、此処には居ない。
 人々からの期待という名の鎖は、どれほどその男を……嘗ての自身と比べられて締め付けるのか。
 隣で楽しそうに歩く彼をちらりと見ると心がジクジクと痛みを訴えた。
 彼女は……『彼』が消えてからぽっかりと自身の心に穴が空き、漸くその根幹にあるモノを理解していた。
 ズキリと大きな鋭い痛みが胸に走り、心に穴が空いた日を思い出した彼女は泣きそうになった。


 †


 絶望の日、雛里は彼が記憶を失った事を知ってしまい、月と詠の部屋に駆け込んで一晩中泣いていた。
 彼女達は始め、何故泣いているのか理解できずにただ慰めようとしたのだが、言葉も零せないほど大泣きしている雛里を見て異常さを感じ取った詠が秋斗の様子を確認して……事を理解した。
 詠は喚いた。涙を流しながら彼に掴みかかった。彼にはどうしてそうされるか分かるはずが無いというのに。
 その時は詠も壊れそうであった。雛里の心、月の心、徐晃隊の心を想って、そして……自分の奥底にある想いを、『彼』を失った事で理解してしまったがゆえに。
 雛里のような身を焦がし尽くすような想いでは無く、ほんの些細な、淡く暖かい恋心。芽生え始めた新芽であり、きっとこの先育って行くと自身でも予測が容易いモノだった。
 だから詠は彼を責めたてるしかなかった。自分が壊れてしまわないように、二人の少女が言えない事を言ってやれるように、今も信じているモノと死んでいったモノ達の分も伝えてやれるように。
 そうする事で、責任感の強い彼ならばすぐに戻ってくるのだとも思ったから。

「どうしてっ……あんたは皆の願いを叶えるんでしょ!? ボク達の想いを繋ぐんでしょ!? 皆が願った平穏な世界をっ、作るんでしょ!? ボクと月にっ、それを見せて、くれるんでしょう!?」

 彼は無言でその声を受けていた。最初は訝しげに眉を顰めるだけだった。しかし、聡い彼が予測を立てないはずが無かった。

「俺は……もしかして記憶を無くしたのか?」

 ぽつりと呟かれた言葉を受け、彼が戻ってこない事に気付いて、次第に詠の声は泣き声に変わっていった。

「バカ、バカよあんたは……ボク達も……っ……」

 もうその場に居る事も出来ず、詠も雛里のように彼の部屋を後にした。
 部屋に着くなり月に語った。彼がどうなっているのか、涙を零しながら、雛里を抱きしめて、その泣き声が大きくなっても伝えた。
 月は彼の元に行かなかった。否、行けなかった。
 その時に空いた穴は思考を停止させ、その双眸から涙を零れさせ、自身の身体をその場に縛り付けた。
 呆然と宙を見やること幾分、彼女はその隙間を埋めるように、詠と雛里を抱きしめた。
 そこで気付いた。自分が『彼』を求めていたのだと。今、会いに行けないのは……想いを向けていたはずの『彼』が消えてしまった事を認めたくないからなのだと。
 詠と雛里が泣き疲れて眠った頃に、月は一人で震えていた。自分の気持ちに気付いて、溢れ始めた想いをどうしていいのか分からなくなっていた。友となった少女の恋を応援していたのに、同じ人を想うようになるとは思っても見なかった。
 寝ずに自問自答を繰り返した彼女に、朝早くに目を覚ました雛里は優しく告げた。

「月ちゃん、私はこれから戦場に向かうから徐晃さんの側に居られない。私が秋斗さんの代わりに想いを繋ぐ。私に出来るのはそれくらいだから……一人ぼっちの徐晃さんを支えてあげて?」

 雛里が言っている事は隠された意味があった。月は雛里が彼の元に居られない……否、居たくない理由が分かってしまった。

「雛里ちゃん、忘れたままでいい……って考えてない?」

 瞬間、雛里は悲痛な表情に変わった。自分の心を見透かされて、ふるふると震える身体を自身で抱きしめた。
 雛里は一番初めから彼の事を知っている。だから、思い出させるなら傍にいるべきなのだ。
 ゆっくりと大きく息を吐いて、雛里は月を見据えた。悲哀と、後悔と、ほんの少しの歓喜を乗せて。

「出来るなら……このまま思い出さないで欲しい」
「どうして?」
「……記憶が戻ったらもっと壊れちゃうから。人を救いたくて仕方なかったあの人は、自分が全てを忘れていた事を責めて、今度こそ自分を殺しきっちゃう。私は……もうあの人に苦しんで欲しくない。
 あともう一つ、一緒に居られない理由があるよ。きっと徐晃さんは『秋斗さん』の事を知りたがる。そして『秋斗さん』になろうとする。徐晃さんが私と初めて出会った時と同じ優しい人なら、黒麒麟になる前の『彼』だったなら、きっとそうすると思う」

 月はぎゅっと眉を寄せて雛里を見つめた。彼女が余りに儚く、哀しい笑顔を浮かべていたから。
 雛里は彼に『彼』のことを教えてあげない、と言っている。古くから付き従ってきたモノも全て居なくなった今、本当の意味で秋斗の事を語れる者は雛里以外に居ない。
 秋斗をずっと見てきたから気付いてしまった。臆病で普通の男だった秋斗が練兵をしていく内に将となったのは……愛紗や星、鈴々の在り方を真似ていたからだと。
 ならば今回はどうなるか、予測に容易い。人から願われる姿があるのならば、世界を変えようと動いていた嘗ての自分が居たならば、今の徐公明は『黒麒麟』を演じようとする。
 雛里の判断は彼女の思惑を超えて正解であった。記憶を失ったならば過去の自分を求める事もあり、秋斗の場合は与えられた目的の為に余計それに引き摺られる事となるのだ。
 対外的には、初めの臆病な彼に戻ったのなら、偽物の黒麒麟は徐晃隊を扱うには足りず、軍としてのズレが大きな害を生むとも説いていた。
 ただ……思い出さずに、矛盾を感じずにいて欲しい、そして同じ存在だとしても、演じられている偽物の秋斗を見たくない……さらには、慕っていた事を知って自分に縛られて欲しくない。それが雛里の本心だった。
 自分も同じ気持ちであったから、月はそれが分かってしまった。
 雛里は彼女の耳元に口を近づけて、ゆっくりと声を紡いだ。

「徐晃さんが幸せでいられるならそれでいいの。秋斗さんの事……好きだったって気付いた月ちゃんはどうしたい?」

 驚くほど冷たい声だった。嘗て黒麒麟と共に敵をどのようにして撃退するか考えていた時の声音。凍えるような鳳凰の囁き。
 雛里は『秋斗』の事を、同じ存在ならば全て忘れて幸せになって欲しいという言い分で諦めたのだ。
 言い返そうとした月は雛里に指を一つ口元に当てられて何も言えなかった。

「私じゃ彼を救えない。きっと記憶が戻っても、私が隣に居たらまた壊れちゃう。記憶が戻らなくても、私の存在が徐晃さんを過去に縛り付け過ぎちゃう。だからね、月ちゃんが徐晃さんを幸せにしてあげて。きっと今のあの人は私に出会う前の徐晃さんだから」

 自分勝手な物言いだった。しかし……雛里の泣きそうな瞳を見るとどうする事も出来なかった。
 ほんの少しだけ、月には疚しい気持ちが湧いていたのだ。
 雛里と秋斗が想いを伝えあった事は既に聞いていて、恋仲の関係になった事も分かっていて、平穏な世界で幸せを探そうと約束した事も知っている。

――――羨ましい。

 夜に震えながら抑え付けていた中にはそんな気持ちもあった。初めて恋した相手と出会い方が違っていたなら、自分が隣に居たのではないのかと。
 気を失う直前の言葉は雛里への謝罪だけ。深く自分を責めていたのは雛里の為だけ。全ての想いは雛里の為だけ。
 だから……月は初めての感情が溢れ出していた。彼女が、既に王では無く、一人の少女になってしまったが故に。
 雛里は月の瞳をじっと見据えて、綺麗な笑顔で笑った。

「ふふ、あの人はこの軍だと真月になるよ。日輪が地に落ちかけた時に優しく大陸を照らす人になる。その隣は、その真名を持つ月ちゃんが相応しいんだよ。じゃあ、行ってくるね」

 寝台から立ち上がった雛里はゆっくりと歩みを進めて行く。小さな背はさらに小さく見えて、肩がかすかに震えていた。
 堪らず、月は声を張り上げた。

「雛里ちゃんっ! 絶対、あの人を戻してみせるからっ! だから諦めないで!」

 振り向くことも無く、扉を開けて静かに出て行った雛里の瞳からは涙が落ちていた。
 静寂の中、月は涙を零した。自分が余りに無力過ぎて、自分が余りに欲深すぎて。
 ふるふると頭を振って、彼女は心を固めて行った。

――彼の隣にいるべきなのは私じゃない。雛里ちゃんじゃないとダメ。私は二人共好きだから、二人に幸せになって欲しい。

 いつものように、自分は誰かの為でありたいと願った。誰かを救いたいと願った。自分の欲よりも誰かの幸せを願った。
 鳳凰を優しい少女に戻す為に、夜天に浮かぶ月の真名を持つ彼女は、黒麒麟を呼び戻す事に自分の全てを賭けようと誓った。



 †



 現在、曹操軍は両袁家との戦が終わり、徐州の掌握に動いていた。
 勝利報告が本城に着いたのは二日前。華琳は徐州の掌握の為に少しばかり居残りを選択した、とのこと。
 早期決着が予想されていたのだが、孫策軍が思う様に動かなかったことと、袁家による秘策によって劉表軍と黒山賊が同時に攻め入ってきた事で時期が遅れていた。
 本城にいる程昱――風の判断によって秋蘭と流琉が劉表軍に、真桜と詠が黒山賊討伐へと動き、本隊から凪と沙和が救援に駆けつけてどうにか跳ね返せたのが現状。彼女達は警戒の為に国境付近に駐屯済みである。
 ちなみに、詠は今後の為、袁家を乱世から退場させた時は正式に華琳の部下となる事が決まっている。名も改めるのだが、それはまだであった。月は彼の側に少しでもいる為に侍女のままを選んでいる。
 そんな中、秋斗は風に促されて毎日警邏へと向かっていた。
 民心の安定と大陸全土への情報操作。雛里が風に書簡を送って噂を流させ、それを確実なモノとする為の行動だった。
 ちらりと隣の彼を見やる月の瞳は悲しみの色。それを受けて、秋斗はふるふると首を振った。

「ごめんな、毎日付き合わせて。俺が前にしてきた事をなぞれば記憶が戻るかも、と思ってたけど……どうやらまだ戻らんらしい」
「いいんです。ゆっくり進んで行きましょう」

 彼の声は昔のまま。民に接する様子も、子供達と遊ぶ姿も、全てが戦の無い時に行っていたモノと同じであった。
 相違点は無く、月は『彼』の隣にいるようで心が暖かくなってしまう。同時に、自身の愚かしさに罪悪感が来る。
 ただ、渦巻く心とは別に、月は一つの事柄に納得していた。

――秋斗さんは多分、戦場に立たないと戻らない。誰かの命を奪って、一番背負ってて重たかったモノを感じないとダメなんだ。

 そこでまた一つ、気持ちが沈んで行く。

 雛里の予想通り、秋斗は月と詠に会って直ぐ、自分がどんな人間であったのかを聞いていた。
 二人は始めに嘗ての自分を演じようとしないようにと強く言い聞かせてから、彼女達が見てきた黒麒麟の事を語った。
 徐晃隊の生き様も死に様も、いつも何を目指していたのかも、壊れた状況も……華琳と同じモノを掲げていたのに桃香に従っていた矛盾も。
 鳳凰の事は最低限に抑えた。いや、雛里の想いを勝手に伝える事が出来なかった、というのが正しい。だから、自分達と同じように黒麒麟を支える子だった、とだけ伝えた。
 全てを聞き終わった秋斗は大きくため息を吐き、自分は切羽詰っていたんだろうなと返していた。瞳に怯えの色を大きく映し出して。
 嘗ての自分に恐れを抱いているのは二人にも透けて見えた。どれだけ異質で、どれだけ異常な『最効率の戦場を作る化け物』となってきたか、そしてどれだけの人を諦観してきたのか……それを理解する事は初めから隣で見てきた雛里と副長にしか出来ない。
 秋斗が次に呟いたのは、自分は人を殺すのが怖い、だった。正直に吐露された本心に、月も詠も、目の前の存在がどうやってあの化け物になったのか予想もつかなかった。
 そのまま、過去の話は月と詠が仕事の為に無くなり、秋斗も他には何も聞こうとはしなかった。

 今、月の心は揺れていた。雛里の気持ちが少し分かった為に。
 禁忌の行いに怯える秋斗は、華琳の元にいる限り人殺しを行わなければならない。民からの期待と所属する兵達からの期待に応え、そして華琳への借りを返す為には乱世を駆けなければならない。
 黒麒麟の本当の姿は今の秋斗。人を殺すのが怖くて、戦なんかしたくなくて、子供達と遊んでいる方が性に合っている。月の目にはそう映っていた。
 そのまま思考に潜り、彼がこれからどうなっていくのかと考えていると、

「ゆえゆえは――って大丈夫か?」
「へぅっ!」

 急に声を掛けられ、自分の子供っぽい口癖が出てしまった月は思わず顔を赤らめた。

「おっと……急に話しかけてごめんな」
「いえ、ぼーっとしていた私が悪いので……それと、やはり真名で呼んでくれませんか? 違和感が――」
「ごめん。例え今の君が真名しか無くても呼べない。わがままだけどさ、ずっと支えてくれてたって三人の真名は記憶が戻った時にちゃんと呼びたいんだ。大切な真名を預けてくれた時の事を思い出さないと、君達の想いを穢しちまう。だから、ごめんな」
「そう……ですか」

 しゅんと落ち込む月に秋斗はどうしたモノかと首を捻っている。
 真名というモノは命と同等に重い。それを安く見積もる者は切り捨てられてしかるべき。ただの名前とは違うのだと秋斗は理解を置いていた。
 矜持や誇りといった他人が心に持つ大切なモノを穢す事を嫌っていた彼は、記憶を失っても変わらない……それが分かっても、月の心は少しだけ疼いた。

――それでも前のように呼んで欲しい。

 些細な想いは彼には伝わらない。
 隣を歩く度に、その声を聞く度に、優しい笑顔を見る度に、秋斗が記憶を無くしているとは思えず……むしろ平穏に生きる彼の姿のままであった為に、月は寂しい気持ちが募っていく。

――ダメだこれじゃ。今の秋斗さんは過去の自分と比べられるのは嫌だろうから、私も受け入れないと。

 ふるふると頭を振った月は、自分の気持ちをそのままに、彼の方を向く。

「聞きたい事はなんでしょうか?」
「ん? ああ、ちょっと聞きたいんだけどさ。風が明日娘娘って店に連れて行ってくれるらしいが、ゆえゆえは行った事あるのか? 場所は東町の奥にあるみたいだけど……」
「……無い、です。風ちゃんはそのお店の事を話してなかったんですか」
「『お兄さんのような趣味を持つ人に大好評なお店なのですよー』としか言ってくれなかったな」

 のんびりと喋る眠たげな少女を思い出した秋斗は苦笑を零す。自分が持つ趣味とはなんだろうと考えながら。
 きっと伝えないのは彼女なりの考えがあるのだろうと割り切り、月は顔を俯けて真実を伝える事をしない。
 娘娘は秋斗所縁の店であり、彼が伝えた数多の料理が客に出される最高級の店。平穏な時間によって記憶を呼び戻す為には最適の選択と言えた。

――娘娘でダメなら、やっぱり彼は戦場でしか戻れないことになる。

 怯えを携えた瞳を思い出してチクリと胸が痛んだ。
 月にも、直ぐに袁紹軍と本格的な戦になる事は目に見えている。
 出来るなら、雛里と会うまえに記憶が戻って欲しかったが、現実は厳しく差し迫る。それでもダメならもう戻らないかもしれない、という可能性さえ見えてくるのだから。
 さらには、雛里が秋斗の事を『徐晃さん』と呼び、秋斗が雛里の事を『鳳統ちゃん』と呼ぶ。その状況を思い浮かべて、月はまた哀しみが心に湧いた。
 しかし沈みかける気持ちを押し上げて、月はきゅっと唇を引き結び顔を上げる……前に頭を撫でられた。

「忙しい風がわざわざ連れて行ってくれるって事は、きっとその店は俺に関係した店なんだろう? 食事ってのは人を幸せにする一番の方法だし……記憶が戻って、君達が俺の事を気にせず幸せな時間を取り戻せるように出来たらいいなぁ」

 優しい声音と微笑みを向けられて、熱が顔に昇ってきた。鼓動は速く、じわりと手に汗が染みて行く。

――この人は……前に居た別人の自分に不満も漏らさず、本当は自分も見て欲しいはずなのに、私達の事を思いやれるなんて……やっぱり秋斗さんなんだ。

 無意識の内に、彼女は秋斗の片手を握った。

「どうした?」

 きゅっと緩く力を込め、なんでもないと示すように頭を振って俯いた。
 一つ二つと涙が零れる。前の彼を求めている自分達は、今の彼を傷つけていると感じてしまったから。
 秋斗は何も言わず、ポケットから取り出した手ぬぐいで彼女の涙を拭った。
 その手を繋いだまま、近くの茶屋に連れて行って出先の椅子に二人で腰を下ろす。彼女の涙が止まるまで、と。
 暖かいお茶が二つ。いつの間にか秋斗が頼んでいたそれを受け取り、月はゆっくりと覗き込む。

「あんまり気にするなよ? それだけ想われてたってだけで今の俺の心も暖かくなるからさ」
「……でも、ごめんなさい」

 一瞬だけ間を置いて、彼は優しいなと呟いた。後に、いつもの言葉を紡ぎ出す。

「クク、敵わないなぁ」
 
 月はまた一つ、雛里の気持ちが分かった気がした。
 その言葉は雛里から聞いていたモノ。偶に月にも零していたモノ。苦笑と共に紡がれたら、やはり前の彼とダブって見えて、きゅうと胸が締め付けられた。
 幸せを感じている自分に気付いて、彼女は追い遣るようにお茶を啜る。
 二人は無言でお茶を飲み続けた。しばらくして、彼と彼女はまた街を歩み始める。嘗ての自分を探して、平穏な一時を求めて、誰かの幸せを探して。
 午後の昼下がり覇王の膝元。そこには黒麒麟も王であったモノもおらず、一人の男と一人の少女がいるだけだった。


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

第二章の始まりなので主人公の話からです。
徐州の戦がどうなっていたかは後々示します。

次は風ちゃんと娘娘に出向いて……あの子が出ます。

あと、何話か後に書く孫呉の話ですが、孫呉VS美羽ちゃん達を詳しく読みたい方がおられましたら長めに書きます。
読んでみたいとのご意見がなければ一話程度に軽く纏めます。

ではまた 
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