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群衆

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第三章


第三章

「ですから。それをなくすまでは」
「去らないと仰るのですか」
「そのつもりです」
 穏やかだが固い決意がそこにはあった。
「どうか。それを御聞き下さい」
「あまり。お勧めはできません」
 司祭は首を横に振ってこう答えた。
「このままでは貴方は」
「そうですか。ですが私は」
「何があっても。宜しいのですか?」
「元より覚悟のうえです」
 また穏やかな笑みを見せて司祭に答えてみせてきた。
「私が正しいかどうかは。神が御存知ですので」
「そうですか」
「司祭様」
 ここで今まで黙っていた少年が司祭に言ってきた。やはりその顔は穏やかで目の光も澄んだものであった。
「先生は本物です」
「本物なのかい」
「はい、そうです」
 その曇りのないはっきりとした声で司祭にも答えるのであった。
「これ程素晴らしい方は他におられません」
「それはそうだ」
 これは司祭も認めるところだ。はっきりとその言葉に頷くことができた。
「だからだ。私も今こうしてお邪魔させてもらっているのだよ」
「有り難うございます」
「しかし。だからこそ言うのだ」
 また司祭の顔が真剣なものになった。切実な声で老人に対して言うのである。
「貴方は。一刻も早くこの街を離れるべきです」
「どうしてもですか」
「そう、本当にそうするべきです」
 あくまでそう勧める。それもこれも彼のことを本当に思っているからこそである。司祭は老人のことを心から心配しているのである。
「馬車でも何でも私が用意しておくから」
「非常に嬉しい御言葉です。ですが」
「それでも。駄目なのですか」
「はい。私もまた考えがありますので」
 やはりこう言って受けようとはしないのであった。
「お許し下さい」
「例え何があってもですか」
「ですから。それもまた覚悟のうえですので」
 彼の考えはどうしても変わらないようであった。穏やかな顔の中には確かな決意さえあるのであった。揺るぎない決意が。
「申し訳ありません」
「そうですか」
 司祭はその言葉を受けて目を閉じた。それから静かに述べるのであった。
「わかりました。それでは」
「はい」
「御自身の道を歩まれて下さい」
 こう言うしかなかった。
「貴方の思われるように。それが道なのですから」
「すいません、それでは」
「まさか。貴方の様な方がおられるとは」
 司祭はそのことに感激さえしていた。神に仕える者であってもその心は穢れきり、蓄財や権勢、美女を追い求める輩ばかりであったからである。この時代の教会の腐敗は目を覆わんばかりであった。司祭もそのことは実によく知っていたのである。教会にいるからこそ。
「ですから。身辺には御気をつけ下さい」
「はい」
「僕も先生を御護りします」
 少年も言ってきた。
「何があっても」
「頼む。君がいてくれるだけで非常に有り難い」
 司祭は彼にも声をかけるのであった。
「だから。本当に頼むよ」
「わかりました」
 彼等の誓いはささやかであったがしっかりとしたものであった。そのしっかりとした誓いはそのまま彼等の胸に残った。それから暫くはこれといって騒ぎもなく老人達も静かに暮らしていた。だがある日街に大雨が降った。
「珍しいな」
 司祭は教会の窓からその激しい雨を見て呟いていた。
「ここまで激しい雨が降るとはな」
「最近あまり降っていませんでしたし」
 彼の助手を務める若い修道僧が彼に言ってきた。
「それを考えるとこれは恵みの雨ではないでしょうか」
「恵みのか」
「はい、かつてマナを降らせ給うたように」
 ここで聖書の言葉が出た。
「この雨もまた」
「そうだな」
 司祭はその若い助手の言葉を受けて微笑むのであった。
「水がなければ作物も育たぬし」
「我々の飲む水もありません」
「それを考えれば恵みだな、確かに」
「これこそ神の御業です」
 こうも言うのであった。
「ですから。素直に喜びましょう」
「わかった。では今日は静かに聖書を読むとするか」
「ええ。それでは」
 修道僧は司祭の言葉を受けて微笑んできた。
「そのように」
「うむ。それではな」
 彼等は静かに雨の中を過ごしていた。やがて雨も止みまた太陽が顔を出すようになった。するとここで異変が起こるのであった。
 疫病がさらに広まったのだ。まさに街全体に。倒れ伏しそのまま事切れる者が次々に現われ街は地獄絵図となった。老人はすぐに少年を連れて彼等の治療にあたったがここでまたおかしな噂が何処からか出て来たのであった。
「あの爺のせいだ!」
「あいつが疫病を流行らせたんだ!」
 そう言い出す者達が出て来ていたのだ。
「俺は見たんだ!あいつが井戸に毒を流すのを!」
「何っ!?」
 井戸に毒を流したという噂に多くの者が反応した。
「雨の日にあいつが一人外に出て!毒を入れていたんだ!」
「それは本当か!?」
「ああ、本当だ!」
 噂話の常で根拠なくこう言われるのであった。
「井戸だけじゃない!川だって!」
「川にもか!」
「俺達だけじゃなくて農作物にも何かしようとしていたんだ!俺は見たんだ!」
「おい、それだと大変だぞ!」
「そうだ!」
 話はさらに大きくなってきていた。まるで燎原の炎の如く。
「あの爺はやっぱり魔術師だったんだ!」
「悪魔だったんだ!」
 こういうことになってしまった。
「殺せ!殺すんだ!」
「さもないと俺達が!」
 話がまたこうした流れになってしまった。司祭はそれを聞いて慌てて老人の家に向かう。家にいるのは彼だけで少年の姿は見当たらなかった。
 
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