群衆
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第一章
第一章
群衆
彼等がどうしてここにいるかというと多くの者はそれを知らない。それはどうでもいいことであった。
しかしこれだけは言えた。彼等が市民達にとって忌み嫌われる存在であるということだけはだ。アンジェ近郊にあるこの街においては異邦人である彼等はそうした存在であった。
特に彼等が何かをしたというわけではない。それどころか老人は医者として人々を治療し養子の少年はそんな彼を慕って養子に入って弟子入りしたのである。しかし人々はそんな彼等を理解することなぞなく魔術師だの悪魔の使者だの言って忌み嫌っていた。教会がこれを言ったわけではない。それどころかここの司祭であるミラボー司祭は彼等に対して好意的でありその医術の腕を高く買ってさえいた。しかしそれはあくまで彼個人の好意でしかなく民衆はそんなことは信じたりはしなかったのだ。
「あの爺は魔術師だ!」
「いや悪魔だ!」
何かあればこう叫ぶのである。そうして手に手に物騒なものを持って市庁や司祭のいる教会にまで押し掛ける。司祭はその度に彼等を宥め鎮めるのであった。
「あの老人が何をしたというのだ」
「あいつは悪魔だ!」
「人を食う!」
そうした噂が実際に流れていた。
「悪魔に魂を売ったんだ!」
「何時かこの街も悪魔に!」
「では聞こう」
司祭はそんな彼等の前に立っていつも聞くのであった。
「その証拠はあるのか」
「証拠!?」
「それは」
「ないな」
ここで厳しい声で彼等に対して言うのであった。
「そのような証拠は」
「それはそうですが」
「ですがそれは」
「証拠はないのだ」
またそう民衆達に対して言う。
「何もな。ましてや」
「今度は何でしょうか」
「市長殿もあの老人には感謝しておられるではないか」
「それは」
民衆はそれを否定しようとすぐがその通りであった。確かにこの街の市長もその老人には感謝の意を述べているのだ。積極的に人々の病を治してくれる彼に対して感謝こそすれ怨みに持つ筈がなかったのだ。これは為政者として当然のことであった。
「現に助かった者達もいる」
また民衆達に言った。
「そうではないのか?」
「それはそうですが」
「ですが」
確かにそうした者達もいて実際に老人に対して感謝して尊敬している。しかしそれはあくまで一部でしかなく街の殆どの者は老人を異邦人であるが故に恐れ憎みそうして偏見に満ちた目で彼を見ていたのである。これを僅かな者達が止めることは不可能であり司祭にしろ神の教えを後ろにしてかろうじて彼等を押し留めているのが現実であったのだ。
そうした状況であった。老人が助ける者達も確かに増えていっているがそれ以上に彼を憎む者達が増える方が遥かに多かった。それが現実であったのだ。
「あの御老人は悪しき方ではない」
言い聞かせるような言葉であった。
「それをわかるのだ。いいな」
「ですがまさか」
それでも民衆達は納得しない。それで司祭に対して問うのであった。
「それもまた悪魔の隠れ蓑であれば」
「そうだよな」
誰かのこの何気ない言葉が民衆の不安をさらに煽り立てるのであった。
「若しそうだったら」
「俺達はいざって時に」
「いい加減にするのだっ」
何とか荒わげないようにしたがそれでも限度がある。司祭の言葉は強いものになっていた。
「そうして疑うのは神の御教えなのか」
「それはその」
「それは」
「そうだな」
今回も何とか彼等を止めることができた。止めてからまた言うのであった。
「人を疑ってかかればきりがない」
「ええ」
「確かに」
「だからだ。疑うのは止めにするのだ」
穏やかな声に戻ってこう彼等に告げた。
「わかったな。それでは今は」
「今は」
「帰るのだ」
彼等に対して帰るように促すのであった。
「いいな。そうして気を鎮めるのだ」
「わかりました」
「今は。それじゃあ」
彼等はまだ憮然としていたが司祭の言葉を聞かないわけにはいかなかった。司祭もそれをわかっていて彼等に言ったのである。彼としてはあまり好きではない方法であったがそれでも今は使わないわけにはいかなかった。老人を護る為にである。
民衆が去っていく。司祭はそれを見ながら溜息をつく。それは一度や二度ではなかったのである。過去に何度もあったことなのだ。
「全く」
言葉にも溜息がこもっている。
「こんなことが何時まで続くのだ」
そう思いながらある場所に向かう。そこは老人と彼の養子であり弟子でもある少年がいる家だ。質素で何の派手さもない貧しい一軒家である。二人はそこに静かに住んでいるのである。
家の前まで来ると扉をノックする。そして家の中に声をかけた。
「司祭様ですか?」
「はい」
司祭は家の中の声に対して答えた。
「私です」
「はい。どうぞ」
穏やかな声であった。その声と共に扉を開ける。家の中から白く長い髭を持っている老人と優しい顔を持つ少年が出て来たのであった。
「ようこそおいで下さいました」
「さあ、どうぞ」
二人はその穏やかな笑顔で彼を出迎えて家の中に導き入れる。家の中も実に質素で最低限の家具の他は何もない。司祭を粗末な椅子に座らせ水を出したのであった。
「生憎ですが」
老人は水を出したところで司祭に対して申し訳なさそうに言ってきた。
「ワインもビールもありませんので」
「いえ、それは」
司祭もまた穏やかな笑顔になっていた。その笑顔で老人に対して答える。
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