妾の子
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第五章
第五章
「小野田哲郎といいます」
彼はまず深々と頭を下げて一礼してきた。
「大日本帝国陸軍少尉です」
「陸軍の方ですね」
「そうです」
セツの問いにはっきりと答えてきた。どうやら陸軍軍人であることに強い誇りを持っているようである。
「この度こちらの家に用件があり参りました」
「御用件ですか」
「その通りです」
軍人らしい堅苦しさの強い返事だった。
「お話させて宜しいでしょうか」
「それはいいのですが」
セツはまずはそれはいいとした。
「ただ」
「ただ?」
「ここでは何です」
こう小野田に切り出した。
「居間にでもあがって頂けますか」
「宜しいのですか?」
「何、構うことはありませんよ」
にこりと笑って彼にまた告げる。
「お客様ですから。どうぞ」
「すいません、それでは」
「はい、是非」
こうして小野田を居間に案内した。セツとカヨは二人並んで正座して座り小野田は二人と向かい合う形で正座している。お茶菓子の羊羹がそれぞれの前にあり小野田の前にカヨが淹れた茶がそっと出されるのであった。
「粗茶ですが」
「抹茶ですね」
「はい」
物静かに彼に答える。彼女が今淹れた抹茶である。
「いつも淹れています」
「そうですか、いつもですか」
「どうぞお飲み下さい」
カヨはいそいそと小野田に述べたのだった。
「このお茶を。どうぞ」
「はい、それでは」
小野田は笑顔で彼女のお茶を受けてそれを飲みだした。その振る舞いは男らしいが礼儀をわきまえたものであり陸軍軍人に相応しいものであった。セツは彼のそんな茶の飲み方を見ながら彼に対して声をかけるのだった。
「それでですね」
「ええ」
「うちに来た御用件は何でしょうか」
単刀直入に彼に尋ねるのであった。
「何かおありで参られたと思うのですが」
「その通りです」
ここで彼は一旦茶を己の前に置くのであった。やはり礼儀はわきまえた男らしくも丁寧な動きである。やはり陸軍軍人らしい動きだ。
「実はですね」
「はい、実は」
「娘さんのことです」
「娘といいますと」
今の言葉でカヨのその目が大きく見開かれたのだった。
「若しかしてそれは」
「はい、貴女です」
彼はカヨの方をじっと見て言うのであった。
「貴女のことでお話があり参りました」
「この娘のことですね」
驚くカヨに対してセツは至って冷静に彼に応えた。顔はじっと彼に向けている。
「来られたのは」
「その通りです。実はですね」
彼はさらに言ってきた。
「お嬢さんを私に下さい」
頭を下げてセツに言うのだった。
「お嬢さんを。私に」
「私を・・・・・・」
「この娘をですか」
「そうです」
必死の決意が顔と目に浮かんでいる。しかしそれを何とか必死に隠して応えるのだった。それだけの勇気があって来ているのであろう。
「それで。こちらに」
「この娘を貴方の奥方にというわけですか」
「駄目でしょうか」
「あの」
ここで。そのカヨが戸惑い顔を青くさせながら口を開いてきた。そして話すのであった。
「私はセツさんの娘ではないのですが」
「むっ!?」
今のカヨの言葉に小野田はまず目を瞠ってきた。
「カヨさん、といいますと」
「私の名前は御存知なのですね」
「ええ、勿論です」
毅然としてカヨに答えるのだった。
「女学校に通っておられた時から」
「その時からでしたか」
「お噂はかねがね聞いていました」
微笑んで彼女に告げる。
「その御気性も。今のお茶の淹れ方一つを取っても」
「お茶は」
「いえ、御見事です」
カヨに対して述べるのであった。
「こうしたことまで御聞きしていましたが。噂ではありませんでした」
「この娘はいい娘です」
セツが言い出せないでいるカヨに代わって答えた。
「お茶だけでなくお花も家事も全てできます」
「そうですね。本当に素晴らしい」
「それでこの娘のことですね」
「はい」
また答える小野田であった。
「ですからカヨさんを。娘さんを」
「私はできません」
またカヨが言ってきた。真っ青な顔で。
「どうしてですか」
「何故なら。私は」
「私は?」
「セツさんの娘ではなく。妾の子なのですから」
このことを小野田に言うのだった。結婚を言われたがそれでもこのことを隠せなかったのだ。どうしても隠すことのできない生真面目な性分だったのだ。
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