継承カタルシス
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一章 「おかえり、弟」
一章 「おかえり、弟」
1
けたたましい目覚ましのアラーム音で、目が覚めてしまった。
見慣れた木目の天井がぼやけた視界の中に映る。重たい体をゆっくりと起こし、寝癖の付いた茶髪を掻いた。そして目覚ましのアラーム音を止め、俺はハンガーにかけてある黒い学ランに手を伸ばす。
待ちに待った――――と言う訳でも無い四月四日。
俺は今日から十三歳になり、そしてめでたく中学校へ進学する事になった。
パジャマ代わりに来た緑のジャージとTシャツを無雑作に脱ぎ、そしてベッドへ放り投げる。
しわ一つないカッターシャツを着て、その上に学ランを羽織ってみた。
「……」
やっぱり、と言うべきなのだろうか。途轍もなく似合っていない。目が大きくて童顔なせいだろうか、つくづくこの顔面には悩まされる。「いっそのこと女に産まれていれば……」と鏡を見る度に思案する始末だ。しかし姉の顔を見る限り、例え俺が女に産まれていたとしても絶世の美女になると言う訳では無いだろう事も残念ながら分かってしまっている。
忌々しげに、俺は勉強机の中央に鎮座する鏡を睨みつけた。
まぁ、つい一か月前まではランドセルを背負っていたのだ。いきなり学ランがしっかり似合う方がどうにかしている。成長期に入れば顔つきも大人に近くなって、背も伸びて、この女々しい童顔もどうにかなる筈だ。
取りあえずそう思い込む事にして、俺は朝食を済ませにリビングのある一階へと足を進める。
――――予定だった。
「やぁ、良い天気だねー」
ふいに誰も居ない筈の背後から声が聞こえた。俺は反射的にすぐさま背後へと視線を向け、声の主と思しき少女がカーテンのかかった窓の傍に突っ立っているのを確認する。
途轍もない《違和感》を発する少女の顔つきは誰が見ても日本人なのにも拘らず、恐ろしく綺麗な金髪を携えている。髪には染めた痕跡は見られず、特徴的な四白眼の瞳が俺の方をジッと見据えていた。
「今日は誕生日なんでしょ? 真雁浅葱君」
薄い唇が微笑みを浮かべ、俺の名前を口にする。
「何で……」
俺の名前を知ってるのか、と聞こうとしたものの、ガタガタと震える口がそれを拒んだ。
すると、少女は俺が何を言おうとしたのか察した様で一人でに語り出す。
「あぁごめんねー、しぃの方の説明が遅れちゃってたよ」
独特な一人称を用いて、俺より少し年上であろう彼女は名乗り始めた。
「しぃは安楽史えみ。名字が安楽で、名前が史えみ。友達からは『しぃ』とか『しぃちゃん』とかで呼ばれてるんだ。今年で中学三年生になるよ。あと……愛染中の《保健委員長》です」
そして最後に「宜しくねー」と付け加えると、史えみと名乗った金髪の彼女は両手でピースサインを作って前に突き出して来た。
正直言って聞きたいのはそんな事ではないのだが、彼女の口から一つ気になる単語が出たのを俺は聞き逃さなかった。
「愛染中……? 」
今のご時世、この言葉を知らないのは産まれたばかりの赤ちゃんしかいないと言われているこの「愛染中」という学校名を、彼女は何の躊躇いも無く口にした。
「あ、知ってる? 」
「……」
通常の人間とは違う能力を身に着けている《異質者》の子供が通う中学校。約三十年前に起こった『あの事件』から、世界規模で問題視されている《異質者》という存在。
知らない方がどうかしている、なんて無駄口を叩く前に俺は、この《異質者》から「どう逃げよう」としか考えていなかった。
硬直する俺に対して、彼女の方は不気味な笑みを湛えている。
「……その顔は……もしかして、しぃから逃げる算段を立ててるのかな? 」
彼女は俺の考えをピシャリと言い当て、笑顔で言い放った。
それは絶望的な未来予知であり、絶対的な自己暗示。
「逃れられないねー、絶対」
その瞬間、俺は無我夢中でドアの方へ走り出していた。すかさずグッと右腕が強い力で後ろに引かれる。彼女だ、彼女が引っ張ったのだ。
「ッ――――」
とても女子とは思えない――――いや、最早人間ですらない、とても大きな力。馬鹿力なんてそんな安いもんじゃない。振り返れば彼女の不敵な薄い笑みと特徴的な四白眼と目が合った。
「クッソが」
俺はそう吐き捨て、右腕にへばり付く彼女の手の平を左手で払い、そのまま走りだろうとした瞬間今度は足を刈られる。
途轍もなく凄い勢いで床に倒れ込んだ。そしてボスッと俺の背中に座り込む《異質者》の彼女。肺が握り潰される様な感覚を味わい、圧殺されるかと一瞬思った。
「あのね、聞いてくれるかな」
そう言いながらも彼女は俺の返答を待たずに語り始めた。
「《異質者》って言うのはねー、大きく分けて三つに分けられるんだ。《先天性異質者》と《感染性異質者》、そして最後に《隔絶性異質者》……まぁ《異質》に対して耐性のある《隔絶性》は別としてねー、《感染性》と《先天性》は普通の人によく差別的な目で見られがちなんだよねー」
少しの間を開けて、また話し出す。
「でもしぃはその《普通の人》から《異質者》になったんだよねー。いやー小さい頃に《感染》しちゃった時は本当に吃驚したねー。周りの他人は勿論、お母さんやお父さんにまで見放されて寂しかったなぁ。でも、不思議と――――悲しくは無かったんだ」
「……悲しくなかった? 」
無意識のうちに、口から言葉が出てしまった。変に声を掛けると不味いか? とも思ったが、彼女はあっけらかんとした声色で簡潔に答える。
「うん」
相変わらず顔は見えない。
何でだろうか、物凄く懐かしい気がする。俺は一体、彼女の声と誰の声を重ね合せているのだろうか。思い出せないけど、とても愛おしい。
しかし懐かしいと、言う事は。
『―――しくじった』
遠い遠い、微かな記憶がふと浮かんできた。蹲る二つの人影と、俺の横で震える血だらけの姉。
じゃあ、彼女もきっと――――『しくじった』んだ。
全ての生命体に共通するもっとも残酷な手段で、自身の悲しみを解消したのだ。『あの事件』と同時に俺に降りかかった、幸運中の不幸。
俺は両腕を使って上半身を起き上がらせようと試みる。
「うぉ? 」
突然の振動に少しバランスを崩した彼女が間抜けな声を上げた。だが、すぐさま俺の体を床に押し付けようと体重をかけて来た。
「どこに行くのさ、浅葱君」
どこに行くって、そりゃあ一つしかないだろう。
「―――入学式ですけど」
彼女の長い髪が視界に入った瞬間、俺の上に乗っていた彼女に不思議な事が起こった。
パツッと。
切れた。
「――――」
動揺したのか、拘束する力が弱くなった所で体をねじらせすり抜けた。
彼女を一瞥する事も無く、俺は無我夢中で逃げる。
短い廊下を滑る様に駆け、階段を二段飛ばしで降りる。――――いや、そのぎこちない着地体勢を見ればそれは「降りる」では無く「落ちる」と言い表した方がイメージは湧き易いかもしれない。用意された朝食に手を付ける余裕が今の俺にある訳が無く、通学鞄すら持たずに家から逃げ出した。無論、靴下を履く事無く新品の運動靴の踵を踏んでの登校となったのは言わずとも分かるだろう。
逃げなければ。
脳内にはその言葉しかなかった。
一時走り続け、もう家からは充分に離れたがそれでも蛇に睨まれた蛙の様な気分はスッキリしない。 しかし追いかけられている様な気配は全くしない。それが逆に色々な事を想像させられてより一層不安を掻き立てた。
少しでもあの《異質者》から離れたいと言う気持ちは山々なのだが、荒れた呼吸を整える為止むを得ず走るのを中断して歩く。すると団地内にある俺の母校、小道小学校が見え始めた。
「ここのもうちょっと先が中学校だから――――」
とりあえず、学校にいる教師に助けを乞おう。別段あの《異質者》に何かをされると決まった訳ではないのだが、あの口振りを考えるとどうも俺に対して不利益な事を仕出かすに決まっている。
息を整え、再び俺は走り出した。
2
その頃浅葱の自宅――――
「あーあー、逃がしちまったんですか」
特別残念がっても居なさそうな口ぶりで、座り込んだ史えみに話しかける少年が一人いた。
「《保健委員長》のアンタにかかりゃあ、あんなひ弱そうな奴どうとでも出来そうなんですけどね」
学ランの胸元に付いている奇抜なハートのシールが光を反射する。少年が着ている学ランの校章よく見ると、史えみの着用している制服の校章と同じものだった。
「《母さん》からキツく言われてるんだ。《弟》は傷つけちゃ駄目だって」
先程浅葱に切られ長さがバラバラになってしまった髪の断面を指で弄りながら答える。
「それに――――無駄に刺激しちゃうと、不味いかも知れないしねー」
「《加害者》の言葉とは思しき言葉ですね。そんだけヤバい能力持ってるたぁ到底思えねぇですけど、根拠は何です?」
「うーん」
胡座をかいて頬杖をつく。少し考え込んだかと思うと、すぐさまキッパリと言い放った。
「勘だねー! 」
「……」
あまりに適当な返答に唖然となる少年。訪れる沈黙、漂う静寂。
「そりゃぁそうと――――」
空気に耐えられなくなったのか、話を切り出した。
「史えみの姉さん、きちんと『シール』貼りましたよね? 」
「勿論。背中に貼って置いたよ」
と言いながら史えみは微笑む。
「ちょっと心配だったから、背中以外にも何ヶ所か貼って置いた。これなら君の能力でどこに居ても『飛べる』でしょ? 《配偶者》君」
史えみの言葉に薄笑いを浮かべ、少年は口を開いた。
「ええ、勿論。《体育委員長補佐》の黒崎白兎にかかりゃぁ仕事もちゃちゃっと終わるって事、新しい《弟》に分からせてやりやすよ」
言い終わった直後、白兎はもう既にどこかへ『飛んで』いた。一人取り残された史えみは重たい腰を上げ、一つため息をついた。
「大丈夫かなー? 」
3
何とか死に物狂いで中学校に着いた時には人だかりが出来ており、予想以上の混雑だった。汗のせいでベッタリとくっ付いたシャツの気持ち悪い感触を感じながら、俺はあたりを見渡してアイツが居ないかを確かめる。
「可笑しいな……」
もうとっくに来ていて可笑しくない時間帯だと言うのに姿が見当たらない。
「……あ」
と、思った矢先に見つけた。
キョロキョロと周りを忙しく物色する寝癖の付いた頭。長い前髪を女用の赤いピンで留めている。
「隼介、こっちだよ」
片手を上げて、アイツの名前を呼んだ。すると隼介はすぐさま俺の事に気づき、人混みをかき分けて走って来る。おはよう、と言う間も無く隼介は俺の胸倉を掴んで来た。
「うぉおおおおい浅葱! お前来るの遅過ぎんだろ!! ちょっと家が近いからって余裕ぶってると遅刻しちまうぞ!」
ブンブンと頭が揺れる。毎度毎度の事だが、未だに慣れない。
隼介は俺にとって唯一友達と呼べる存在で、同じ小道小学校出身である。
俺は隼介とは違い人とコミュニケーションを取るのが上手い方では無く、二人組を作る時はいつも余る奴だった。
隼介はと言うと、俺とは違い明るくて馬鹿正直なところがあるせいか誰とも喋れた。
消極的と積極的という全く正反対な俺達だが、何故だか不思議と馬が合った。
――――というより、こんな事をしている場合では無い。さっき出会った《異質者》の事を伝えなくては。
「ちょ、止めろって隼介。こんな事してる場合じゃないんだよ。つーか人にぶつかんだろ、てかもうぶつかった!」
右肩に凄まじい衝撃。見ると気弱そうな少女が右肩を抑えて俯いていた。
「ほら見ろ! 何やってんだよもう」
「うわわっ、済まん! 大丈夫か!?」
隼介が慌てふためいた声で問うと、少女はビクッと肩を揺らして俺と隼介を見上げた。
「ぇ……は、はい……」
青白い肌が、恐ろしい程綺麗な子だと思った。彼女の栗色の瞳と、視線が合う。
「……」
微かに匂う、鼻腔を刺す様な刺激臭。彼女の吐いた息からは確かにニコチンの臭いがした。
しかし何だろうこの子、それだけじゃない。
「……何だか、違う」
と呟くが速いか遅いか分からないぐらい同時に、彼女の瞳が赤みがかった。
ドロッと。
「へ……?」
隼介が間の抜けた声を出す。彼女は黙ったまま再び俯いた。
ボタボタ。
ポタッ、ビタビタビタッ、ビショッ。
「あぁ……ぁ」
俺は、思わず言葉を失う。
彼女は黙ったまま、自身の両目をそれぞれの手の平を抑えていた。
そして――――その両目から溢れ出す自身の血を黙って止血しようとしている。
新鮮な事この上ない、血。
少しだけ橙色がかった鮮血。
周りが彼女から距離を置く。ある者は悲鳴を上げ、ある者は逃げまどい、ある者は救急車を呼び、ある者は教師の元に走り出した。
それぞれがバラバラに散らばって行く中、俺と隼介と彼女だけが時が停まったかのように静止している。
一体全体、今日は何なんだ。
「――――こりゃぁひでぇ」
耳元で、聞き覚えの無い声が呟いた。
急いで振り返ると、途轍もない《違和感》を放つ少年が背後に立っていた。血を流す少女の姿を見ても然程驚く様子も見せず冷静な態度を取るその少年は、少女をじっくりと見物したのちに俺と隼介を交互に見た後に口を開く。
「おー、今年は豊作だな。全く嬉しかぁねぇけど」
赤毛の混じった自身の髪を掻き、吐き捨てた。
「俺らぁ愛染中二年の黒崎白兎。一応これでも《体育委員長補佐》やってら」
「愛染中ッ!?」
隼介が「愛染中」と言う言葉に素早く反応して目を見開く。
「……」
もう追ってきたのか。とここで、かも追って来るのが当然のように話している俺が怖くなった。
何を考えているんだ、俺は。
「……さして驚いてねぇのを見ると、そっちが浅葱だな?」
黒崎と名乗った少年は俺の方へ指を指した。
「俺にゃあどうしても嫌ぇなタイプが三種類あら。一つは浮気をする奴、二つは家族に嫌がらせする奴、そして最後は――――現実逃避する奴だ」
そう言い終わると、俺は顔面に蹴りを入れられていた。あまりに突然の出来事で、見ていた隼介も蹴られた本人である俺でさえ何が起こったのかを理解するのに時間がかかった。
ズシャァアと、新しい制服と足首が砂利で擦れた音がする。
体が吹っ飛んだのだ。いや、これは誇張した表現でも何でも無い。事が全て終わった後に隼介に聞いた話だが、実際俺はまるでサッカーボールの如く綺麗な曲線を描いて5メートル程吹き飛んでいたそうだ。
「嫌ぇなんだよ。お前みてぇな逃げ腰野郎」
痛みをこらえて半分だけ目を開けると、もう既に黒崎は俺の腹を両足で挟む様に仁王立ちしていた。
「いい加減認めろよ」
「え――――」
コイツ、今なんて言ったんだ? いや、本当は黒崎が何て言ったのかハッキリと聞き取っている。だけど、それ以上言われては困る。困る所の話では無い。この十四年間を、また――――また『やり直さなくちゃならない』なんて、もう御免だ。
遠い記憶の断片の様な物が、またしても脳裏をチラつく。血だらけの両親と、姉と、まだ幼い俺。『しくじった』という言葉と共に、姉が両親の上に重なるように倒れ込む。それをただ呆然と眺める俺。俺の右手には、幼く小さい手に不似合いな――――
少年の口が、ゆっくりと動く。止めてくれ、もう『繰り返した』くない。
「――――お前」
「言うなぁああああぁッ!! 」
自分の物とは思えない程切羽詰まった断末魔が、周囲に響いた。と同時に、視界に入っていた少年の白い歯がいきなりボロボロと口の中からこぼれ出す。
「かがぁッ、こ、こらぁヤベぇ」
少年は後退りながら口を押え、少しの恐怖と身を切る様な怒りを俺に向けて来る。隼介を一瞥し、俺はすぐさま起き上がって駆け出した。
「ちぃッ! 」
俺が走り出すのを見た隼介も、慌てて俺について来る。黒崎は追いかけ様とするも、近くで座り込んでいる彼女を捨て置くのを躊躇したのか、追っては来なかった。
「お、おい浅葱! アイツ何なんだ、愛染中って言ってたぞ!? 」
「わ、分からない! でも、何でか追われるてんだ!! 」
分からない、か。我ながら何とも可笑しな嘘を付いたものだ。何で《異質者》に追われているのかは追われている俺が一番知っていると言うのに。
幸いな事に黒崎の声が小さかったせいか、俺と黒崎の会話内容は隼介の耳には届か無かった様だ。それで良い。聞かれて『居たら』それこそ終わりだった。
隼介は気を使ってか、《異質者》の事についてそこまで深く聞き出そうとはしなかった。頼みの綱だった学校の教師に助けを求める手も、これで無くなってしまった。今学校に戻ってもまだ黒崎が居るかもしれないし、何よりあの彼女がいる校舎へ行くのは何故か気が引ける。
俺は彼女の栗色の瞳をふと思い出し、背筋に悪寒が走ったのを感じ取った。
「……」
幼い手にはフィットしなかった業務用のゴツゴツしたカッターは、今では十三年間も愛用している愛具である。前とは違い、今では大分使うのに慣れて来た。
俺は、ズボンのポケットに手を入れる。そして、隼介に視線を向けた。
大丈夫、何があっても隼介だけは俺の傍に居てくれる筈。
「ん? 何ボサッとしてんだよ! さっさと走んねーとさっきの奴が、追ってくんだろ! 」
「ご、ごめんってごめん! 」
頭を勢いよく叩かれ、我に返る。
大丈夫――――きっと今日も、すぐ終わる。
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