乱世の確率事象改変
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少女の作る不可測
「せ、先遣部隊二万が……たった一日で壊滅、敗走……?」
行軍を開始した本隊にて一人の兵からの報告を聞いた七乃は口をあんぐりと開け放っていた。
為されたモノは余りに異常な報告。先遣隊として放った兵の数は二万。彼女は長期の戦を想定してじわじわと削っていく腹積もりであった。
情報収集も申し分無く、駐屯している敵将は張飛と徐晃の二人であり、その兵数も合わせて一万に満たなかったとのこと。敗走後、本陣へと戻ってきた兵もいるが、その数は三千弱程度であった。
確かに派遣した将は年若く経験の少ないモノを当てた。本城にいる紀霊は人質であるじゃじゃ馬姫の監視と奪還対策の為にここまで連れてくるわけにもいかず、他の老練な将を使うにしても同志である夕の計画の為に本隊と共に行動させるしかなかった。
しかし、如何に将の能力が低かろうと、二万の兵が通常の戦で、それもたった一日で壊滅して敗走まで至る事などありはしないのだ。
「しょ、詳細は?」
気を取り直した七乃は背を伝う冷や汗に不快感を感じながらもどうにか言葉を紡ぐが、兵士から聞いた詳細内容にさらに驚愕してしまった。
城まで張飛隊が引き返したとの情報から機とみて攻め入るも四分の一の数の徐晃隊に翻弄され、その夜に兵の不満を抑える為に夜襲を仕掛けたが秘密裏に引き返してきていた張飛隊との挟撃に遭って甚大な被害を被る。最後に止めとばかりの執拗な追撃から陣への夜襲返し。
中でも異常だったのが奇襲に参加した袁術軍の兵士の大半が寝返った事。
戦場の最中に、それも将に対して事前の打ち合わせや手引きがあったわけでもないというのに兵士だけが寝返り自軍を攻撃し始める、そのような異質な出来事は七乃にとっては初めての事態であった。
顔を真っ青に染めた七乃は同志たる少女の顔を思い浮かべて涙声を出す。
「夕ちゃん……さすがにこんな事は想定の範囲外ですよぉ……」
夕から聞いた忠告は多々あるも、それさえも越えてしまった状態となっている。
本来であれば、長い戦の為にそこそこの戦闘を繰り返し、劉備軍本隊の到着と同時に一度大きく攻めてから膠着、機を見て孫策軍を呼び寄せてぶつけてから計画を遂行するはずであった。
就任したてでは兵糧の確保も新参兵の強化も難しく、長い戦では音を上げるのは相手方であるのは言うまでも無い。
その重要な点が二つとも抑えられた。二万の兵を養える兵糧も、ある程度訓練を積んだ新参の兵も、どちらも一挙に劉備軍は手に入れた事となる。
少し、七乃は劉備軍主要人物達の情報を頭の中から引き出し始める。
劉備はただの傀儡、祀り上げられた神輿……では無い。関わった人を動かす力を持つ稀有な存在。戦で不確定要素となる人物であり、捕えて従わせなければ後々まで被害の及ぶ猛毒、従わせる事が出来れば万能の霊薬にもなり得るモノ。
軍師の二人は能力が夕と同程度である事は分かっている。綺麗な戦の仕方を好む事も知っているのでそこが大きな隙のはずだった。夕と同程度が二人もいるのは骨が折れるが、計画が発動すれば問題は無くなる。
関羽は紀霊よりも少し実力が上の武人。特筆すべきは堅実にして豪胆な用兵。そして劉備への忠義を貫くある意味扱いやすい存在。
張飛は実力は高いが突撃思考の大きな武人。ただ、そのような単純バカな将が厄介でもある。
そして徐晃――――
そこまで至って彼女は眉を顰めた。
劉備も、諸葛亮も、鳳統も、関羽も、張飛も……全てが過去まで見通せる程に情報を集めてある。生い立ちから今に至るまでの人物像が調べつくされている。故に、それらは正確に把握が出来る。
その男だけが異常なのだ。
厳格な規律の多い徐晃隊に間者が入り込めないというのも理由の一つではあるが、他の部隊に忍び込ませたモノや城に放ったこちらの息の掛かった侍女等々、情報収集に送り込んだ誰しもがその男の生い立ちから今に至るまでを調べられない。徐という姓は数多くいても、徐晃がどこで生まれた人物かも分からず、どうやって今の徐晃に至ったかがぽっかりと抜けている……まるで突然現れたかのように。
劉備軍に入ってからのその男の事は確かに分かるが、行動からのみの判断しか出来ず、個人の趣味嗜好にしても子供と戯れる事と料理が好き程度しか情報が無く、個人が辿ってきた軌跡等は全く出て来ない。旅をしていた……その一言で全てが終わるだけ。何処を、どのように、なんの目的で、その全てすら無い。
七乃は徐晃の事を一番に警戒していた。
個人の事が調べられない、それもある。ただ、一番警戒するべき所は別にあった。
徐晃は矛盾の塊だった。
徳高き行いをするくせに残酷で、友を大切にするくせに平然と切り捨てて、劉備軍であるのに劉備軍とは似ても似つかない部隊を率いている。
夕からは同類であるとは聞いている。大切なモノ以外いらないという異端者であると。全てを巻き込み犠牲にして身を捧げてでもそれを守りたい異常者であると。
その範囲が膨大に過ぎる徐晃はまさしく異常。たった一人や数人を想うなら分かるが、生き残らせる全て等と……どれだけ傲慢で愚かしく哀れで、何より狂っているのか。そのようなモノの思考は自分がイカレているという自覚のある七乃でさえ読むことが出来なかった。
彼女が警戒する所はその点。何をするか全く分からないという事。情報という武器を使って戦ってきた彼女からすれば天敵と言えた。
数少ない情報から判断出来たモノはその男の周りに与える影響力。徐晃隊という異常な兵の存在と……戦事に於いて大抵の時間を黒麒麟の隣で過ごす鳳統。
――あ……なぁんだ。私は似たようなモノを知ってるじゃないですかぁ。
彼女はその二つが誰に似ているかに気付いた。それならばこの状況も、認めたくは無いが有り得た事態だと納得出来た。件の男は、将としてならば知り合いに似ていて、同じように隣に居る軍師も影響を受けているとすれば――
思考に潜り、そのような相手に対してどのように攻めて行くかを考えている途中で……天幕の入り口に人の気配が一つ。
「七乃ぉ~! 妾はいい事を思いついたのじゃ!」
とびきりの笑顔で飛び込んできた美羽の姿に七乃の表情が綻ぶ。
――私の宝物は今回、どんな天然策略を思いついたんでしょうかねぇ。
美羽の真価は悪戯。七乃はそれをよく理解している。誰もが困る事を簡単に思い浮かぶ天然の悪女。頭を捻らずに素で出した答えが案外上手くいったりするのだから恐ろしい事この上ない。
その点で言えば、こちらにも相手が読む事の出来ない不確定要素な存在がいるのだと七乃は少し安堵した。どんな素敵な悪戯なんですかぁ、と問いかけて、
「聞いてたも! 孫策の奴がいないのなら妹に攻めさせればよかろ? そうすれば妾の兵の多くも死ななくて済むし、のんびりとめいぷるしろっぷのお菓子を食べながら蜂蜜水を飲めるのじゃ!」
どうじゃ名案じゃろと腰に手を当て、僅かに膨らんだ胸を張ってはしゃぐ美羽の答えに、七乃はその手があったかと内心でほくそ笑んだ。
†
苛立ちをそのままにその少女は地を踏みしめて歩いていた。桃色の長い髪、褐色の肌、深い蒼の瞳、孫呉に於けるまだ若き王の名は孫権――――真名を蓮華。
袁術から下された一つの命令が苛立ちの原因である。
『孫堅世代の兵を三千戻す、足りない分も兵を貸すので徐州劉備軍との戦場に向かえ』
姉である雪蓮、筆頭軍師である冥琳とその後継者である穏、宿将たる祭は荊州への侵攻に向かっている。
実は……彼女達の秘策はこの蓮華に大きな役割を任せていた。極秘情報として呂布が荊州にいると分かった以上、まともにぶつかりあっては甚大な被害を被る事は確定的。
秘策であったのは――大きすぎる民の期待を利用しての欺瞞反乱。極秘に放った細作達の扇動によって起こるそれを一時的に抑える役割が蓮華には任されていた。一時的、というのも彼女だけでは抑えられないとして雪蓮を呼び寄せての荊州戦線の強制膠着が本当の狙い。それも徐州へ侵攻している袁術軍の被害が大きくなるまでの間だけ。そこからは曹操との密約通りに。
念入りに計画を遂行してきたというのにたった一つの命令で全てが崩れた。
通常の人物であれば、優勢になってしまうと孫呉に向ける民の風評が高まってしまう為に孫呉のモノを初期段階から呼ぼう等とは考えるはずがない。しかも国境付近に駐屯している劉備軍は少数であり、袁術への支持は大いに下がる事が分かりきっているというのに。
「どれだけバカなのっ……亞莎、入るわよ」
いかり肩でのしのしと歩き詰め、一つの部屋に辿り着いた蓮華は部屋主の名を呼びながら、木製の扉を出来る限り感情を抑えて開き中に入る。
「れ、蓮華様? 如何致しましたか?」
「袁術からの救援要請よ。先遣部隊二万がたった一日で壊滅、敗走。それも倍以上の兵力を以って戦った野戦でね」
驚愕。軍師としての力量を冥琳から認められているモノクルを掛けた目つきの鋭い少女は顔を蒼褪めて言葉を失っていた。その少女の名は呂蒙――真名を亞莎といい、孫呉の次世代を担う軍師として目下研鑽中の身である。
蓮華とて、事の重大さは理解している。黄巾の時から戦に従事しており、内乱の平定も幾度となく行ってきた身である為、その規模の軍が一日で大破するなどありえない事も知っている。
「こ、黒麒麟と張飛はそれほどの将なのですか!? でしたら私達ではさすがに――」
「弱音など吐くな」
ぴしゃりと、蓮華は慌て始めた亞莎の言葉の続きを止めた。その身から発する王の気に圧された亞莎は疾く口を紡いで、されども不安に溢れる瞳を向ける。
「今は負の思考に捉われる時では無いぞ亞莎。それに……あの女狐が珍しく情報では無く警告を寄越してきた。二人の将の武力だけでは無くて軍師鳳統を侮るな、と」
蓮華は続きを言おうとしたが口を噤む。自身の腹心として成長している彼女に気付いて欲しくて。
――天才と呼ばれる鳳統をあなたに抑えて欲しい。
雪蓮ならばきっと続きは言わない。断金と呼ばれる程に絆の深い冥琳に対してそこまで言わなくても伝わるだろう、と。
そして冥琳ならば、少し困ったような顔をしながらも不敵な笑みを向けて私が抑えよう、とでも言うはずだから。
既に確定した出撃で、如何にしてこの場を乗り越えるかは亞莎の頭脳に掛かっていると言ってもよかった。隠された本心にいつも自信を持てない彼女を勇気づけたいという想いもある。
じっと見据えられて亞莎もその意味する所に気付く。しかし彼女は蓮華の思惑とは違った事を口にした。
「蓮華様、私は美周嬢様のようには返す事は出来ませんよ。まだまだ未熟であり、自身の身の丈を理解しています。でも……非才の身ながら、あなたの望みを叶える為に尽力させて下さい」
それは柔らかい警告とも取れた。
孫伯符のまがい物としての想いならば私は返すつもりは無い、と自身の師の二つ名を出す事で暗に伝えているのだ。
あなたは何なのか、何になりたいのか、自分に何を求めているのか。
先にそれを伝えた上で自身の本心を口にした。
呂蒙として、亞莎として自分は孫権の為に己が力を全て使いたい、例え相手がどのようなモノであろうと、その真摯な想いを蓮華に向けた。
鋭い目つきで静かに告げる瞳は普段の自身なさげな彼女とは違い力強いモノ、何よりも……信頼という名の色がまざまざと浮かんでいる。
蓮華は彼女の想いを感じて――ふっと笑った。
――私は何を肩肘はっていたんだろうか。皆が必死に孫呉の地奪還の為に動いている中、自分に任された責任の大きさだけに捉われて焦っていたんだ。姉様のようにならなければ、と。
「それと蓮華様、今回の戦の目的を見誤ってはいけませんよ」
優しく言い聞かせるように言われて蓮華は目を見開き、亞莎の言葉の真意を理解した。
「ありがとう亞莎。私の為に使ってくれるというあなたの力、心の底から頼りにしている」
彼女もここで謝る事はしない、否、出来ない。既に王の後継者たるが故に。ただ、
「皆の力でこの山場を乗り越えましょう。それと……あなたがいてくれて本当に良かったわ」
優しく包み込むように全てを繋ぐのが彼女の王才。
微笑みながらの言葉に亞莎も笑顔となり、二人でクスクスと笑い合った。
雪蓮と冥琳のような形では無くとも、彼女達の間には確かに信頼という絆が結ばれていた。
†
荊州での戦場へ向かい、陣の設置と軍議を行っていた私達の元に一つの報告が入った。
計画の為に残しておいた蓮華と亞莎、そして思春と明命が徐州の戦場へと向かった、と。
その報を聞いた冥琳は苦い顔をしながらも即座に知性の宿った瞳を携えて思考に潜り始める。
「ま、まさかそんな手で来るとは思いませんでしたね~」
大きすぎる胸の前で手を組んで緩く言う穏の額からも冷や汗が滲み出ていた。
皆一様に顔が昏く落ち込み、計画に支障が出た事の重大さを考えて落ち込んで行く。
「策殿、さすがにひよっこどもに徐晃と張飛相手は荷が重い。あれらの力は黄巾と連合でよく知っておろう。儂らくらいでないと抑えられん」
そう、祭が言うように下手をすれば誰かが命を落としかねない。いくら寡兵であると言ってもあの燕人と黒麒麟、さらには冥琳でさえその才を認める鳳雛が相手。確実に格が違う。
身内であればこそ実力は分かりきっている。明命も思春も野戦に於いてはあの二人には届かなくて、亞莎では鳳統に出し抜かれる可能性が高い。蓮華もまだまだ未熟。用兵にしても、王として軍を率いるにしても。
ここで向かわせられるとしても祭のみ。こちらの被害が増える事は痛いが……それでも誰かを失うよりはマシだろう。
目まぐるしく回る思考の中から掬い取った決断を口に出そうとしたが、
「このまま荊州侵攻を開始するべきだな」
己が軍師の発言によって寸前の所で呑み込んだ。呆気にとられる私達三人を冥琳はゆっくりと鋭い瞳で見回し、最後に私に向けて優しく微笑む。畏れてはダメよ、というように。
瞬時に、彼女が何を考えての発言かを理解出来た。
「そうね、計画に変更は無し。私達はそのまま攻めちゃいましょうか」
「なっ……策殿、何を考えておられる?」
敵の実力を正当に判断出来るから、祭の向ける言葉はまさしく正しい。彼女が生粋の武人であるという証明。
未だに難しい顔をして悩んでいる穏は……哀しいが冥琳に届くことは無いという事実を知らせてくれる。
私の王佐と呼べる冥琳だからその判断が出来た。そして私も王であるが故にそれを瞬時に汲み取れた。
「ふふ……祭の好きな言い方をするなら……獅子、千尋の谷に子を落とす、って所ね」
言われて二人ともが納得の表情を浮かべるも、やはり不安の影がその顔からは消えない。
今回の戦への参加を蓮華達が行えば袁術軍の風評は間違いなく下がる。それでも押し通してきたのはこの戦で早期に勝たなければ自身の治める国の状況が芳しくないからだ。つまりそうせざるを得ない状況に追い詰められているという心理の裏返し。
逆に考えれば絶好の好機となり得るモノ。前提条件として蓮華達の生存がついて来なければならないが。
「二万をたった一日で壊滅……聞こえはいいが敵が袁術軍であったからこそでしょう。我らが孫呉の精兵であればそのような事態に陥らず長期戦略を取れる、と鍛えてきた祭殿なら言えるのでは? それに……亞莎がいれば問題ない。穏、向かうのがお前であっても私はこう言っただろう」
最後の言葉は信頼。どちらも弟子として信じているという事。私は測り間違った。人とは成長していくモノ。それは軍師や王というモノが一番如実に現れる。将であれば武力を磨くのに長い年月を費やすが……判断力や決断力というモノは常に研磨されていくモノなのだから。蓮華にしても、亞莎にしても地金はあるのだ。その成長を助けるのも私達の役目であり、大いなる成長を信じる事にこそ意味があったのも一つ、か。
冷めた視点でモノを言うのならば……今回は勝利が目的では無いのだから兵の被害は別として重要な子達が助かれば何も問題は無く、黒麒麟の思惑は私達との戦中交渉である事が予測に容易い為にある程度の心理的先手を打てる……元からこちらを利用するつもりであれば少し痛い目を見て貰えるし、あの男の先見の才がどれくらいかも計れるのだから。
「ふむ……儂らは儂らの仕事に集中すればよいわけか」
「ですね~。なんというか、全てが成長する機会になりそうです~」
二人もそこまで思い至ったようで、のんびりとした穏の口調は天幕内の雰囲気をゆるく落ち着かせていく。張りつめていた冥琳の表情も漸く穏やかになり、苦笑が漏れ出ていた。
「計画の変更は些細なモノだけでいいでしょう。こちらは水軍を使うわけだから呂布への警戒も十分。弓の腕は祭と互角らしいから気を付けないといけないけどね」
「思春の鍛えた精兵じゃし、儂が率いるんじゃから何の心配もいらん。堅殿のカタキ打ちは孫呉の大望が終わってからゆっくりと、というのだけが口惜しいが」
「言わないの。個人の怨恨より今は民の救済、抑えて頂戴」
ギシリと、力強く握られた拳を後ろ手に隠して言葉を紡ぐ。私だってすぐにでもこの感情をぶつけてしまいたい。だが……王としては未熟に過ぎる。母さまの願いはなんであるか、一番大切な事はそれなのだから。感情を抑え、大局を見て最良を判断出来なければあの偉大な虎を越える事は出来ず、死して出会った時に未熟者めとこっぴどく叱られてしまう。
「冥琳、蓮華達を信じるのはいいんだけど……私達から何か伝えておくべき事案はあるかしら?」
大望の為にはここから一つとして失態は許されない。きっとギリギリの状況となるだろう。時機にしても、速すぎても遅すぎても些細な歪みが崩壊へと繋がる。でも私達に出来る事はきっと――
最愛の人に問いかけると、彼女は一寸だけ額に手を当てて少し目を閉じ、
「劉備軍との戦中交渉は未だに多くの戦力を残す袁術側への不振の種を撒くことになり、小蓮様の安否に関わって来る為に現状では出来ず、欺瞞反乱についても我らが出向くのが先になるが……袁家の諜報を警戒して伝令を送り合わずに阿吽の呼吸で全てを回すのが最善だろうな」
分かっていて聞いているだろうというように私に呆れと信頼の籠った流し目を送って来た。
「ふふ、じゃあ若い世代の力量に期待しましょう。……我らは荊州への攻撃に集中する事を命じる。孫呉の地奪還の為に、行動を開始せよ」
最後に気を引き締めて言い放ち、御意という三つの声を聞いてから私は天幕の外に出て妹のいる方角を見つめた。
――そっちは頼んだわよ蓮華。皆で全てを取り戻せたら……少しだけ、昔みたいに甘えてもいいから。
蓮華の敵は強大であるはずなのに不思議と嫌な予感はせず、自分の自慢の妹なのだから大丈夫と胸を張って思える事が少し誇らしかった。
†
徐州内各地からの兵の補充は万全であり、現在の駐屯兵数は付近の城に集まった分も含めて三万に届くかどうかという程。赴任したての劉備達にとっては初戦を乗り越えられるかどうかが最初の問題であり、無事乗り越えた今となってはこのように余裕が出来ている。
一重に恐ろしいと感じるのは桃香の影響力であろうか。集まった兵は誰しもが口々に己が安息の地を大徳の元で守るのだと息巻いていた。
それらの兵は劉備軍本隊の末席へと組み込む為に、秋斗は徐晃隊とは関わらせないでおいた。徐晃隊のような狂信者となってしまえば、後に事が起こるとこの地に残らせる事も出来ず、この地に思い入れのある兵そのモノが少なくなってしまう為に。
自分が生まれた地を守りたいのは誰しも当然、想いは強ければ強い程に良く、その心は次世代へと繋がる。例え一人の兵であろうと、少しずつ世代を超えて繋いだ想いは未来の力となり得る。秋斗の目指す所からは絶対に譲れない事だった。
そんな兵達の訓練を通常のメニューで行い、新参も含めての徐晃隊の訓練は副長に任せて幾日。
現在、袁術軍は不気味なほどに静かであった。本陣は極めて遠くに布陣されておりこちらからは手を出す事も出来ず、初戦の大敗で警戒しているのか別働隊を派遣するでもなく、まさしく睨み合いと呼ぶべき状況にある。
秋斗としては早々に孫策を引きずり出して共に袁術を討とうで終わらせたいのだが、荊州侵攻の現状と風評の関係からまだそれは先になるだろうと雛里や詠に言われていた。さらには、孫策が自身で事を起こさない重大な何かがあるのではないかとの予想もつけられていた。
対して袁術軍の方は本陣に駐屯している兵は三万を超え、本城にも三万強を残していて、さらに募ることが出来るというのだから恐ろしいというべきか。
遅れて集まってきた袁術領の現在状況の報告に秋斗は一通り目を通し、お盆を膝の前に持って隣に控える詠に目をやった。
「人材の不足がこれだけ際立っているというのに……袁術陣営の参報、張勲は化け物だな。詠はどう思う?」
「ボクなら……いや、認めるわ。人心に目を瞑るのならこのやり方は一番いいし、これだけ短期間で準備しきる手腕は凄すぎるわよ。ってか秋斗って内政もいけたの?」
「知識と経験上ある程度はな。練兵と軍の業務が忙しいし朱里と雛里が出来過ぎるから関わらないだけだが。まあ、内政の力は詠にも月にも敵わないよ」
「それでも謎過ぎるわよあんた……はぁ」
少し雑談を交えてから詠がため息を一つ。
内政については現代知識と白蓮の所にいる時の経験だ、とは秋斗も言わない。鈴々は追加兵の訓練で今日は帰って来ず、雛里と月は少し仮眠を取っているので今は詠と二人きりという珍しい状況に居た。
齎された情報、袁術の所の人心安定は最低線と聞いていたが、二人共が上手いなと心底感心している。
――生かさず殺さず、絞れるギリギリのラインを維持しつつ、軍の方も有能な将が少ないままで練度は疎かなれども管理は十分という。兵を集めるにしても仕事が出来るのだから貧しい者達はわらわらと集まるだろう。兵法の基本である数はすぐに整うというわけだ。
さらには虎を顎で使える程の何かを持っている。それについては大方、予想は付いているのだが。
精強な孫呉の者が反旗を翻せない程の何か、従うしかない状況に追い込ませる事の出来るモノ、袁家が手段を選ばないのならば……人質くらいであろう、と。
孫策は名が傷つく事を恐れるような薄い輩では無く、そのあたりの脅しは不可能。なら誰かしら家族を人質として確保されていると考えるのが妥当。儒教社会で家族や親族を大切にしないのならば従うモノも自然と少なくなっていくのだから。
「それよりも、ついさっき孫権が行軍中って情報が入ったんでしょ? どうするの?」
詠がビシリと秋斗の目の前に指を突き立て、迫る次戦の事に話を向けてきた。ついさっき入った情報は孫呉の次女がこちらに向かっているというモノ。雛里と月を呼んでもいいのだが、さすがに仮眠室に行った所なので先に自分達だけで話しておこうと詠だけを呼んでおいたのだった。
「俺としては孫権の率いる軍は全力で潰して、孫策が出てくるまで戦線を維持しつつ待とうと思う。というより、孫呉が袁術に反旗を翻さない理由がしっかりと分からん以上、あっちから何かしらの働きかけが無ければ押し返し続けるしかないだろうよ」
「大体やり口は分かるけどね。あそこは人質ばっかりよ。権力を笠に着た強制的な婚姻関係とか重要な立場への任命とは名ばかりで身内で固めた所に放り込むとか」
本当にあいつらはと憎らしげに眉間に皺を寄せる詠の言葉に予想はほぼ確定だろうと思考が固まり始める。
「人質ねぇ……」
秋斗は自分がそれをやられた立場になるとどんな気持ちになるのかと少しだけ想像を巡らせてみた。
誰かを人質に取られたらどうするんだろうか。助けようとするのか、平然と切り捨てるのか、彼には考えても全く分からなかった。
――きっと足掻いて足掻いて最後まで助けようとするのが普通なんだろうなぁ。
しかし絶対にそれを選ぶとは彼には言えなかった。
虚空を見つめて思考に潜る秋斗を厳しい瞳で見る詠は哀しげな顔に変わる。彼の瞳にあった困惑の色を見てしまった為に。
殺した人間の想いと、先に生き残る人々を想うと人質を切り捨てる事を容易に選んでしまうのではないかと詠は言い知れない危機感を覚えた。
「ねぇ秋斗。全てを捨てちゃダメよ? それだけはダメ。あんたが乱世の果てに生き残る人達の為に戦ってるのは分かってる。でもボクにとっての月みたいに零しちゃいけない人も見つけないとダメ。何が何でも助けたいって思える人を見つけなさい」
「何が何でも……か」
彼にとっては一番近くてかけ離れた言葉。
何が何でも乱世を終わらせて平穏な世界に変えるのが自分にとっての目的と存在理由であるのに……それを捨ててまで誰か一人を助けようなんて考える事があるんだろうか、と彼は何故か自分の心が理解できなかった。
「……ゆっくりでいいわよ。あんたが……っ……変なのは知ってるから」
顔を俯けて言う詠の表情は彼には見えていない。俯きながら悲哀にくれる顔をしていた詠は、寸前の所で『壊れてる』という一つの言葉を言い変えた。
――あんたが壊れて来てるのは分かってる。もう既に手遅れかもしれないくらいに歪んでしまってるのも分かってる。きっとあんたは乱世の後にあるはずの自分の幸せを考えてない。だから特別な誰かと一緒に生きたいなんて欠片も思ってないんでしょう? 他人が何か言った程度ではこいつを救えない。心の底から自分の幸せを願わないと秋斗は救われない。
戦争は人を変える。そして王の成長等と正解かどうかも分からない事をしているという行いが秋斗の心を徐々に蝕んでいた。正解等無く、自身が選んだ道を手さぐりで突き進むしか無いのは乱世の常であるが、彼はどの王とも違う理由でそれを行っている為に壊れて行く。既に他人を信じる事でしか自分を信じられず、その毒は自分では気付けない深い部分に染み込んでしまっている。
詠は洛陽から今まで近くで見て、さらに雛里と多く関わった事によって秋斗という人物像を少しずつ掴みはじめていた。
責任感が強く、一つの曲がらない基準線だけを元に行動し、自分以外の多くの人の幸せを願う男。効率を求めれば作る事の出来る小さな平穏を捨てて、長い乱世による今までよりも大きな平穏を作り出そうとする男だと。
対立はどのような組織でも不可避の事柄であり、良い方向に向かわせることが出来れば誰しもが競い合い高め合える事となる。ただし内部のみでないとすぐに乱れる為に天下の統一は絶対に必要な事。曹操や孫策の覇道に対立出来る大徳は言うなれば長い治世を作り出す為の一つの手段である。董卓という王の元で政治を行っていた詠はそんな彼の思惑が一つの正解のカタチである事をよく理解していた。
――でも優しいくせに馬鹿げてるわよあんたは。ボク達に幸せになってくれと願うなら……あんたも一緒に幸せになりなさい。
ふいと顔を上げた詠の瞳にはもう悲哀は無く、せめてこの愚かで優しい男を少しでも助けてやろうと話を変えた。
「ま、いいわ。話を戻しましょう。とりあえず孫権は真正面から叩く事に決定でいいわね。捕えるにしても討ち取るにしても後々問題が出るのは確定だから敗走させるように戦うのが最善だろうし」
いつもの調子に戻って秋斗に話す詠は軍師の瞳を湛えていた。うだうだと悩んでいても仕方ない。現実として迫りくるモノを優先するべきということ。
「しかし孫権かぁ……孫策よりもあれの方が重要だろうからなぁ」
ぽつりと漏らされた言葉を聞いて詠が訝しげに見つめ、秋斗は少しハッとして慌てて言葉を続ける。
「単純な武力を持って人を導く存在じゃなくて人を繋ぐ可能性を持った人材かもしれないって事だ。内政の状況を見ても孫権の配属されている地域は少しだけ他よりも人心がいい具合だし。乱世で戦うなら孫策、乱世の果てに生き残らせるなら孫権がいいかもな。まあ、本人の王才がどの程度か、治世に必要な人材であるかは戦場で言葉を交わして少しでも見極めさせて貰うが」
驚いて齎された情報に書かれた部分を見る詠は気付かない。苦しいこじつけであった事に。
史実の話を無意識の内にポロリと零してしまい秋斗は焦った。白蓮然り、曹操然り、この世界の人物はその人となりも経過も全く違う事があるのだと思い出して。
「こ、こんな些細な事に気付いたの?」
「可能性の話だから深く考えないでいい。とりあえず、孫権だけは真正面から叩き潰して手早く引き返して貰うのと同時に、袁術軍の牽制を雛里の計画通りに行おうか。そろそろ軽く兵の準備に動くとするよ。雛里達が起きたら件の事を伝えて、何か変更があったら言ってくれ。それと詠の淹れてくれたお茶、美味しかった。湯のみはついでに片付けとく」
問いかけの答えを聞き、そそくさと部屋を出ていく秋斗の背を見送ってから詠は一つため息をつく。些細な事でさえ気付いてしまえるというのに自分に向けられる感情にはどこまでも疎いのか、と。
「……ほんっとにバカね」
詠は聞こえないように部屋の中で小さく呟き、今は仮眠室で眠る友を想った。
どうか彼女の想いがあの鈍感男の心を治して、救い出せますようにと。
後書き
読んで頂きありがとうございます。
蓮華さん、亞莎ちゃん登場。
『士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし』になるのかどうか。
美羽ちゃんの思いつきですべてが台無しになるかもしれない事態になりました。
七乃さんの能力値はやばいです。原作の拠点フェイズでも恐ろしい手腕だったので真面目にやればこのくらいかなと予測を立ててみました。
主人公のぶっ壊れ具合と詠ちゃんが姉御ポジに。
詠ちゃんとの距離感は現在こんな感じです。「ボク達や雛里を人質に取られたらどうする」なんて聞かないあたりが彼女なりの優しさだったりします。
人質の話は主人公にとって本当に難しい所なので。
赴任してまだ間もない為、愛紗さんは桃香さんの護衛と本城で追加兵の強化やらに大忙しです。
次は孫呉の姫君との戦です。
ではまた
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