僥倖か運命か
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第十章
第十章
秋山の速球は坂本の胸元をえぐった。かろうじてバットに当てたがそれは高々と舞い上がった。
「ああ・・・・・・」
永田はそれを見て溜息をついた。それはファールフライだった。土井がマスクを外し追う。
打球は土井のミットに収まった。そして二度目のスクイズは失敗に終わった。
「またここでスクイズをしてくるとはな」
三原は空しくベンチへ引き揚げる坂本を見ながら呟いた。
「だがもう成功する筈が無い。ましてや坂本君ではな」
坂本は第二戦のスクイズでホームでタッチアウトになったその人だ。その彼がスクイズをしても上手くいく筈もなかったのだ。それは流れであった。運命にも言い換えられよう。
それで全ては終わった。九回裏遂に大毎の攻撃は終わった。
歓喜に包まれる大洋ナイン。四連投で無事勝利を収めた秋山は笑顔でナインと握手をしている。
三原が胴上げされる。二度、三度と高く天に舞う。
戦いは終わった。結果は四戦全勝、大洋の圧勝であった。
その全てが一点差、だが圧倒的戦力を誇る大毎を寄せ付けない見事な勝利であった。
MVPに輝いたのは近藤昭仁、第三、四戦での決勝打がものを言った。シーズン打率二割二分六厘、ホームラン四本の男が獲るとは誰も思わなかった。
秋山は最優秀投手に選ばれた。MVPではなかったが彼はそれで満足だった。日本一になったのだから。
しかしそれは負けた者達にとって実に悔しい光景であった。
大毎ナインは唇を噛んでその一連の光景を見ている。特に西本のそれは険しい。
「三原さんにしてやられたわ・・・・・・」
彼は言った。そして無言でその場を去った。
永田は既に決定していた。西本を解任する事を。それは第二戦の後のあの電話のやり取りでほぼ決定していた。
この戦いで三原の名声は不動のものとなる。そして三原マジックは伝説の妙技として知られることになる。
西本はこの後阪急、近鉄の監督を務める。このシリーズを合わせると八回のシリーズ出場を果たしたが遂に日本一になることは出来なかった。そして人は彼を『悲運の闘将』と呼んだ。
永田はこれ以後もワンマンオーナーぶりを発揮する。だがチームは低迷し大映の経営も行き詰まる。そして最後には球団を手放し大映も倒産する。
「愛する皆さん、何時か私を迎えに来て・・・・・・」
球団経営からの撤退を宣言する場で彼は言った。そして号泣した。哀しい男泣きであった。一代の映画人永田雅一は最後まで野球を、映画を愛していた。そして愛を残して去ったのだ。
思えばあのスクイズが全てだったのだろう。三原、西本、永田、そして多くの選手達の運命を決定付けたあの場面が。
あの場面で三原は僥倖と言った。しかしそれは果たして本当に僥倖であったのだろうか。その一言で片付けるにはあまりにも劇的であった。運命的であった。
だがその真実を知る者はいない。僥倖か、運命か。それを知るのは時を司る女神達だけである。そして彼女達もそれを全て制御出来るわけではないのである。人の力はそれ程大きくなる時もあるのだ。
「こんな場面は西本さんやないと出来んわ」
昭和五十四年の秋のことであった。雨の大阪球場で誰かが言った。目の前では広島が日本一の胴上げを行なっていた。
それを黙って見詰める男、西本である。彼はスクイズで再び負けたのだ。
「けれど凄いわ。この場面であんな采配わしには出来ん」
その人はこう行った。
「思えばあの大毎の時もそうやった。西本さんはこういった場面でも生きる。あの人やないとこうした負けでも生きるということは出来へん」
言葉を続けた。
「運命っちゅうやつやろうな。西本さんは負ける運命やったんや。けれどな、それでもあの人が素晴らしい監督であり素晴らしいお人であるのは変わらへん」
近鉄ナインは西本と共にその胴上げを見ている。西本はやはり口をへの字にしている。
「わしは幸せもんや。こんな凄い場面二回も見れたんやからな。こんな筋書き神様でも書けへんで」
彼はそう言うと席を立った。そして酒屋へと繰り出していった。そしてその側にいる子供に言った。
「ぼん、酒はあかんけれど付き合わんか?わしが西本さんの話たっぷり教えたるで」
その子供はそれについて行った。彼が顔見知りだから安心していたこともあった。だがそれ以上にあのへの字口の監督の話を聞きたかったのだ。
それもまた運命であろうか。それとも僥倖であろうか。だが一つだけ言える。この勝負を知ることが出来た人は幸せ者であったと。
僥倖か運命か 完
2004・1・19
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