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赤城と烈風

作者:fw187
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★改訂前
  戦艦の建造(仮)

 日本海軍に於ける戦艦の異変は『香取』と『鹿島』、改『キング・エドワード7世』型2隻に遡る。
 『筑波』型2隻と『鞍馬』型2隻、『薩摩』型2隻と『河内』型2隻の備砲類も違う。

 1904年1月31日アームストロング社、ヴィッカース社に『マイノーター』級1隻の建造依頼が届いた。
 2月29日1番艦の着工後4月27日2番艦、1905年1月2日3番艦と『スイフトシュア』も続く。
 山本権兵衛は連装45口径203ミリ砲8基の提案を選び、14日呉工廠で『鞍馬』の竜骨(キール)を据える。
 ロシア製の最新鋭戦艦『ボロディノ』級5隻、1903年8月就役『ツェサレーヴィチ』の影響かもしれない。

 2月20日『ピサ』起工後22日『トライアンフ』、3月15日『周防』も続く。
 国産戦艦第一号は連装45口径254ミリ砲6基、呉工廠で経験値の還元(フィード・バック)策も兼ねた。
 5月15日横須賀工廠は『相模』、ベアードモア社ダルミール造船所も『アガメムノン』の竜骨(キール)を据える。
 18日『ロード・ネルソン』起工後8月23日『薩摩』、10月2日『ドレッドノート』が続く。
 『周防』『相模』に準拠、連装45口径305ミリ砲6基の戦艦も横須賀工廠で建造工程が進む。

 1906年3月15日呉工廠で『安芸』起工後イタリア製、英国製の実験艦に関する情報は届かない。
 12月2日『ドレッドノート』就役直後、近藤基樹造船中監の基本設計案が見直された。
「305ミリ砲8門一斉射撃の爆風、衝撃に耐え得る強度は実現可能」
 1903年当時の艦政本部第3部長、佐双左仲の遺した言葉を疑う理論家は数多い。
「隣接主砲2基の砲弾装填機構を時間差で運用、30秒毎交互射撃に徹すれば問題は無い筈です。
 中後部に連装砲1基を載せ、左右両舷10門射撃可能とすれば『ドレッドノート』に優る」

 1907年1月14日『鞍馬』竣工後、或る参謀の提案に基き建造準備が進む。
 5月22日呉工廠で『肥前』起工後、戦艦の建造費は審議を通らない。
 1908年3月24日『周防』竣工後、合州国製の戦艦16隻に横浜寄港を申し入れた。
 10月18日大白色艦隊(グレイト・ホワイト・フリート)の親善訪問後、50口径305ミリ連装砲4基の購入費が審議を通る。

 1909年1月18日呉工廠で『丹後』起工後、4月1日横須賀工廠で『河内』が続く。
 11月1日『相模』竣工後、1910年3月1日就役『サウス・カロライナ』の影響も濃い。
 『丹後』『河内』建造中断、背負い式配置の実験が命じられた。
 3月25日『薩摩』竣工後45口径356ミリ砲国産化、『金剛』英国発注案が審議を通る。
 1911年2月28日『安芸』竣工後、3月11日『肥前』が続く。

 過半数の議員は量産効果を重視、安価で建造可能な戦艦を望んだ。
 後部主砲2基を背負い式配置、全長は『金剛』準拠の機関室縮小案が審議を通る。
 1912年3月11日『扶桑』起工、31日『河内』竣工後7月1日『丹後』が続く。
 翌1913年『河内』主砲撤去、45口径356ミリ砲に換装が実施された。 
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