恩返し
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第四章
第四章
目が慣れてきていた。彼が少しでも調子を落とせば打てるかも知れない、そう思いはじめた。
上田はそれに気付いていなかった。彼は流れが阪急のものであると確信していた。そしてそれが山口の剛速球にあるものだと思っていた。
「山口の球は誰にも打てん」
確かにそうだった。今の山口は。
だが山口は機械ではない。疲れもするし調子の波もある。彼も人間なのだ。
普段の上田ならばその程度のことは充分考えられた。だが彼は焦っていた。
「流れは急に変わるもんや」
長い野球生活でそれは嫌という程味わっていた。それが去った時程悲惨なものはないということも知っていた。
彼は残る試合全て何としても勝つつもりだった。そして巨人を捻じ伏せるつもりだった。
「それが阪急の野球や」
そうであった。西本以来の阪急の野球である。ペナントはいつもそうして勝っていた。
だが何故西本はいつもシリーズで勝てなかったか。上田はそれをこの時考えていなかった。
西本はよく余所行きの野球はするな、と言った。だがシリーズでは相手を意識してよく普段とは違う野球をした。そして敗れた。
昭和三五年のシリーズはその最たるものだろうか。第二戦、西本は一死満塁のチャンスでスクイズを命じた。
結果は失敗であった。これがシリーズの流れを決定付けてしまった。
これに激怒した大毎のオーナーである永田雅一により解任された。この時大毎の売りはミサイル打線と呼ばれる強力打線であった。それなのにスクイズという消極的な戦法を採ったからだ。
この時そのミサイル打線は下降線にあった。そう考えるとこのスクイズは妥当であった。確かにそうである。若し併殺打ともなれば事態はより悲惨である。
しかしこう言う人がいる。ペナントの西本ならばあそこでスクイズは命じなかった、と。この時の彼は明らかに普段とは違う采配、余所行きの野球をしてしまったのだと。
上田はそれをよく知っていた。だが彼は焦っていた。勝利を急いでいた。
勝負の世界では決して急いではならない。さもなくばそこに隙ができるからだ。
上田は頭の回転の早さで知られる知将である。だがこの時は早く回り過ぎた。
そしてそれが仇となっていく。だがこの時彼はそのことをまだ知らなかった。
第三戦、阪急は山田を投入した。舞台は阪急の本拠地西宮に移っていた。雨の影響もあり山田を先発させることができた。休養を充分にとれた山田は絶好調だ。上田はこの試合も勝利を確信していた。
本拠地だけあって阪急打線もいつもより元気があった。巨人投手陣を次々に打ち崩していく。
山田は危なげなく投げる。上田はそれを見てにこにこと笑った。
「今日はあいつに任せていればええわ」
試合は何なく終わった。山田は巨人打線を三点に抑え見事勝利投手となった。
「遂に王手ですね」
記者達は上田を取り囲んで言った。
「そうやな」
上田は表情を押し殺していたつもりだがやはりそこには笑みがあった。
「このまま勝つつもりですか」
「相手がおるからなあ」
そう言いながらも確かな手ごたえを感じていた。
「しかしここまでいくとすんなりいきたいな。西本さんもそれを望んではるやろうし」
「危ないな・・・・・・」
それをテレビで見ていた男がそれを聞いた瞬間言った。その西本幸雄本人である。彼はこの時近鉄の若い選手達にせっせと教えその合間の休憩をとっていたのだ。
「上田は焦っとるな」
彼にはそれが手にとるようにわかった。その顔に陰が生じていく。
「焦りは禁物や。焦った時勝負は負けや」
彼自身がそうであった。彼はシリーズでは常に勝利を焦ってしまった。そしてことごとく敗れてきたのだ。
戦力差、それを感じたことはなかった。その時を振り返るといつも勝利を焦る自分自身の姿があった。
「上田にはよく教えた筈やが・・・・・・」
上田もまた西本の弟子であった。彼もまた巨人に対しては激しい敵意を燃やしていた。
「忘れとるか。そえが命取りになるな」
見れば彼の後ろにいる阪急ナインも同じであった。それどころか巨人ベンチを完全に舐めた顔で見ている者までいる始末だ。西本はそこに危機を感じた。
「わしがあそこにいたらぶん殴ってでも目を醒まさせるんやが」
だがそれはできない。彼は今藤井寺にいるのだ。西宮にいるのではない。
「誰かが気付いとったらええんやがな。それか全く動じとらん奴がおるか」
彼はここで一人の男を思い出した。
「足立はどう思っとるやろな。あいつやったらもしかすると」
だがここからは足立の姿は見えない。映像は巨人のベンチに移っている。
「監督」
そこでコーチの一人がやって来た。
「お、休憩終わりか」
西本はそのコーチに顔を向けた。
「はい」
そのコーチは頷いて答えた。
「じゃあ行くか」
西本はテレビのスイッチを消して席を立った。
「あの連中をまたしごいたろかい」
彼は部屋を出た。その時彼は見なかった。テレビに消える瞬間の巨人ナインの顔を。
それは勝負を諦めた男の顔ではなかった。意地でも食らいつく、そうした飢えた狼の如き顔であった。
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