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恩返し

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第三章


第三章

 大きく弧を描く様な右腕の動き。そして身体全体を使って投げる。思いきり腕を振り下ろす。怖ろしいまでにダイナミックな投球フォームだ。
 そこからボールが放たれる。それは見えなかった。
 暫く、といってもほんの一瞬であった。ミットからドスーーーーン、という重い音が響いてきた。
「・・・・・・・・・」
 その音は球場全体に響いていた。それを聞いた後楽園の聴衆は話すのを止めた。
 山口はまた投げた。そしてまた重い音だけが響いてきた。
 暫くして巨人ファン達がボソボソと囁きはじめた。その顔は蒼白となっていた。
「何だ、今のは」
 彼等は山口を横目で見ながら囁き合っていた。
「今投げたよなあ」
「音が聞こえただろ」
 そこでまたあの重い音が球場に響いた。
「見えないぞ」
「けれど投げてるんだろ、あの音聞こえるだろ」
「ああ、しかし」
 山口は確かに投げている。だがそのボールが見えないのだ。
 理由は簡単であった。山口のボールは速いのである。あまりにも速いのだ。それは横からはまともに見えない程に。
 巨人ベンチも完全に沈黙していた。長嶋も王も呆然としていた。
 彼等このその江夏、村山がその全力を以って挑んだ相手であった。彼等だけではない。金田正一、外古場義郎、権藤博、秋山登といった大投手達もその速球でもって彼等に挑んできた。だが彼等はそれをことごとく打ち崩してきた。
 その彼等が呆然としていた。かって速球派として知られた巨人のエース堀内恒雄も顔を真っ白にしていた。
「今まで見たなかで一番速い」
 球場にいるある老人がそう呟いた。彼は戦前からプロ野球を見ていた。
 彼の自慢は一つあった。それは極盛期の澤村栄二やスタルヒンといった伝説の投手達のボールを見たことであった。
 山口のボールはそれ程までに速かった。実は彼は昨年のシリーズにおいても登板していた。
「あれはとても打てるものじゃない」
 広島の主砲山本浩二はそう言った。彼は山口の真ん中のストレートを空振りしていたのだ。
「真ん中にくるのはわかっていた」
 彼は試合後言った。
「だが打てるものじゃない。ノビも球威も桁外れだ。あんなの打てる人間はこの世にはおらんわ」
 彼も驚きを隠せなかった。広島の誇る赤ヘル打線は山口の前に沈黙した。そして阪急は広島に一敗もすることなく日本一となったのである。
 その山口が今巨人の前に姿を現わした。巨人は怪物を向こうに回しているのをこの時ようやく悟った。
「今更気付いても遅いで」
 阪急ファンは顔面蒼白となった巨人ファンとナインを見て笑った。
「山口の凄さ、今からよく味わうんや」
 この試合はこれで終わりだった。山口の投球練習だけで巨人ナインは沈黙してしまった。
 やはり打てない。ボールがミットに入った後でバットを振る始末だ。これでは打てる筈がない。
「バットにかすりもしないのか・・・・・・」
 巨人ファンは無念の表情でそう呟いた。やがて阪急が突き放しまずは阪急が勝った。
「まずは一勝か」
 上田はベンチに戻ってくる山口を見てそう呟いた。
「どうやら敵さんはかなり萎縮しとるな」
 彼は巨人のベンチを見た。まだ山口のボールの衝撃から目が醒めないようだ。
「流れはうちに大きく傾いとる」
 伊達にその頭脳を買われて球界に入ったわけではない。彼は流れを素早く読み取っていた。
 あとは一気に攻め立てる。西本以来の阪急の攻め方だ。
「巨人といえど昔とは違う。勝たせてもらうで」
 上田はそう言うとベンチをあとにした。彼はこのシリーズの勝利を確信していた。
 その次の日は雨だった。試合は当然流れた。
「雨位でうちの勢いは消えんで」
 上田はその雨を見上げて言った。前では室内練習場で選手達が汗を流している。
 皆その顔には覇気があった。誰もが勝利を確信していた。
 対する巨人の練習風景はまるでお通夜のようであった。それを見た誰もがシリーズの結末を予想した。
 翌日第二試合が行なわれた。阪急はベテラン足立光宏を投入してきた。巨人の先発はライトである。
 足立はベテランらしい投球で巨人打線を抑える。阪急打線はライトを打っていく。試合は阪急有利に進んでいった。
 そして最後は山口を投入した。そして危なげなく二勝目をあげた。
「巨人には今まで散々痛い目に遭わされてきたからな」
 足立はベンチでうなだれる巨人ナインを横目で見ながら言った。
「今度は負けるわけにはいなかい。絶対に日本一になる」
 彼は自慢のシンカーで巨人打線を抑えた。そして山口も第一戦と同じく剛速球で巨人打線を抑えた。 
 だがここで巨人は見抜いたものがある。山口のボールの軌跡だ。
「もしかしたら」
 彼等は思った。
「打てるかも知れない」
 今の山口は無理だろう、今の巨人打線では。しかし。
 
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