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それぞれの白球

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加持編 血と汗の茶色い青春
  第四話 修行

第四話


ヤバい。そう思った。

いや、是礼に入学してからというもの、ヤバいと思わない日は無いと言って良かったが、この時は高校生活の中でもトップ3に入る。

是礼は年末に、伝統のトレーニング合宿を行う。
わざわざ山奥に出かけていって、寺に寝泊まりして精神修養しながら、近場のグランドや山道で体をこれでもかといじめ抜く。
朝6時に起きて、練習は夜の10時まで続く。
こんな練習したって、体は大きくなる訳がなく、やつれる一方なのだが、これは理屈云々というより、もはや苦しさに耐える精神力の鍛錬が目的だった。

この合宿のラストは、寺の数百段ある階段を50往復する事だった。それが始まったのは疲れもピークの最終日の9:30、「後はクールダウンして終わりだろ」というタイミングだった。
この合宿では2年も1年もなく、誰もが必ず1度は倒れるような状態だったが、このメニューについては全員完遂が求められた。

深夜、暗闇が包み込む寺の階段を、寒さに震え鼻水を垂れ流しながら俺たちはひたすら走った。身体中が軋むように痛かった。俺の足の皮は剥けて、白いランニングシューズに血が滲む。それでも足を止める事は許されない。
最後の辺りは、本当に体が動かなくなった。自分の体なのにまるで鉛のように重い。どう頑張っても、立てなかった。千本の素振りに皮が剥け、テーピングに血が滲む両手も使って、這って階段を登った。そうなってるのは俺だけではない、半分くらいはそうだった。全く動きにスピードは無いはずなのに、何故か息が弾んで、死ぬほど胸が苦しかった。

最後の一段を登り切った時、勝手に涙が溢れてきた。達成感なんてもんじゃない。そんな優しいもんじゃない。やっと解放された。やっと休める。そう思うと、涙が止まらなかった。

その後、どうやって布団に入ったのか、よく覚えていない。
気がつくと、次の日の朝が来て、俺たちは5日間の地獄から戻った。




ーーーーーーーーーーーーー




年末にやっと俺は帰省する事ができた。
盆休みもあるにはあったのだが、俺たち二軍は自主練習とかいう名の強制練習のおかげでオフも返上させられていたのだった。
ボロボロの俺は、この帰省がある意味怖かった。

あの地獄から、優しい両親兄弟の待つ実家に帰ると、二度と戻りたくなくなってしまうのではないか。そう思ったからだ。

「おう、亮司。ちょっと居間に来てくれ。」

9ヶ月ぶりに帰った実家で、俺は惰眠を貪った。これでもかという程寝た。たった1人で寝てられるなんて、こんなありがたい事はない。いつも白神のいびきと寝言のせいで熟睡を妨げられていた。そんな俺を、ある日兄貴は呼んだ。

「ほれ、こいつが弟の亮司。是礼で野球やってる。」

居間に居たのは、兄貴の彼女だった。
彼女と聞いた訳じゃないが、まぁ彼女で間違いないだろう。髪は肩にかからない程度で、少しキツめの目つきをしている女だった。
お勉強私学に居ながら、兄貴もちゃっかりしてやがるなと思ったよ。

「初めまして、加持亮司と申します。兄が常日頃からお世話になっております。」

俺は体を10度の角度に保って会釈した。
何とも思わずにそうした。
是礼の野球部はこのお辞儀の使い分けだの何だのに殊更に厳しく、もはや勝手に体が状況を選びとって角度を使い分けるようになっていた。

「……」

兄貴の彼女が目を丸くしていた。
兄貴も目を丸くしている。
一体どういう事だ?
何かおかしな事したのか?
俺はそう思った。

「憲司の弟さん、すごく礼儀正しいわね」
「あっ、うん…おかしいなぁ。今まで女の子見るとすぐバストサイズなんか聞いてたって言うのに…」

兄貴の彼女が感心して、兄貴は首を傾げている。
そこでやっと俺は気がついた。
是礼のスタンダードは、そこらの高校生のスタンダードなんかじゃない。テレビも食堂に備え付けのものだけで、携帯も持たせちゃもらえない隔絶された環境に身を置いて、すっかりその事を忘れていた。



正月に親戚と会う時も、これら染み付いた敬礼の癖と言葉使いはちっとも治らなかった。
無駄に修正して、是礼に帰った時に粗相でもしたら大変なので、治す気もさらさらなかったのだが。特に祖父母は、こんな風になった俺を、何故かとても「立派になった」などと喜んでくれた。名門というブランドがどのようにしてできていくのか、その一端を見たような気がした。



 
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