| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

ローリング=マイストーン

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
< 前ページ 目次
 

第一章


第一章

                ローリング=マイストーン
 朝までかかった馬鹿げた仕事の帰りだった。俺は疲れ果てた身体を公園のベンチの上に座らせていた。
「ったくよお」
 仕事が終わっての一杯はコンビニで買ったリキュールだ。俺はすきっ腹にそれを流し込みながら不満を吐き散らしていた。
「仕事があるんなら早く言えよ」
 言われたのは帰ろうとしたその時だった。上司に急に呼び止められたのだ。
「済まないがね」
「今からですか!?」
「ああ、急な仕事でね」
「急なって」
 職場の時計はもう九時を回っていた。この日も残業だった。毎日毎日残業で嫌になってくる。朝の八時から夜の九時までだ。次の日になることなんてザラだ。終電で帰るのもそのまま会社に泊まり込むのも日常茶飯事だ。どうしてこんなに馬鹿みたいに仕事があるのかいい加減聞きたくなる程だ。それで残業手当は雀の涙だから話にならない。
「やってくれないか」
「もう九時ですよ」
「君しか頼めないんだよ」
 上司も引き下がらなかった。向こうも安サラリーの中間管理職だ。気絶しそうになる程仕事を抱えているのはお互い様だ。
「だから、さ」
「他にはいないんですか?」
 憮然として職場を見回す。ありふれたオフィスだ。パソコンがあって机や椅子が並んで置かれている。そうした普通のオフィスだった。馬鹿みたいに仕事がある以外は本当に普通の職場だ。
 見回して俺は心の中で舌打ちした。誰もいないからだ。
「いないんだよ、それが」
「そうですか」
「本来なら私が残るべきなんだがね」
 上司は申し訳なさそうに言った。悪いことにこれが演技じゃないってことが俺にはわかった。
「お子さんですか?」
「ああ、またな」
 上司はバツの悪い顔をして答えた。
「急にな、具合が悪いって」
「そうですか」
 これも本当のことだ。身体の弱い子供を持つ親は気が気ではない。上司もそうであったのだ。
「命に別状とかはそんなのはないらしいが」
「わかりました。じゃあ引き受けますよ」
「悪いな、この埋め合わせはするから」
「いや、いいですよ」
 本当に誰も残っていなかったから仕方がない。内心は嫌だったがそれでも引き受けないわけにはいかなかった。こうして俺はまた仕事をすることになった。
「頼むよ」
「はい」
 上司に仕事を渡される。パソコンの前に座ってデータを打ち込んでいく。そのまま一人でずっと仕事に没頭したそれで終わったのが今さっきだったということだ。
 仕事が終わったら窓には朝日が差し込めていた。爽やかな朝だ。
 だがそれを見ても嬉しくとも何ともない。徹夜で仕事をした人間に必要なのは休みだ。こんな爽やかな朝も嬉しくとも何ともない。俺は仕事の後片付けを済ませるとさっさと職場を後にした。戸締りをして警備員の人に鍵を手渡す。
「お疲れさん」
 六十過ぎの警備員さんが宿直室の窓から俺に声をかけてくれた。
「昨日は頑張ってたみたいだね」
「ええ」
 俺は疲れた顔でそれに応えた。
「何とか終わりましたよ」
「そうかい」
「何とかね。で、今日は土曜ですね」
「ああ、そうだよ」
「やれやれ」
 本当なら楽しい週末だ。だがこの時はとてもそんな気持ちにはなれなかった。不愉快で仕方のない朝だった。
「どうするんだい、これから」
「さてね」
 俺は疲れた態度のままそれに返した。
「とりあえず休みたいですね」
「何だ、デートとかはしないのか」
「生憎お留守だそうで」
 親について海外旅行中だ。務めている会社は俺が今いる会社よりずっと収入があって時間もふんだんにある。それでその浮いた時間と金を親孝行に使っているのだ。何でも自分を可愛がってくれている御礼だそうだ。今時滅多にいないできた女の子だ。だから俺よりもいい会社にいるんだろう。それを思うと俺が今こんな会社にいるのは日頃の行いが悪いせいかと思った。全く世の中上手くできているとシニカルに思った。
「じゃあ一人かい」
「そういうことです」
「寂しいね、どうも」
「まあゆっくり休みますよ」
 俺は答えた。
「アパートに帰ってね」
「そうだね、そうしなよ」
「はい」
 俺はそのままビルを出た。とりあえず夜から何も食べていないのでコンビニに入った。昨日の六時に同じコンビニで買った弁当を食ってから何も腹に入れていなかった。腹は空いてはいなかったがやっぱり何か入れておかなくちゃ身体がもたないと思ったからだ。
「さてと」
 俺はコンビニの中に入るとまずは辺りを見回した。
「何がいいかな」
 学生のバイトの女の子がにこやかに営業スマイルを見せている前には唐揚げやナゲット、フランクフルトがある。けれど今は油こいものは食べる気がしなかった。
 御握りにしよう、あとお茶か。軽い食事で済ませるつもりだった。そしてまずはお茶を買おうと思った。そこで俺の目にリキュールが入った。
「酒かよ」
 何かもうそれでいいと思った。どのみち仕事は終わって後は何もない。アパートに帰って横になって寝るだけだ。それならもう何が入ってもいいと思った。
 それで酒を買った。とりあえず目に入るのを買い漁った。食い物は結局買わなかった。酒だけ手当たり次第に買った。
「有り難うございました」
 学生さんの明るい声を後ろに聞いて店を後にする。それから俺はふらふらと歩いた。酒はぶら下げているビニール袋の中に山程ある。
 足が重かった。何かブーツを履いているみたいだ。それが俺を一層不機嫌にさせた。
「ああ、糞」
 もう歩くのも嫌になってきた。何処か休める場所が欲しかった。
 見回すといつも会社の行き帰りに通る公園があった。オフィス街にあるありふれた、何処にでもある公園だ。いつも仕事のことばかり考えさせられているのでまともに見たことはない。
 その公園にベンチがあるのも今気付いた。少し考えればベンチの公園なんてある筈もなかった。俺はそこに座ることにした。とりあえずの一休みだった。
「ふう」
 ベンチの上にどっかりと腰を下ろすと何かまた急に疲れが出て来た。うんざりする疲れだった。
「何時までこんな生活が続くんだよ」
 俺はうんざりした顔でこう呟いた。
「仕事仕事ってよ。それで安月給だ」
 言いながら過労死するんじゃないかとさえ思った。
 命の心配はなくても何かそんな嫌な気分になる。来る日も来る日も仕事ばかりだ。そんなのが人間の生き方なのかとさえ思った。柄にもなく哲学者になっていた。
「俺の人生ってこんなのかよ」 
 ガキの頃はそうじゃなかった。楽しく遊んでいた。それでも大学を出て気が付いたらこうなっていた。あくせく働くしがないサラリーマンになっていた。
 その間に覚えたのは小さな世の中と酒だけだ。他には何もない。本当に何もなかった。仕事のうえでのデータやコンピューターのことなんて覚えたくて覚えたわけじゃない。世の中も見てみれば本当に狭い。アパートと会社を往復して、それで時間がたまたま出来れば彼女と会う。それだけだ。その他には本当に何もない。狭いものだ。
 それで酒だ。何か気晴らしに飲みたくなった。適当に缶を一つ手に取って空ける。すぐに口の中に流し込む。
 何かのカクテルだった。発泡していてそれが口の中を刺激する。甘い味が口の中を覆う。俺はそれを一気に飲んだ。すきっ腹に酒が派手に流れ込む。
「ふう」
 とりあえず一息着いた。それでもまだ足りない。また空けて飲む。気が着いたらもう何缶も空けていた。
「もうないのか」
 全部飲んでしまっていた。結局これが朝食になった。とんでもなく不健康な朝食だ。けれどもうそれでもよかった。何か何もかもがどうでもよくなってきていた。
「何しようか、これから」
 俺はベンチに座ったまま呟いた。
「アパートに帰るかな」
 どちにしろそれしかない。それに何故かあまり酔ってはいなかった。これだけ疲れていると早く酒が回るのに。それを幸いに立ち上がろうとした。その時だった。

 
< 前ページ 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧