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虹との約束

作者:八代 翔
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第一部
第二章
  夏休み

 
前書き
夏のきらめく一ページ 

 
 夏休みになった。
 ある夜、祐二は携帯電話を汗だくの手で握って、電話をかけるかかけまいか迷っていた。扉も閉めていて、ベッドの上でタオルケットもかぶっている。家の人に聞こえる心配は全くなかったけれど、その先に、緊張という壁があった。ちゃんと話せるか、ぶきらっぼうな口調にならないか、真里は不快に思わないか、と幾多の迷いがあった。
 付き合っている、そう、付き合っているんだ。
 なにも躊躇うことはない。祐二はそう思って、ダイヤルを押した。メールをすればよかったけれど、声が聞きたかった。夏休みが始まってから一週間、一度も声を聞いていない。
 プルルル…
 呼び出し音が鳴っている間、躊躇、期待、希望、恐怖、高揚、と無数の感情が交錯した。
「もしもし。井原?」
声が鳴った。急に胸がドキドキした。汗でしおれたメモ用紙を手に、祐二は話した。
「お、おう原崎。ひ、久しぶり。」
「こんばんは。久しぶりったって、毎日メールしてるじゃない。」
「そ、そうだよな。ははは。」
なかなか言いたいことが言い出せない。こんなんじゃだめだ。祐二は息を吸った。
 言うしかない。じゃなきゃ、何も始まらない。
「あ、あのさ、今度、海…行かないか?」
「海?」
真里がきょとんとした声で言った。首をかしげる仕草が目に浮かぶようだった。
「う、うん。日帰りでさ。神奈川のビーチで、一時間ちょっとで行けるんだ。」
「へえ。いいねー。」
「うん。直哉や冨原たちも誘ってさ。」
「彩ちゃん?」
一瞬、真里の声が低くなったような気がした。
「い、いけなかったかな?」
祐二は狼狽えた。真里と彩は親友だったから、飛びついてくれると思ったのだ。
「いや。ぜ、全然いけなくなんかないよ。いつごろ?いくらくらいかかる?」
「八月十七日はどう?月曜日だし、部活は休みだよね?」
「え、うん…大丈夫だよ。じゃ、その日に行こうか。」
真里はちょっと驚いたみたいだった。
「よかった。じゃあ、十七日の九時に、駅の西口で会おう。お金については、二千円弱あれば大丈夫だから。じゃ、じゃあまた連絡するね。」
祐二は今にも胸が爆発しそうだった。彩に部活の予定等を聞いて万全を期していたため、OKには確信に近いものがあった。けれどいざ、五日後に真里に会えると思うと、もういても立ってもいられない心持ちだった。
「ね、ねえ井原。」
そうして祐二が「切」スイッチを押そうとしたとき、真里が呼んだ。
「なに?」
「あ、あの…二人っきりの時は、真里、でいいから。っていうか、真里って呼んで。」
「いいの?」
祐二は尋ねた。付き合っているとはいえ、女の子を名前で呼ぶなんて、祐二には考えもしなかったことだった。
「井原は、だめ?だめだったら…」
「い、いや。全然。じゃ、じゃあ、僕のことも、ゆ、祐二でいいから…」
そう言うと、ほっ、と真里が息をつくのが聞こえた。
「ありがと。大好きだよ。祐二。」
そう言われるやいなや、祐二の胸はこれまでにないくらいに温かくなった。これが、恋―今まで経験しえなかった、凄く心地よい温もり。胸がきゅうっとなるくらい、真里が大切な存在に思える。
「ぼ、僕も好きだよ。じゃ、じゃなくて…大好き、だよ。それじゃ、おやすみ。真里…」
「おやすみ。祐二。」
電話を切った。ほっとしたような、名残惜しいような、そんな気持ちだった。
 部屋の窓から、夏の夜空が見えた。十七日にも、あんな夜空が見えたらいい。
 彩や直哉と、前々から計画してきた。あとは、当日晴れてくれるのを、祈るのみだった。週間天気予報は、曇りのち晴れ。

 真里はというと、やはり祐二と同じように携帯を握りしめて、十七日のこと思っていた。真里にとっては、特別な日だった。
  そういえば、祐二は知らないんだった。
  ううん。いいの。むしろ、祐二と過ごすほうが、楽しいもん。
  本当は、二人で過ごしたかったのに。どうしてわかってくれないんだろう。
  オシャレな水着買わなきゃな…そうだ。男の子ってそういうのに弱いんだよね。
でも見透かされてたらどうしよう。その前にお金を…
天気は大丈夫かな…
 真里は週間天気予報を見た。曇りのち晴れ。
 大丈夫。なにがどうなっても、祐二はなんとかしてくれる。だって、祐二は天野や長浦にだって、抗戦してくれたんだもの。真里は、そう信じることに決めた。

 いよいよ十七日になった。
 じりじりと暑い陽を浴びて、祐二は駅の西口にいた。午前中は曇っているはずなのに、見えるのはビル群の間から顔を出した、小さな入道雲の頂だけだった。夏の風が微かに吹いた。時刻は、九時八分前。蛍の祭典のときは真里を待たせてしまったので、今回は何が何でも自分が先に、と、早めに待ち合わせ場所にきた。
「井原~」
呼び声がした。ほのかな期待を胸に振り向くと、彩だった。祐二は溜息をついた。がっかりしなかったと言ったら、嘘になるだろう。
「なによ。会った瞬間に溜息つかなくたっていいじゃない。愛しの人じゃないからって。」
彩が憤慨した。
「ご、ごめん。って、愛しの、って…」
言われた言葉に戸惑った。噂はあったものの、恋人同士であることは、彼女は知らないはずだ。
「ちゃーんと知ってるんだから。まぁ、真里に吐かせたんだけど。」
「真里に?」
「お、早くも名前で。こりゃアツアツだね。」
「う、うるさいなあ。」
口を尖らせていると、彩が突然耳元にささやいてきた。
「例の件は、大丈夫です。」
「了解。」
二人は軽くウインクした。万事満タンのようだ。祐二と彩には、ある計画があった。
「ゆ、祐二?」
真里の声がした。祐二は驚いて軽く飛び上がってしまった。
「まっ、真里!お、お、おはよう。」
慌てて挨拶をして、手を振った。真里が寄ってきた。
「おはよう。どうしたの?」
「い、いや。なんでもないよ。」
祐二の動悸は止まらなかった。危うくばれるところだった、という驚きと、そしてもちろん、再会の喜びだった。
「うー。」
疑わしげに見つめる真里に、祐二はたじろかざるをえなかった。ようやく、真里に焦点が合ってきた。白い薄手のワンピースを着ていた。その上に描かれるなだらかな曲線を前に、祐二は少しどぎまぎした。顔が赤くなってはいないかと不安になって、祐二は慌てて目をそらし、話を切り替えた。
「冨原は、知ってんの?全部。」
「え…あ…うん。」
慌てたように、躊躇いがちに真里は頷いた。上目遣いで申し訳なさそうにする真里は、ちょっとかわいかった。祐二はそれを見ると、彼女なら何でも許せると思った。源光庵のときと同じ、愛しさゆえの許容…
「ごめんね。でも大丈夫。彩の口の堅さは、私が保証するから。だから、今日は気兼ねなく過ごせるよ。」
そう言うと、真里は祐二の手を握った。いつになく積極的な彼女に、祐二は好意を抱いた。
 でもー
 でも、一人問題児がー
「今日は暑いと思ったら、原因は夏じゃなくて駅前でしたか。」
祐二は目をつむった。全くとんでもないスピーカーが来てしまった。誘わなければよかったが、彩を呼んでいる以上、男女バランス等を顧慮して、彼を呼ばないわけにはいかなかった。
 振り返ると、直哉がにんまりと笑ってこちらを見ていた。
「よう。遅かったな。」
祐二はいつものように手を振った。でも、彼がそのまま見過ごしてくれるわけもなく、
「しらばっくれてんじゃないよ。まったくもう。火のない所に煙は立たない、とはまさにこのことだね。二人で青春を満喫しちゃて。ま、遅れてきたかいがあったよ。」
そう言うと、直哉は繋がれた二人の手を見つめた。慌てたように真里が手を離した。
「いや。ま…は、原崎が転びそうになったからさ。うん。」
取り繕いようがないと思ったが、何も言わないわけにはいかないので、祐二は必死で頭を振った。
「マジ信じらんない。お前も知ってんのね。誰から聞いたのよ。」
彩が怒っていた。かなり不快そうな目で直哉を睨んでいた。考えてもみなかったが、どうやら二人は犬猿の仲らしい。
「あら、レディ。相変わらずの気短で。こっちは自分で調べ、自分で考えたんですよ。洞察力は学生のうちに鍛えないとね。さて、でもこれ以上は、馬に蹴られて死ぬかもしれないから、言及しませんよ。」
「ああ。頼む。っていうか、普通の直哉に戻ってくれ。」
「おう。わかったよ。何にも知らないってことにします。」
そう言うと、直哉は足早に駅に向かった。三人もあとについた。海までの道案内は、彼がしてくれることになっていた。夏休みとはいえ平日の午前九時なので、人は少なめだった。
「ねえ、なんで馬?」
真里が尋ねた。
「あいつの座右の銘は、人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ、なんだよ。」
言うのも恥ずかしかった。まったく、とんでもないやつだ。一樹を誘うこともできなくはなかったけれど、あいつは一年先取りの受験勉強をしているらしい。やむをえない。
「信じられない。あいつ。」
「まあ、仲良くやってくれよ。」
てんてこ舞いの海遊びになりそうだ、と祐二は呆れながら電車に乗り込んだ。

 電車の中で、真里は深刻だった。
 脳裏に駅前での彼の姿が蘇る。いや、彼と、彩の。
 何か耳元でささやいていた。至近距離だった。特別な関係なんじゃないかと不安になる。恋人関係であることを知っていたのを気にしていたし。
 電車のカタンコトンという単調な音が、真里の思考に一つの帰結をもたらした。
 もしかして、浮気?
 そんな疑いが生まれた。そして彼女の心の底に、重い静かな怒りが溜まり始めた。

 そんなことはいざ知らず、一行は海に到着した。
「うわぁ…きれいだね。」
着くやいなや、うっとりした声で、思わず祐二は声を漏らした。
「うん。」
三人も応じた。
 入道雲を背景に、水平線がまっすぐ伸びていた。眼前には小麦色の海岸が広がり、人々がそれぞれの海を満喫していた。その白い世界の端っこでは、薄青い海の水が大地と海を隔てている。夏の日の光は燦々と降り注ぎ、波打ち際に白い光を点々とさせていた。
 一行の心を動かしたのは、景色ばかりではない。ザアザアと打ち寄せる波の音、懐かしいような海の匂い、海辺の喧騒とカモメの声も、彼らの心を沸き立たせた。
「結構人がいるね。それに、広ーい。」
彩が楽しそうにはしゃいだ。
「乙女チックな一面もあるんだな。」
嫌みっぽく直哉が言った。電車の中でも、ずっと小声で論争していた。もう少し人選に気を遣うべきだった、と今さらながら祐二は後悔した。
「もうやめようよ。せっかく来たんだから。」
真里が制してくれる。誘っている側としては、非常に申し訳ないような気がした。
「とりあえず、着替えようよ。」
そう言うと、一旦男女に別れて、海の家の更衣室へ行った。
 水着を着ているとき、直哉の尋問は熾烈だった。
「なあ、お前、いつどうやって告白したんだ?」
最初は、そんな質問だった。
「いつって…七月かな。」
「ってことは、まだ一ヶ月?おおお。初々しいねえ。」
「ジジくせえんだよ。」
「デートは、たくさんしたか?」
「デート?いや、あんまり…」
「じゃ、付き合ってても意味ねえじゃねえか。」
「いや、お互い好きってわかってんのと、わかってねえのとでは…って何を!」
いつの間にか心の奥底のことまで話しそうになって、急いで口を塞いだ。直哉と話すときは、本当に油断できない。
「なぁ、それで、どこまでいったんだよ。」
直哉の声が、突然ひそひそ声に変わった。ろくでもない話題だと祐二は察した。
「どこまで?」
直哉の真意を探る。いったい、どんな意図で聞いているんだろう。
「だから、手は繋いだか?」
「おう。それくらいはな。」
「噂でもあったしな。じゃあ、キスは?」
「…」
祐二は頬がかあっと熱くなるのを感じた。七夕の日の、柔らかい唇の感触が思い出される。
「なかなか進んでんじゃん。その先は?」
ハイテンションになった直哉が、さらに尋ねた。ウキウキとした、高らかな声だった。
「その先?」
鈍感な祐二は首をかしげた。
「だ・か・ら…夜、二人っきりになってさ…活気盛んな十四才。ねえ?」
ようやく察しが付いた祐二は、しばしのあいだ黙り込んだ。ちょっと官能的な妄想が行われた。直哉の言う通りで、彼も思春期の入り口だ。若気の機微を、直哉の言葉は少なからず刺激した。
「ねえ。まあとにかく、責任と秩序ある交際をね。うん。ふふふ…それと、色気もね。」
祐二は、妄想を停止し、拳を振り上げることにした。
 海に出ると、まだ二人は来ていなかった。借りておいたパラソルを設置して、二人の帰還を待った。直哉は拳が効いたのか、もう尋問はしてこなかった。海の風が二人の頬を打った。青い世界が、静かに揺れていた。平和な時間だった。
「お待たせー。」
彩の声がした。真里を伴って、海の家から二人が来ていた。祐二はドキッとした。
「なに?」
じっと見つめていると、真里が首をかしげた。
 すごく、きれいだった。オシャレな水着を纏うその少女に、祐二は魅入った。先ほど話をしたせいもあって、青空と彼女の境に生まれる優美な曲線は、祐二の目を離さずにはいなかった。祐二は、胸の奥がかあっと熱くなるのを感じた。
「どうしたの。」
「い、いや…その…き、きれいだね。」
真里の詰問を前に、祐二は思わず本音を言ってしまった。恥ずかしくなって、真里から目をそらした。予想通り、直哉が面白そうにこちらを見ていた。
「あ、ありがとう。って、ちょっと恥ずかしいよ。」
真里は恥ずかしそうに俯いた。何十人もの女性がこのビーチにいたが、自分には真里しかいない、と祐二はこのとき思った。こんな互いに素直になれて、互いを受け止め合える人は、他に無いだろうと思った。
「真里の代弁をするよ。エッチ!変態!」
彩が言い罵った。祐二は目が覚めたようになって、ごめん、と真里に手を合わせた。
「めんどくせえよ。行くぞ。」
直哉が立ち上がって、先に海へと歩いた。祐二はその背中に、心から感謝した。
 四人はビーチボールや砂遊び、泳ぎ競争などをして楽しんだ。水を掛け合ったりするたび、真里と彩はきゃあきゃあと叫んだ。その姿に微笑んでいると、二人の反撃を真っ正面から受けて、祐二と直哉は死にかけた。
 遊びが終わるころになると、もうすっかり身体が重かった。
 特にビーチバレーでは、祐二と真里、直哉と彩に分かれて勝負したため、非常に大変だった。最初は良かった。祐二は、真里の前では格好良く、と必死で戦っていたため、優位に立っていた。しかし次第に彩の機嫌が損なわれ、最終的に直哉が恐喝されるはめになった。直哉の命がけの抗戦もあって、結局引き分けで終わってしまった。祐二は、真里にいいところを見せられず、少し物足りない気分がした。
 日が傾き初めて、四人はパラソルに戻った。疲れた人が定期的に戻っていたため、パラソルの下に準備しておいた飲食物もいつの間にか底をついていた。
「あんたが食べたんでしょ。」
と彩が鋭く直哉を睨むと、直哉は、
「誰かが運動させてくれたんでね。」
と応じた。こんなやりとりがずっと繰り返されていて、むしろ祐二には二人がカップルのようにさえ見え始めていた。
 一方、祐二は自分の伴侶に、少し違和感を抱き始めていた。何となく自分とふれ合うのを躊躇しているような、そんな感じがした。しかしその違和感はかなり漠然としていたので、真意を確かめることもできなかった。
 大丈夫、今夜は、そんなことはどうでもよくなるだろう
 祐二は思った。
 真里がトイレに行ったのを見計らってから、祐二は彩に尋ねた。
「例の件は、大丈夫だね?」
小声で耳打ちしたら、彩は頷いた。
「万事OKだよ。」
満足げだった。祐二はほっと安心して、心地よい疲労感に身を任せた。太陽がいつの間にか水平線にくっついていた。まもなく一日が終わる。
 楽しかった。
 これから大事を為そうというのに、祐二はすっかり一日を回想して、夕日に魅入っていた。紺碧の空と薄青い海を、夕日は一気に茜色に染め上げてしまう。不思議だった。
「ただいま。」
真里の静かな声がした。すっかり疲れてしまっているのか、小さな声だった。
「おかえり。見て。きれいだよね。」
祐二は夕日を指さした。真里がじっと夕日を見つめた。漆黒の瞳が、温かな赤色に変わった。蛍の祭典の時のように、自然と手が繋がっていった。一日海で遊んでいたのに、その手のひらはとても温かかった。
「きれい。本当に。」
真里はつぶやくように言った。
 四人は、しばらくの間、水平線に沈む陽に魅入っていた。楽しい一日が終わってしまうというのに、ちっとも寂しくなかった。大好きな人と見る夕日って、こんなにきれいなんだ、と祐二の心は揺れた。
 真里も同じく、夕日に心を奪われていた。
 しかし、彼女の胸の内では、駅で集まった時はとりとめもないほどのものだった不快感が、少しずつその大きさを増していた。自分の愛が増していくにつれ、話題こそ知らないものの、祐二と時を共にしていた彩に、強い嫉妬が芽生え始めた。その重苦しく偏屈な憎悪を一瞬真里は胸中に感じ、夕日に溶けきっていた彼女の心を、不安と怒りの世界へと陥れてしまった。
 夕日が沈んで、夜になった。
 夕食を取るべく、四人は近くのレストランへ向かった。海が見渡せる品のいいレストランで、直哉が調べたところだった。
 海が見える窓側の席に四人は座った。繁忙期も顧慮して、メニューはあらかじめみんなで予約してあった。ただ一つのメニューは、その中でも特別だった。
 食事が来るまでの間、四人は海を見て過ごすつもりだった。だがどうしても祐二も彩もそわそわした気持ちを隠せず、目をあちらこちらに向けたり、足を揺すったりした。
 そんな中、祐二は、真里が黙り込んで俯いているのを見つけた。振り返れば、今日はずっとそうだった。とってつけたような笑顔を浮かべて、心はどこか遠くに行ってしまっているような。動作は全く変わりはなかったけれど、それでも、祐二にはわかった。
「どうしたの。真里。元気ないよ。」
祐二はついに尋ねた。そして、机の上に置かれた、ほのかに赤い手に触れようとした―
 が、その手は振り払われた。
「真里?」
「うかつに触らないでよ。」
真里はそう言った。
 唐突な拒絶に、祐二は困惑するばかりだった。真里は続けた。
「愛想つかせたならはっきりそう言ってよ。」
思ってもみない言葉がぶつけられた。真里の頬が小さく震えていた。よっぽど怒っているのだろう。決して絶やすことのなかった笑顔も、今は憤った表情へと変わっていた。
「どうして?」
「知ってるんだよ。今日一日ずっと、彩とこそこそ話をしてて。私と目が合うたびに、拒むみたいにして。飽きたならはっきりそう言えばいいじゃない!」
真里の言葉は静かだったが、迫力があった。その威圧に、祐二はすっかりまいってしまった。自分がこんなにも彼女を追い詰めていたのだ、と、自責の念にかられた。ごめん、という言葉も出せなかった。
 周りの乗客が、怪訝そうにこちらを見ていた。海と時計の針の音が、残酷なまでに耳に響いた。
 そんな折り、直哉が言った。
「これは、腹が減ったな。」
「そうね。お腹が空くといらいらするし…」
彩も続いた。
「私は別にお腹が空いているわけじゃ―」
「お願いします。」
直哉が店員に合図した。祐二は心の栓が取れるのを感じた。照れくささと申し訳なさで、真里を見ることはできなかった。
 そしてついに、例の物が運ばれてきた。
 真っ黒に焼けた店員が、笑顔を浮かべて持ってきたのは―
 バースデーケーキだった。
 真里は唖然としてそれを凝視していた。今度は、真里が驚く番だった。
 ずっとずっと前から、祐二達はこの計画を立てていた。誕生日を幸せに、といい観光地を探し、レストランを探し、予定を明け、いろいろな口実を考えた。
 何週間も前から、ずっと―
「十四歳おめでとう。真里。」
祐二は真里のように微笑んで、静かに言った。からかいも、謝罪の意志もなにもない、ただ純粋な祝福の言葉だった。
「え…だって…ねぇ…祐二…彩…直哉…」
真里の震えは止まらなかった。祐二は静かに打ち明けた。
「真里の誕生日を冨原から聞いてさ、この計画を立てたんだ。いつもの笑顔のお返しに、めちゃくちゃ驚かせて、喜ばせてあげたいって。でも、結果的に真里を傷付けることになっちゃって。ごめんね。もう一度言わせて。ずっと言いたかったんだ。誕生日おめでとう!」
言い終えるやいなや、真里は泣き出してしまった。
「祐二…うっ…うっ…ありがとう。みんな。ごめんね。怒ったりして…私…うっ…私、バカだよね。ありがとう…」
 直哉と彩が、躊躇いがちに微笑むのがわかった。
「でも、なにか言ってくれれば良かったのに…」
「私の口の堅さは、真里のお墨付きだからね。」
彩が楽しげに言うと、真里は居心地悪そうに微笑んだ。
「冨原、俺、浜に忘れ物しちゃってよ。一緒に来てくんないか。」
「わかったわよ。淑女の涙には、愛の手が必要ね。」
「門外漢は、何も言うな。」
二人は店を出て行った。ありがとう、と祐二は心で言った。
 二人きりになった。祐二はそっと髪を撫でると、今度こそ真里の手を握りしめた。
「真里。落ち着いた?」
息切れしているけれど、涙は止まったみたいだった。
「うん…ありがとう。祐二。すっかり飽きちゃったのかと思って、私…」
「飽きたりするわけないじゃないか。実を言うとさ、会うたびに、どんどん好きになってくんだ。大好きなんだよ。真里。」
「祐二…」
「それに、ちょっと嬉しいかな。」
祐二はちょっと悪戯っぽく言った。真里が首をかしげている。
「友達に嫉妬するくらい、僕を想ってくれてたんでしょ?」
突然、真里が真っ赤になった。耳の先まで、絵の具で塗ったのかと思うくらいに。
「はっ。恥ずかしいよ…」
「そうじゃなかった?」
追い詰められて、真里は俯いた。意地悪しすぎたかな、と祐二が言葉を探したときだった。
「そんなの…決まってるじゃない。好きだよ。祐二のこと…すっごく…」
「ありがとう。」
二人は固く手を握り合った。と、その時だった。
 ドーン
 お腹の中まで響いてくる、懐かしい音が聞こえた。窓を見ると、真っ赤な花火が打ち上がっていた。浜を見下ろすと、いくつか屋台が並んでいる。
「花火…?」
「奇しくも、花火大会のようだね。」
「これも?」
「もう、そういうのなしにしようよ。せっかくの夏祭りなんだからさ。」
祐二は笑って、真里の手を握りしめた。
 ケーキを食べ終えて店を出ると、携帯が震えた。直哉からだった。
 『勝手に遊んで先に帰る。』
 いい友達を持った―祐二はなんだか嬉しくなった。
「花火を見ると、なんだか懐かしい気分になるんだよね。」
と、真里は言った。夏の夜空には金色の花火が浮かんでいた。どうやら花火大会も佳境のようだった。色とりどりの炎の花が、巨大な空のキャンパスへと打ち上げられる。それは、増幅した二人の恋を祝福するかのように、空を彩っていた。
「うん。僕も。」
なんだか、少年時代に自分が投影されるような、そんな気がする。
「でもね。それが怖いんだ。無垢なころを懐かしんじゃってる私がいる。夢に満ちていたはずの将来に、うすらうすら不安が見え始めたんだ。」
「わかるよ。」
子供とも大人とも、どこか違っている自分がいる。何にもなり得ない自分がいる。行き場さえわからない自分がいる。大人はいろいろな名前を付けてそれを呼ぶけれど、どれもなにかがずれている。変わっていく自分が、不安でたまらない。
「夏も終わっていくんだよね。」
切なげに、真里が言った。気持ちはわかる。夏の喜びに溶けきれない。終わる瞬間への恐怖が必ず頭に入ってくる。
「夏の終わりって、他の季節と、何かが違う気がする。」
そう言うと、ドーンと大きな花火が上がった。いよいよフィナーレだった。暗黒のはずの世界が、金色に染まっていく。人々の心も、同様に。
「たぶん、秋の短さや、冬を知っているからだよね。凄く、切ない。」
真里の瞳に、また涙が浮かんだ。これ以上、悲しくなってしまわないよう、真里の肩に手を回した。これ以上、寂しくなってしまわないよう、祐二は話した。
「僕さ、小さいころ、お祭りが終わっていくのを見て、悲しくなって泣いてたんだ。公園がだんだん静かで真っ暗になっていくのが、どうしても嫌で。母さんが困ってたから、町会長さんに怒られちゃって。僕、本当は弱虫なんだ。
 それでも、君と一緒にいると、終わりは切なくても、ちっとも寂しくない。真里が大好きなんだ。すごく気持ちが温かくなる。僕たち、ずっと一緒にいよう。」
「うん。私も大好き。ありがとう。」
真里はただただ、祐二の肩で泣いた。祐二はその間、ずっと手を握っていた。祐二もまた、瞼の奧が焼けるように熱くなっていたが、必死で堪えた。二人でいるときは、悲しい涙は流したくなかった。
 花火大会は終わって、次第に静かな波音が耳に届き始めた。見上げると、無数の星が夜空に浮かんでいた。もうそろそろ、帰るころだ。
「あっ。流れ星!」
真里が叫んだ。
「あっ。また。」
今度は祐二も見つけた。星空が一瞬瞬いた。二人は見つめ合った。
「願い事は、叶ってるからいいよね。」
 手を繋いで、二人は駅に向かった。曇りなき星々を眺めながら。
 天気予報は、曇りのち晴れ。 
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