虹との約束
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第一部
第一章
衝突
前書き
恋するものには必ず、立ちはだかるものがあります。
それは、自分の葛藤だけではありません。
数日が経った。
祐二は今も覚えている。
二人が交際を躊躇したのは、後にも先にも、この事件だけだった。
そのころ、もう二人の仲は親しくなっていて、希に一緒に家に帰ることもあれば、休み時間に話すこともあった。
祐二が危機を知ったのは、六月の末の、掃除の時間だった。
「祐二、やばいぞ。」
掃除ロッカーから箒を取っていると、直哉がひそひそと話しかけてきた。
「どうしたんだよ。」
「しーっ。」
直哉が小声で話すよう促した。
「お前が原崎と付き合ってるって噂になってるぞ!付き合うことに問題はないけどよ、みんな思春期だ。嫉妬には気をつけろよ。」
直哉が軽く叩いてきた。急な忠告に、祐二は右往左往してしまった。
「付き合ってなんかなっ…」
「それは噂を広めた奴に言え。じゃあな。」
そう言うと直哉は足早に立ち去った。
「えっ…ちょっ…待っ…ってええ?」
祐二は困惑した。どうしろというのだ。迷惑きわまりない。これで彼女に避けられたら、と思うと、祐二は限りなくショックだった。
だが、掃除をしている最中、確かに周りの目は鋭かった。それは今の今まで、普通に見えていたのに。祐二は、錯覚であることを信じたかった。そうだ。変なことを聞いたからだ。しかし一方で、素直に情報社会が生んだ噂の伝達力は恐ろしいと思った。しかも決まって、それは悪用される。
そんな中、決定的な出来事が、噂を祐二に確信させた。
その放課後、真里が一緒に下校するのを断ってきたのだ。
「ごめんね。今日、部活が入っちゃって。」
祐二は耳を疑った。その日は真里の部活は休みのはずだった。しかし驚いたのはそれに対してではない。噂を知ったその日に、そんなことになったことだ。
「今日、部活の日じゃ…」
「緊急なの。ごめん。それじゃ。」
祐二の言葉を遮って、慌てたように真里は廊下を走っていった。いつもと様子が違う。笑顔は笑顔でも、とってつけたような笑顔だったうえ、なにか、不安なような感じ。
まさか、真里も噂を聞いているのか?
そんな疑念が脳裏をかすめた。それでも祐二はかたくなに、偶然と錯覚の方を信じた。
が、それさえも、帰り道に裏切られた。
家への一本道で、彩の背中を見つけたのだ。
彼女は、祐二や真里と同じクラスだ。それはいい。
彩の友達でもある。それもいい。
だが、彼女は、真里と同じ部活だった。
おかしい。
頭がくらくらした。ほのかな絶望感さえも感じた。路地には燦々と、夏の香りを帯び始めた日の光が差し込んでいたが、祐二の胸は凍てついていた。
それでも祐二は現実を受け入れられずに、いつのまにか彩に声を掛けていた。
「冨原さん!」
彩は速やかに振り向いた。
「あ、井原君。」
彩は短く応じた。怪訝そうな顔で、彼女は祐二を見た。
「なんでここにいるの?」
祐二は唐突に尋ねて、期待に応える答を待った。
「へ?」
「部活はどうしたの?」
「は?」
祐二の不安はどんどん色濃くなってなった。
「だから、部活。」
「今日は休みだよ。」
祐二は、唖然とした。すがるように、彩を尋問した。
「緊急じゃないの?」
「ありえないよ。」
「どうして?」
「今日、顧問は不在だもん。会議があるんだ。」
「そんな…」
祐二は彩の肩を揺すってでも、『ある』と言わせたかった。血の気が引くのがわかった。
「どうしたの。井原君。っていうか、どうして一人?」
彩は、何か含ませたような口調で尋ねた。どうやら、彩も知っているようだ。
お終いだ。
答えようとしても、口が動かない。喉が渇ききっていた。
「私、帰るよ。」
彩は不機嫌そうに去って行く。無理もない。いきなり尋問されて、突然固まられて。
彩の後ろ姿が小さくなっても、祐二の心はただただ空漠としたままだった。真里と過ごした時間が、永遠に遠くなっていくような気がした。
ああ、もっと周りに注意するべきだった。まだ、告白もしてないのに。
祐二は激しい悔恨の情にかられた。梅雨時のじめじめした空気が、それをいっそう増幅させた。
次の日、事件は起きた。
掃除の時間だった。二人は同じ班だったこともあり、視線が合うたびにそらすようなことを繰り返した。夏の入り口で、ただでさえじりじりと蒸し暑いその教室では、一触即発の空気が漂っていた。
祐二は、周りの目を気にしすぎてしまった。そしてついに、祐二を見ていた少年に、自分から声を掛けてしまった。しかもその少年は、長浦というやんちゃっ子だった。墓穴を掘ったに他ならなかった。
「なんだよ。」
本当に、短い言葉だった。しかしそれでも、疑惑と静寂に充ち満ちた教室の注目を集めるには十分すぎるほどだった。
「なあ、お前と原崎、付き合ってるんだって?」
ついに!と祐二は思った。想像以上に単刀直入な問いに、祐二は呆然とした。そしてまた彼は、その噂が、もう彼にはどうしようもない段階にまで達していることを悟った。
「付き合ってなんかいねえよ。」
慌てて彼を払いのけた。覚悟はしていたものの、やはり祐二には戦慄が走った。長浦の囁き声はクラスの者には聞こえないレベルだったけれど、クラスの視線から、彼らの情報と意図は統合され、共有されていることは一目瞭然だった。
「嘘言うなって。」
追うように長浦が言及した。背後でクスクスと笑う声がして振り返ると、そこには女ボスと裏で呼ばれている天野がいた。
「何だよ。」
祐二は思いきり睨み付けた。ここで負けたら、終わりだと思った。
「私見たもん。あの幽霊屋敷で二人が手を繋いでたの。」
彼女がそう言った途端、掃除担当の女子達がひゅうひゅうと声をあげた。真里を除いて、全員だった。天野の恐ろしさは、こういうところだ。祐二は自ら、クラスの裏大将の手中に飛び込んでしまったのである。
「ずっと一緒に話してただろ?」
長浦が肩を揺らす。祐二は絶望して、何も答えずにいると、
「どうなの?原崎さん?」
わざと“さん”を付けて、いやらしく天野が聞いた。そう、矛先がついに、真里に向けられたのだ。
「えっ、私は…」
真里が言葉を濁した。無理もない。否定的に応じれば祐二が傷つくと、応じるにも応じられないのは当然のことだ。
もう、祐二は耐えられなかった。自分のせいで、自分に関して、思いをよせるひとを危機に追いやっている。
真里が危ない。
真里が危機だ。
祐二の中で、警報器が作動した。そしてそれは、あらゆる障壁と躊躇を決壊させた。
「お前らいい加減にしろよ!クラス中に変な噂広めてんだろ!」
祐二は皆を睨み付けた。これでもかというほどに、鋭く睨み付けた。
しかし相手とて、そう軽い連中ではない。
「だって二人きりで一緒に、手を繋いでたんだろ、こりゃあ確実だろ。」
長浦が笑う。その笑いで、祐二の怒りは爆発した。その熾烈さゆえに、頭痛さえ生じた。
「何だよお前ら。一緒にいただけで。何が付き合うだよ。バカにしてんじゃねえぞ!お前らが勝手に自閉して、取り残されないために、人を取り残してるだけじゃないか!」
祐二は激昂した。悪戯な笑みも、言葉も消えて、教室が突然静かになった。クラス中が、まるで爆弾でも見るような慄然とした目でこちらを見ていた。そしてその目には、微かだが確実に、差別や嫌悪の情もが湛えられていた。祐二は、全てが不快だった。この複雑な空気。自分が異端の人となったことが、痛烈なまでに感じられた。
静寂の中、清掃は続けられた。何気なく報告を済ませ、誰一人沈黙を破らずに帰った。その間、祐二は一瞬怒ったことを後悔した。が、もしそうしていなかったら?真里を詰問の嵐が襲っていていたことだろう。やり場のない不確かな後悔を、祐二はいたずらに抱えることとなった。
それから数日の間、二人は離れて過ごした。
そしてある日の夜中、突然に彼女からメールが来た。耳に懐かしい携帯のバイブ音に、祐二は若干の緊迫と歓喜を感じた。しかし、最愛の人からのメッセージは…
「この前はかばってくれてありがとう。私のせいだよね。ごめんなさい。
みんなの誤解が解けるように、私頑張るから。本当に、ごめん。
学校では避けちゃってるけど、祐二は大切な友達だから。それは忘れないで。
今度、二人だけの時に、ゆっくり話そう。」
それで終わっていた。
祐二の涙が一粒、小さな携帯電話へ落ちた。
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