乱世の確率事象改変
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黒麒麟の右腕
――――――許さぬぞ
真暗な場所の中心にて、昏い怨嗟の瞳を携えながら目の前に立つ一人の女が呟く。
――――――まだ気付かないではないか
その声はあらゆる負の感情を表すかと思うほど重く、冷たい。
――――――我らの想いはどこへ行く
彼女の後ろに現れるは自身に忠誠を誓う隊員達と今まで殺した髑髏の軍勢。燃えるような紅い光が数多の瞳と空洞の中に揺れている。
――――――返してよ
横を見ると眼鏡をかけた少女が涙を零しながら叫んでいた。
――――――こんな世界に生きていたくない
その隣に並ぶ白銀の髪を流した少女が虚ろな瞳で呟いた。
――――――騙していたのですか
逆から放たれるは燃えるような憎悪を叩きつける軍神の言。
――――――やっぱり悪い奴なのだ
純粋無垢な赤髪の少女は落胆の言葉を口にする。
幾多の人々が、多くの眼が、自分を突き刺す。
込み上げる恐怖に耐えきれず振り返ると一筋の光が見えた。あそこまで辿り着けば、あの場所まで行けば己はきっと救われる。
意識してか、それとも無意識か、自然と脚は地を蹴り、ただ逃げ出すように走り出した。
しかし迫りくる膨大な感情の渦は、黒い津波となりて己を呑み込まんと追い立てる。人の津波の中、全ての顔に三日月型に開いた口を携えて。
どれだけ逃げたか、どれだけ駆けたか分からない。呑まれずにやっとの事で辿り着いた先にはいつも己を支えてくれた一人の少女と、三人の心許せる友が立っていた。
安堵が心を包み、ほっと息をついて皆に話しかけようと近づく。友の三人はこちらに気付かないのか何故か俯いたままであったが、少女だけは己に向かって一歩踏み出す。
彼女は顔を上げ、涙を溜めた瞳は怨嗟の炎に染まっていて、ただぽつりと……一つの言葉を投げ渡した。
「嘘つき」
「……っ!」
跳ね起きた場所は自身の天幕、先程まで居た暗い場所ではない。痛いくらいの静寂が包むその場所にて、瞳から傍多の涙を零す彼の息は荒く、身体の下では膨大な汗が寝台を濡らしていた。
脈打つ心臓の鼓動と心に圧し掛かる恐怖と絶望からか、彼は片手で胸を抑え付けて頭を垂れた。
震えるもう一方の手で掛け布を握りしめ蹲るその姿は、何かに祈るようにも、許しを請うようにも見えた。
「……うぅ……っ!」
込み上げる吐き気を抑えきれず掛け布に腹の中身を全て戻すと、汚れる事も意に返さずに彼は蹲ったまま、嗚咽を漏らしながら震え始めた。
†
昨日の酒か先ほど見た夢によってか頭痛が酷い頭を押さえ、汚れてしまった服を着替えてから自身の天幕を出た秋斗は、気付けのために陣内を歩いていると最も信頼を置く部下を見つける。その男の厳めしい顔付き、巨大な体躯、盛り上がった筋肉は見たモノ全てに威圧感を与える事が予想される。
「副長、おはよう」
副長と呼ばれた男は後ろから掛けられた声に振り向き、秋斗の姿を確認してから軽く会釈をする。彼の身体では軽くといっても人より大きな動作に過ぎるだけだが。
「おはようございます、御大将。……昨日の夜に何かあったんで? ひでぇ面してますが……」
顔を上げて自分の主を良く見ると、余りに生気の無いその表情に違和感を感じ、思わず敬語も使うことが出来ずに疑問の言葉が口を突いて出た。
戦の後にはいつも心を痛め、自身を責め抜いている事は知っていたが、さすがに今回ばかりは異常すぎて看過できない。
「気にするな。少し深酒が過ぎたのか眠れなかっただけだ。星の酒好きは知っているだろう? それよりも昨日の夜は隊の指示をお前だけに任せて悪かった。後、今日の洛陽に配置する人選だが―――」
一つ謝った後、いつも通りに自分達の仕事の話を説明し始める主の話を聞くが、やはり感じ取れた違和感は拭えない。
主の友が大の酒好きである事は幽州にいる時から分かっている。しかし原因はそれではなく、もっと精神的な何かである事は人の心の機微に疎い自分でも簡単に理解出来た。
淡々と説明を続ける主の言葉はいつの間にか自身の耳には届いておらず、何がこうなった原因かと思考を巡らせ続けてしまう。
「―――ってな感じで行こうと思う。……副長?」
「……っ! 呆けておりました! 申し訳ありません!」
己が主の呼びかけにハッと思考の迷路から現実に引き戻され、説明を聞き逃していた事を謝罪する。
「……謝らないでいいよ。それよりこちらこそすまん。俺はどうやら嘘が下手らしい。心配してくれてありがとう」
本来ならば侵すはずのない重大な失態を起こしてしまった副長に対して、ふっと微笑み礼を口にする彼の表情は少し穏やかだった。
他人の心が読めるのではないかと思うほどに人の機微に聡い彼は、共に過ごしてきた時間とお互いに寄せる確かな信頼から副長の心の内を見透かし、今回のような失態を責める事はない。
「あんまり無理すんじゃねぇよ。御大将、憂さ晴らしくらいは付き合うぜ?」
それに対して副長はおよそ自身の主に向けるべきではない話し方で気遣う。部下としてではなく人同士の付き合いの時は口調を砕いていいと言われていた。故に副長は戦友として、一人の男として彼に優しく話す。
そしてそれ以上何も言わないのは彼の事をよく分かっているからこそ。
確かに人に頼るのは信頼の証だろう。全く頼らないのは人によっては心の繋がりが薄いと取られかねない。だが彼の場合は違うと言える。何も話さないからこそ、自身で抱え込むからこそなのだ。信じていない、のではなく信じて欲しい。それが不器用で優しい彼の信頼の証明。
副長はそれを分かっているからこそ何も聞かず、ただ自分が出来るであろう事を提案する。
秋斗は言われて目を丸くし、次に遅れて苦笑が漏れ出る。
「クク、いつも世話になるな。だが平原に帰るまでは俺の無理に目を瞑ってくれ。帰ったら……そうだな、隊の皆で何か気晴らしでもしようか」
「あんたはホントに……了解いたしました」
「ありがとう。ではもう一度説明する。今日の―――」
二人には多くの言葉はいらない。語らずともお互いの心は分かっている。
秋斗と副長は微笑みを携えながら互いのすべきことを確認し、それぞれ二手に分かれて眩しい陽ざしの中、徐晃隊に指示を出すために動き出した。
†
兵に指示を出し続け日輪が中天に輝く頃、捕虜として軟禁していたが御大将の侍女として働く事になった二人の少女から昼食を配給され、それを味わいながら己が主との今までを振り返っていた。
最初は気に入らなかった。ひょろいくせにたっぱは俺と同じくらいで、いきなりやってきて、
「えーと、俺は徐晃、徐公明という。これからお前さん達の隊長をやらせて貰うからよろしく」
なんて事を口にした。
しかし御大将の指示する訓練は的確で中々だとは思った。いう事など聞くかという態度の俺達にもビビらずに諭してきた。
だがもっと気合を入れとくべきだったな。あんたの受け持つ隊は荒くたい俺の仲間がほとんどなんだからこっちは屁でもねえぜ。
そんな事を考えながら適当に流し、訓練が終わると落ち込んでいた御大将に張飛様が近づいていった。
関羽様が続いて近づき……なんと勝負を挑みはじめた。しかしその時の御大将はビビッて逃げ腰。確かに関羽様と勝負などできる男はいるはずもなかったが。
ビビっている御大将に趙雲様と張飛様が焚き付け、遂にキレた御大将は関羽様に対して簡単に倒せるような口ぶりで逆に挑発し返した。
身の程を知れよバカが。その時は周りの誰もがそう思っていた事だろう。
戦いが始まり……俺達は驚愕する。二人は見るモノ全てを魅了するように舞っていた。
関羽様は力を抜いているのは見てとれたが御大将はそれに余裕で合わせ、さらには涼しい顔で互いに力を確かめ合っていた。
「おい」
いきなりの声で舞は途切れ
「お前、本気だせよ。じゃなきゃ負けるぞ」
御大将から放たれた言葉でその場の雰囲気が一瞬で重厚なモノに変わった。
ゆっくりと剣を上げ水平に構え、離れて見ている自分でさえ寒気が抑えられなかった。そこには人を殺さんとする者が放つ気が収束し、少しでも動けば自分が殺されるのではないかと錯覚するほど。
関羽様の身体からも同等の気が放たれた途端に先に移動し突きを放っていた。関羽様はそれを紙一重で避け試合では使うモノではない速さの斬り上げを放つ。
長く続いたがそれはもはや殺し合いだった。美しく、力強く、相手を死へと誘う舞。
激しく大きな金属音が響き二人は離れ、その表情を確認すると……なんと笑っていた。
男がそこまで戦えることに俺の心は歓喜に震えた。
戦が途中で止められ、俺と俺の周りの奴らは一斉に膝を着いた。皆気持ちは同じだったんだろうな。
「我らはあなたと共に戦いたい。その武に我らは従いたい」
自然と口からそんな言葉が漏れていた。
御大将は俺たちを見回し、優しく微笑んで俺達の犠牲を減らすために共に強くなろうと言った。
本当に変な人だ。正義の為でなく、戦いに出るのに自分の命を大事にしろと言うなんて。だが何故か凄く惹きつけられた。
一番重要な出来事は初めての賊討伐の事。
ビビってるかと思ったら案外大丈夫そうで、行く道でも普通の様子に見えたが、行き先の村から煙が上がっているのを確認するやすぐに助けに行こうと急き始めた。
しかし逸る心を無理やり押し込んで幼女軍師様から指示を聞いて、口上とは思えないような粗雑な言葉を放って俺達を率いた。
戦場を抜けて行くうち、俺は始めて心の底から恐怖した。圧倒的な死を手渡す狂気に。
普通の奴なら笑って殺す。殺人の狂気に愉悦を見出すはずなのに御大将はただ無表情で淡々と作業を繰り返していた。
斬る度に心が冷えていっている。あの方は壊れかけている。安穏な暮らしをしてきた人にはきつすぎたんだ。優しいあの方の心はもう戻らないかもしれない。
そんな不安が心を満たしたまま戦が終わり、鳳統様が広場にやってきた。
泣きじゃくる少女を抱きしめる御大将の瞳には覚悟の光が宿っていて、俺はその奥に呑み込まれた。その瞳には昏い炎ではなく透き通った想いが宿っていた。
村を出て、賊の拠点を制圧し終わった後、何故か俺達だけ集められた。
「お前らに問いたい。それぞれ守るモノはあるか?」
御大将の言葉に全員が頷く。皆それぞれが何かを守りたいから立ち上がったのだから。
「そうか、命を捨てる覚悟もあるのだろう。ならば俺の想いを聞け」
そう言うと大きな声で語り始めた。
「俺はお前らにこれからも人を殺せと命じる。この腐った世の先に平穏を作るためにお前らを人を殺すクズになれと駆り立てる。その責は全て後の世の平穏にて贖おう。死の淵に立った時、俺を憎んで、怨んでくれ。途中で果ててしまう者もいる、投げ出す者も出るだろう。だが平穏を願う意思は全ての者が持っているはずだ。殺された賊でさえ本来なら幸せに生きていたかったはずだ。ならばその想い、全て俺が連れて行く。乱世に咲く想いの華を集めて平穏の世に供えよう。俺は、平穏に生きたかったという想いを繋ぐために戦う。お前達はどうする! どうしたい!?」
その語りは雷鳴の如く俺の心に響いた。
「俺の心はあなたと共に!」
気付けばそう叫んでいた。皆も口々に声を上げ、心は一つだった。
「ならば心に刻め! 乱世に華を! 世に平穏を!」
『乱世に華を! 世に平穏を!』
俺はその時心の底からの忠誠を誓った。彼こそが俺が掲げるべき御大将であると。御大将のためなら俺の命を捧げられる。
遥か昔の事のように感じて懐かしんでいるといつの間にか自分の昼メシは無くなっていた。
ここまでいろいろあった。長きにわたる黄巾との戦でも、旅立ち、別れを告げる数多の仲間から想いを託されてきた。
今回の戦に於いてもたくさん犠牲になった。もはや俺達は立ち止まることなどできやしない。
俺に出来る事は御大将が壊れないように、少しでも負担を減らせるように動くだけ。
あの方のマネをして似合わない敬語も覚え、寝る間も惜しんで兵法を学び、何度も言われた事を復習して知識と経験を高めてきた。
ひたすら突っ走っている内に副長に任命され、その時は泣いて喜んだ。真名は預けているが俺はいついかなる時も右腕でありたいがために副長と呼んでくれと願い、それも受け入れてくれた。
きっとこれから先もずっと変わらない。
「副長、昼は済ませたみたいだな。午後からは徐晃隊に休息を与えるからお前もゆっくり休んでくれ」
「御意」
後ろから掛けられた声にゆっくりと立ち上がり、一つ会釈をして返答を口にする。
願わくば、この乱世の果てに御大将の望む平穏のあらんことを。
願わくば、強くて弱い、優しい彼にも安息の日々を。
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