銀河英雄伝説~悪夢編
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第三十九話 赤かったから吃驚したよ
帝国暦 488年 8月 25日 帝国軍総旗艦 ブリュンヒルト エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
目の前にガイエスブルク要塞が有る。この要塞を囲んで既に二日が経った。降伏勧告を一度出したが未だ返答は無い。アンスバッハ、シュトライトの二人はブラウンシュバイク公の説得に手間取っているようだ。もう勝敗は決定したのだがな。
あの大勝利の後、辺境を除けば戦いらしい戦いは起きていない。ガイエスブルク要塞を包囲しても敵が出て来る様子は無い。もう戦えるだけの戦力は無いのだろう、多くの貴族が逃げ去ったようだ。彼らがフェザーンを目指したのだとすれば賢明な選択だと言える。
馬鹿な奴は自領に戻ってリヒテンラーデ侯に命乞いをしているだろうな。無理やり誘われて本意では無かったとか弁明しているに違いない。そんな事で許されると思っているのなら愚かな話だ。弁明など多分一顧だにされずに終わるだろう。今からでも遅くはない、フェザーンに逃げる事だ。俺も許す気はないのだから。
オーディンではあの会戦以降、リヒテンラーデ侯に露骨に擦り寄る貴族が増加したそうだ。内乱の勝利者がリヒテンラーデ侯に確定したと判断したのだろう。これまでは普通の味方だったがこれからは積極的な味方にランクアップしようとしている。
リヒテンラーデ侯も上機嫌のようだ。エーレンベルクとシュタインホフは侯に対して臣従のような態度を取っているらしい。貴族連合が敗北し軍が自分に忠誠を誓っている、帝国の実権は自分が握ったと確信が出来たのだろう。リヒテンラーデ侯の一族もこれ見よがしに侯との関係を強調するようになったようだ。オーベルシュタインからの報告には聞き覚えのある名前が有った、コールラウシュとか……。
辺境星域の平定も終わりメルカッツ達もこっちに合流した。同盟軍とは一度シュタインメッツが戦ったが圧勝した。捕虜の映像を流し混乱したところを叩く事で同盟軍を潰走させた。相手に五割近くの損害を与えたらしい、同盟軍も分が悪いと見て撤退したようだ。約束を破ると痛い目を見るという良い教訓になっただろう。
トリューニヒト達も同盟市民への言い訳に大変だろうな、何よりも大切な支持率は急降下のはずだ。まあ内乱が終わるのを待っていろ、俺が捕虜交換を実施してやる。人道を全面に出してだ。そうすれば少しは同盟市民も喜ぶだろう。返還される捕虜の人数は大体三百万を超えるはずだ。
返すときにはお前達が彼ら捕虜を見殺しにしようとしたことをちゃんと教えておくよ、見苦しい嘘を吐かなくても済むように。彼らは帰るときには反政府感情に溢れた立派な同盟市民になっているだろう。でも俺の所為じゃない、お前達の自業自得だ。
捕虜達はお前達を恨む一方で俺に感謝するだろう。もしかするとお前達への好感度よりも俺への好感度の方が高いかもしれないな。お前達は心の中で俺を恨み、捕虜達に悪態をつきながらも表面では笑顔を浮かべながら俺に感謝するはずだ。俺は誠実さと慈悲深さを表面に出しつつ心の中でお前達を嗤ってやる。楽しいよなあ、本当に楽しい。
最近心の中がどす黒く、いや闇色になってきたような気がする。多分、気のせいじゃ無いだろうと思う。マントも黒だしブリュンヒルトも黒にした、心が闇色になったっておかしくないさ。血だって黒ずんでいるだろう、ラズベリー色だ。そのうち変なマスクをかぶって不気味な呼吸音を立てるようになるかもしれない。それも悪くない……。
同盟軍が帝国領侵攻を諦めた以上、ガイエスブルク要塞の攻略を急ぐ必要は無い。無理攻めすれば不必要な損害が増えるだけだ。包囲して向こうの戦意が萎えるのを待とう。あれ以降、あの二人には連絡を取っていない。向こうからも連絡は来ない。だがアンスバッハ、シュトライトの二人は必ずブラウンシュバイク公を説得すると言明した。実際抗戦して滅ぶよりも降伏する方がメリットは多い。
あの二人を信じて降伏してくるのを待つ。あと二日待ってそれでも返事が無ければ一度連絡をしてみよう。もしかすると例の件で手間取っているのかもしれない。あれが上手く行くかどうかはアンスバッハ達にとっても重要な筈だ。上手くやってくれればいいのだが……。
アンネローゼからビデオレターが届いた。あの会戦の前に作られた物らしい、レンテンベルク要塞攻略の事には触れていたがあの会戦の事には何も触れていなかった。元気でやっていると言っていたな。足の具合はどうかと俺の事を心配していた……。
俺は大丈夫だ。ブリュンヒルトの中では指揮官席に座っているからな、それほど疲れる事は無い。だがなあ、多分お前はラインハルトとキルヒアイスの事が心配なんだろう。レターでは触れていないが心配な筈だ。俺に迷惑をかけてるんじゃないかと……。
二人にもビデオレターを送っているんだろうな。俺に迷惑をかけるな、ちゃんと仕事をしろ、そんな事を言っているんだろう。残念だがアンネローゼ、お前の心配は杞憂じゃない、ラインハルトとキルヒアイスは総司令部に全く溶け込んでいない。いや溶け込もうとしない。だから周囲から信頼されずに浮きまくっている。
今のままじゃ俺との縁故で総司令部に入った、そう周囲から見られるだけだろう。根本的に幕僚勤務とか向いていないんだな。周囲との間に最低限必要な信頼関係を築けない。だから周囲はどう接して良いか分からずに困惑している。メックリンガーも持余し気味だ。結局は艦隊指揮官でしか使えないという事なのだろうな……。
シュタインメッツが同盟軍に対して勝利を収めたと報告が有った時も少しも喜んでいなかった。周囲が歓声を上げたのにあの二人だけ反応しなかった。俺に反感を持つのは腹立たしいが理解出来なくもない。だがな、味方が勝利を収めた事に対して素直に喜べないっていうのはおかしいだろう。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いか? シュタインメッツが負けて俺の顔が潰れた方が良かったのか? お前は味方じゃないのか? 何考えてるんだかさっぱり分からん。俺の我慢にも限度が有るぞ。
「足が痛むのですか?」
ヴァレリーが心配そうな表情で俺を見ている。何時の間にか右足を摩っていたらしい。
「いや、大丈夫です」
「ですが」
「癖になっているのでしょう、考え事をしていると何時の間にか摩っている時が有ります」
今度は困惑を浮かべた。気が付けばメックリンガーも困ったような表情をしている。大丈夫だ、そんな心配しなくても……。
「ガイエスブルク要塞が降伏を申し出ています!」
オペレーターが興奮した声を上げると艦橋に爆発したかの様な歓声が上がった。メックリンガーとヴァレリーが幾分興奮した様な口調で“おめでとうございます”と俺に言うと他の皆も口々に“おめでとうございます”と言ってくれた。
嬉しいよな、こういうのは。でもな、あの二人だけは喜んでいない。そして“おめでとうございます”と言うのも口でモゴモゴ言っただけだ。気付いているか? 俺だけじゃない、他の連中もそんなお前達を見ているぞ。何が気に入らないのか知らないが不貞腐れている奴、そう見ている。
「ガイエスブルク要塞に降伏を受け入れると伝えてください。総参謀長、ルッツ提督、リンテレン提督に先に要塞に入り安全を確認するようにと、特に核融合炉などの安全を確保するようにと伝えてください」
「はっ」
俺が指示するとメックリンガーがオペレーターに指示を出し始めた。さて、内乱劇第一幕の幕引きに行くか。そして第二幕の幕開けだ。
帝国暦 488年 8月 25日 ガイエスブルク要塞 ヴァレリー・リン・フィッツシモンズ
ガイエスブルク要塞は思ったより静かだった。司令長官はリンテレン提督の先導で司令部要員、そして護衛の兵達と共に司令室に向かっている。ブラウンシュバイク公爵夫人達投降者はそこで待っているらしい。所々に警備の兵が居た、こちらを見ると姿勢を正して敬礼してくる。
「意外に廊下は綺麗ですね」
「と言いますと?」
「要塞内部で戦闘は無かったようです」
私と司令長官の会話に同行している皆が廊下の彼方此方に視線を走らせた。なるほど、確かに綺麗だと思う。要塞内で戦闘は無かった、逃亡者は居ても裏切り者は居なかったのかもしれない。或いは逃げるのに忙しかったか、逃亡者を止めるだけの兵力が無かったのか……。
司令室には二組の母娘(おやこ)と軍人が約五十名ほど居た。宇宙艦隊の司令官達、そして護衛兵達。彼らが司令長官を敬礼で迎え、司令長官がそれに答礼で答えた。そして少し離れた場所に居たブラウンシュバイク公爵夫人、リッテンハイム侯爵夫人に向かって一歩踏み出した時だった。
「クリスティーネ!」
制止する声とリッテンハイム侯爵夫人が司令長官に駆け寄ろうとして護衛兵に取り押さえられるのが同時だった。
「放しなさい!」
険しい声でリッテンハイム侯爵夫人が言い放つが護衛兵達は侯爵夫人を放さない。
「放して差し上げなさい」
護衛兵だけじゃない、皆が司令長官を見た。司令長官がもう一度“放して差し上げなさい”と言った。護衛兵達が顔を見合せながらおずおずと手を離すとリッテンハイム侯爵夫人がゆっくりと歩いて司令長官の前に立った。そしてじっと司令長官を睨んだ。
司令室に激しい打擲音が響いた。一回、二回、三回、四回……。
「クリスティーネ! 止めなさい!」
止まらない。
「クリスティーネ!」
二度目の制止でリッテンハイム侯爵夫人は司令長官を叩くのを止めた。荒い息を吐いて司令長官を睨んでいる。
「何が可笑しい! 妾を愚弄するのか!」
リッテンハイム侯爵夫人が激昂した。確かに叩かれたのに司令長官は笑みを浮かべていた。口元からは血が流れている……。
「愚弄などしていません、羨ましかったのです」
羨ましい? 皆が訝しげに顔を見合わせた。司令長官を叩いた侯爵夫人も困惑している。
「十一年前、私は両親を貴族に殺されました、私が十二歳の時です。でも私は何も出来ませんでした、泣き寝入りする事しか出来なかったのです。私達親子が平民だというだけで、相手が貴族だというだけで警察は何もしなかった。私は沈黙するしかなかった……」
驚いた、司令長官にそんな事が有ったなんて……。でも誰も驚いた様な表情はしていない、もしかすると私が知らないだけで結構有名な事件だったのかもしれない。
「今は戦うだけの力を得た。リッテンハイム侯爵夫人、私が貴方を殴っても誰も私を責める事は無いでしょう」
「何を……、そなた、妾を殴ると言うのか、この妾を」
侯爵夫人が愕然とした表情をしている。でも司令長官は何の反応もしなかった。そして左手で右手を擦り始めた。
「でも私の右手はあの事件以来力が入らなくなりました。殴っても貴女に痛みを与えられるかどうか……、そして走る事も出来ない。……侯爵夫人、私は貴女のように憎い相手に走り寄って殴りつけ、憤懣をぶつける等という事はもう出来ない身体なのです」
「そなた……」
侯爵夫人の声は微かに震えを帯びていた。
「羨ましいですよ、貴女が。貴女は自分を抑える等という事はした事は無いでしょう。私は自分を抑える事しか出来なかった、そうする事でしか生きていくことが出来なかった。そして今は憤懣をぶつけたくても出来ない身体になっている……」
「……」
「気が済みましたか? 侯爵夫人」
皮肉では無かった。司令長官は本当に羨ましそうに侯爵夫人を見ている。そして侯爵夫人は明らかに怯えていた。
「クリスティーネ、下がりなさい」
「お母様」
ブラウンシュバイク公爵夫人の声と侯爵令嬢の声にリッテンハイム侯爵夫人が一歩下がった。そしておずおずと元の場所に後ずさっていく。司令長官はその様子を黙って見ていた。そして口元に手をやり血を拭う。その血の付いた手を見てクスクス笑い出した。皆が驚く中ヴァレンシュタイン司令長官が“赤いな、まだ赤かったか”と楽しそうに呟いた。心臓が止まるかと思うほどぎょっとした、一体自分の血が何色だと思っていたのだろう。
「侯爵夫人、これからは母娘(おやこ)で大人しくお暮し為される事です。力を失った事を受け入れなさい。憤懣を漏らせばそのこと自体が貴女達母娘(おやこ)に危険をもたらすという事を理解するのです」
「……」
司令長官の声が司令室に流れた。リッテンハイム侯爵夫人も不満そうな表情は見せているが黙って聞いている。
「ベーネミュンデ侯爵夫人が何故死ななければならなかったか……。先帝陛下の寵を失ったにもかかわらず、それを認められずに不満を持ち続けた、自分こそが寵を受けるべきだと。そしてその不満を利用されて死んだ……。貴女が死ぬ時はフロイラインも道連れになる、その事を良く覚えておいた方が良いでしょう」
リッテンハイム侯爵夫人が悔しそうに唇を噛み締めた。でも司令長官の言う通りだと思う。リッテンハイム侯爵夫人は力を失った。力を失ったものが不満を口にする事ぐらい危険な事は無い。
「アンスバッハ准将、シュトライト准将」
「はっ」
司令長官が声をかけるとブラウンシュバイク公爵夫人の傍に居た二人の軍人が一歩前に出た。多分この二人が司令長官の交渉相手だったのだろう。
「ブラウンシュバイク公の御遺体はどちらに?」
「霊安室にて保存しております」
黒髪の軍人が答えるとブラウンシュバイク公爵夫人とその令嬢が身体を硬くするのが見えた。
「メックリンガー総参謀長、御遺体を確認後ブリュンヒルトに移送してください。先帝陛下の女婿であられた方です、丁重に」
「はっ」
「そちらの方々もブリュンヒルトに同乗してください」
司令長官はブラウンシュバイク公爵夫人達に言うと私に彼女達の部屋を用意するようにと命じた。
これで終わりかな、後はオーディンに戻るだけだと思った時だった。司令長官が
「アンスバッハ准将、シュトライト准将。例の件はどうなりました?」
と問い掛けた。例の件? 他にも何か有るのだろうか、疑問に思っていると
「閣下の御推察の通りでした」
と黒髪の士官が答えた。
「証拠は?」
「シュトライト准将」
司令長官の問いかけに黒髪の士官が隣に居た士官に声をかける。ようやく分かった、黒髪の士官がアンスバッハ准将、もう一人がシュトライト准将だ。そしてシュトライト准将が上着のポケットから何かを取り出した。何それ? レコーダー?
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