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イドメネオ

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第一幕その六


第一幕その六

「お救い下さい。どうか」
「その者達だけとは言わん」
「といいますと」
「その心に感じ入った。汝も救ってやろう」
「真ですか?」
「神は嘘は言わぬ」
 宣誓の言葉に他ならなかった。
「決してな。だからこそだ」
「だからこそ。何でしょうか」
「生贄だ」
 これを求めてきたのだった。
「生贄を捧げよ。よいな」
「生贄をですか」
「汝がこれよりはじめて出会う者だ」
「私がこれからはじめて出会う者」
「その者を生贄として捧げよ」
 厳かにイドメネオに告げてきた。
「それで牛のことも許そう」
「牛のこともですか」
「そうだ。それも許そう」
「ですがそれには」
「生贄だ」
 やはりこれは求めるのだった。荒ぶる神であるポセイドンは生贄を求める神だったのだ。海が荒れた時はよく生贄が投げ込まれた。このトロイアの戦争でのギリシア側の盟主であるアガメムノンもまた己の娘を海に投げ込んでいる。なおアガメムノンこそエレクトラの父だ。
「これだけは求める」
「左様ですか」
「これよりはじめて出会う者だ」
 厳かな声でイドメネオに告げた。
「わかったな」
「・・・・・・わかりました。クレタの為に」
「以上だ」
 ここまで告げるとポセイドンの気配は消えた。生贄という存在の重さに暗く沈みながらも立ち上がるイドメネオ。しかしここで若い戦士の声がしたのであった。
「王子よ、あそこにおられるのは」
「あの服とマントは」
「間違いありませんぞ」
「そうだ」
 彼は兵士達に明るい声で応えていた。
「間違いない、あれは」
「王です」
「我等の王です」
「!?王だと」
 イドメネオは彼等の言葉に気付いた。従者達も慌てて彼に声をかける。
「王よ、このままでは」
「イダマンテ様が」
「わかっている」
 蒼白になった顔で彼等に答えた。
「それだけはあってはならん。だから」
「はい、ここは」
「この場を」
「去るぞ。よいな」
 強張った顔で彼等に告げた。
「今すぐにな」
「はい」
「できれば。王子様だけは」
「生贄になる者には哀れだがな」 
 止むを得なくこの場を去ろうとした。しかし長い戦いと海での帰路、それに嵐に遭って疲れきった彼等の動きは鈍かった。すぐに兵士達に追いつかれ彼の顔も見てしまったのだった。
「父上、ようこそ戻られました」
「王よ、探しましたぞ」
「よくぞ御無事で」
「確かに私は無事だ」
 一瞬イダマンテの顔を見て強張り、次に背けての言葉だった。
「しかし。そなたは」
「私は?」
「いや、言えぬ」
 とても言うことはできなかった。
「今は疲れた。またな」
「王子様、それでは」
「私共も」
 従者達もイドメネオに続いてこの場を去る。イダマンテはそれを見て怪訝な顔になるのだった。
「一体どうされたのだ、父上は」
「わかりません」
「ですが」
 彼と共にいる兵士達は首を傾げつつ答えた。
「様子がおかしいですな」
「避けられています」
「何故だ」
 神でない彼にこの理由はわからなかった。
「愛する父上を見つけ出せたのに父上は私を避けられる。何か絶望と恐怖に震えられて」
 呆然として呟く。
「あまりの愛と喜びは今は悲しみに変わっている。神々を、これは一体どういうことなのですか」
 彼にはわからなかった。今はただ呆然とするだけだった。そしてこの時港では何とかクレタに帰還した戦士達が海を見てポセイドンを讃えていた。その荒れ狂う海を。
「海の支配者であるポセイドンよ」
「この世の三分の一を治める神よ」
 この時代世界は天界、海界、冥界に分けられていた。ゼウスが天界、ポセイドンが海界、ハーデスが冥界を治めていた。三人はそれぞれの世界の主神だったのだ。
「今貴方を讃えましょう」
「無事に我等を祖国に戻してくれた貴方を」
 口々にこう歌う。海は次第に治まってきていた。
「二頭立ての馬車の乗り海を駆け巡り」
「伝令のトリトンを従えその三叉の鉾で荒れ狂う波を鎮め」
「素晴らしい海の神々を従えている」
「その貴方を讃えましょう」
「だからこそ」
 彼等は口々に言う。
「貴方に今捧げ物を」
「何でも差し上げましょう」
 彼等もまたポセイドンのことは知っていた。イドメネオにとってどれだけ悲しむべきことか。このことだけは知らず今は宴の中にいるのであった。
 
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