季節の変わり目
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緒方と塔矢の会話
「プロ試験、小宮と足立が多分受かりそうだ。奈瀬も何とか三位の座についてる」
手合いの打ち掛けの時間、休憩場所の座敷で和谷、越智、ヒカルが長机についていた。今日はあらかじめコンビニで買ってきた昼食を机に広げて頬張っている。8月の後半から始まったプロ試験。今年の目玉は和谷
が言った三人だ。他にも福や岡、庄司が勝ち星を増やしている。
「あの三人はずっと院生でもたもたしてたからね。良かったじゃないか」
越智は毒のある言葉で呟き、ペットボトルのお茶をぐいっと傾けて飲む。
「俺、岡とは対局したことあるぜ。あいついい線いってるよ」
「あー、そういや若獅子戦で・・・」
その約二時間後、緒方の手合いは終わって、帰宅しようとしていた。手合いの間を出て靴を履きかえようとしているとき、弟弟子塔矢に呼ばれた。振り返ると同じく対局が終わった様子の塔矢アキラがすぐ傍にいた。
「アキラ君の今日の相手は」
「白川プロです」
「その様子だと、勝ったみたいだな」
全く、こういうやつがいるから気が抜けない。緒方はエレベーターのボタンを押し、塔矢と並んでエレベーターが来るのを待った。塔矢は5月にあった北斗杯を経てさらに精進し、高段者相手でも滅多に負けなくなった。しかし、リーグ戦やタイトルホルダー相手となれば別で、今年本因坊の称号を桑原から奪い取った緒方にはまだ敵わない。現在緒方は十段・碁聖・本因坊のタイトルを持つ三冠だ。
「進藤は今月から始まる棋聖戦予選で、お手並み拝見だな」
「彼は負けませんよ」
断言する塔矢に緒方は「くっくっく」と笑う。ニヤリと口角を上げ、塔矢に探るような視線を向けた。
「ほう、随分と自信ありげだな。進藤が院生になって、君が彼を見に行った時とはえらい違いだ」
「あの時は・・・」
エレベーターの扉が開き、二人中に入り塔矢は一階のボタンを押した。
「いや、送っていこう」
地下のボタンを押して緒方は塔矢に笑みを向ける。
「君も彼がこんなに成長するなんて、見抜けなかったんじゃないか?」
その問いかけに、塔矢はしばらく口を閉ざし、悩ましげにこう言った。塔矢自身何度も考えてきた問題だ。解こうとしてはつまずき、ヒントの少なすぎるこの問題にアキラは半分諦めかけていた。
「・・・いや、彼は、強かった」
「碁会所でアキラ君に二回も勝ったことかい?君は並べてもくれないからね」
あの一局を塔矢が進んで見せたのは越智一人だけだ。他には誰に言われても、塔矢はヒカルとの対局を見せることはなかった。
「きっと誰も信じませんよ」
俯き、口ごもる塔矢に緒方は不審の念を抱いた。今の進藤を以ってしても納得のいかない対局だというのだろうか。それにしても、「信じない」とはどういう意味だ。地下駐車場に着き、緒方は車のロックを解いた。塔矢は助手席に乗り込み、シートベルトを装着する。
「今日は碁会所にでも行かないか」
運転席に着くなり緒方はタバコを咥え、ライターで火を点けた。塔矢はもう慣れっこだが、そのタバコをやめてください、とは未だに言えない。
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