ラ=トスカ
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第一幕その四
第一幕その四
「そうだ、奴が御前を狙っている」
一呼吸置き続ける。
「フランス軍がイタリアへ侵攻してきて以来カロリーネ陛下は共和主義者への締め付けを厳しくしておられる。あの男をこのローマへ送り込まれたのもその一環だ」
「だからといってあの様な男を」
スカルピアの評判は悪かった。残忍で狡猾と称され袖の下や色欲に目が無いと噂されていた。その屋敷には自身の故郷から連れてきた品性の卑しい者達が絶えず出入りしていた。ローマの貴族や市民達は彼を嫌悪の目で見ていた。
マリオも例外ではなかった。否名家の出身であり芸術とローマを愛する彼にとってスカルピアは最も嫌悪する種の人間であった。これは彼の主義、信念も入っていたがそれ以前に彼はスカルピアを生理的に嫌悪していたのだ。
「マリオ、すぐにローマを去るんだ。さもなければ次に絞首台へ登るのは御前だ」
「そうさせてもらうよ、兄さん。ただもう少し待ってくれないか」
「何故だ?」
兄の問いにマリオは顔を下に向けはにかんで答えた。
「今は離れたくないんだ。ここで描いている絵の事もあるし」
絵の方へ顔を向けて言った。
「それに・・・フローリアのローマでの舞台がまだ残っているんだ」
「フローリア?今ローマで話題になっているというソプラノのフローリア=トスカのことか?」
「やっぱり知っているみたいだね」
「少しだけだがな」
武人である彼は芸術に疎いところがある。
「素晴らしい美声と技術、そして艶やかな美貌の持ち主だという話だな。私はまだ会ってはいないが」
「実はね・・・・・・」
マリオがまたはにかんだ。
「今彼女と付き合ってるんだ」
「何ッ!?」
思わず声をあげた。
「一年前アルジェンティーナ座で仕事をしている時に出会ってね。お互い一目惚れだったんだ。それ以来続いてるんだ」
「おい初耳だぞ。何で知らせてくれなかったんだ」
「御免御免、知らせるつもりだったんだけどね。忙しくてついつい」
「全く・・・。で彼女の舞台は何時終わるんだ?」
「三日後だよ。その頃にはこの絵も完成するし彼女の次の契約地ヴェネツィアへ一緒に行くつもりなんだ。その準備は済ませてあるよ」
「ヴェネツィア・・・。あの執政殿のお気に入りの水の都か」
「うん。彼の庇護を得られるしね」
その言葉にアルトウーロは表情を険しくした。
「マリオ、御前の主義についてとやかく言うつもりは無い。だがな、ボナパルトには注意しろ。あの男は自らの栄光ばかり追い求めその為には他の者の命なぞ塵芥程の価値も無いと考えている男だ。彼がエジプトで兵士達を見棄て、このイタリアでローマ共和国を切り捨てた事を知っているだろう」
「・・・・・・・・・」
マリオは反論しなかった。彼はナポレオンの信奉者だった。共和主義こそが正義だと信じていた。兄に反論しようと思えば出来た。だがそれをあえてしなかったのは兄が指摘した事を彼はよく知っておりそれに対し彼も思うところがあったからである。
「最近あの男はとかく専制的になってきている。王以上にな。まるで皇帝の様に振る舞いだしたという。だがそれを見極め結論を出すのは御前だ。よく考えて決めろよ」
「うん・・・」
今度は頷いた。
「では私はこれで失礼する。これからファルネーゼ宮に戻り陛下と御会いしなければならないからな」
「うん。じゃあ兄さんも元気で」
「うむ。今度二人で飲もう。トカイのいいのがある」
「トカイか。楽しみにしてるよ」
挨拶を交わすとアルトゥーロ=カヴァラドゥッシは教会を後にした。兄を見送るとマリオ=カヴァラドゥッシは教会の扉に鍵をかけ絵に掛けてある布を引き降ろし仕事に取り掛かった。
暫く描いていたが絵具が切れた。絵具を取る時そのすぐ側に置かれている籠が目に入った。
「ゼッナリーノの奴またこんなに持って来て」
籠を右手に取り中身を見て苦笑した。
「昼食ならともかくおやつには多過ぎるだろうに。まあ後でゆっくり食べるとするか」
籠を元の場所に戻した時礼拝堂の方からガチャリと音がした。
「!?」
咄嗟に柱の陰へ隠れた。顔をソッと出して覗き見るとアンジェロッティ家の礼拝堂の扉が開き中から人が出て来た。
「あれは・・・・・・」
礼拝堂から出て来た人物をカヴァラドゥッシは良く知っていた。幼い頃からの友人であり思想的、政治的にも同志であるからだ。
「アンジェロッティ、君か!」
思わず柱の陰から身を現わした。アンジェロッティは柱から人が急に現われたのを見て思わず肝を冷やしたがそれが自分の知っている人物と解かりアンジェロッティも思わず声をあげた。
「カヴァラドゥッシ、君か!」
二人は駆け寄り抱擁し合った。二人の顔に喜びの色が現われた。
「良かった、スカルピアに捕われたと聞いて心配していたんだ」
「サン=タンジェロ城に今まで入れられてたけれどね。もう少しで暗殺されるところだったんだ。それを弟と妹が救い出してくれたんだ」
「そうか、それは良かった・・・・・・。で、これからどうするつもりだい!?」
「それなんだが・・・・・・」
その時教会の外から女の声がした。
「!?」
その声は高くはりがありそれでいて澄んだ美しい声だった。その声の主をカヴァラドゥッシは非常に良く知っていた。
「マリオ、マリオ」
自分の名を呼ぶその声の主が誰か彼は知っている。アンジェロッティの方へ顔を向け右目を瞑って言った。
「レディだよ。僕が良く知っている人でね。善良で信心深いがとても焼き餅屋のね。悪いけれど少し隠れててくれ」
カヴァラドゥッシの言葉にアンジェロッティは頷き礼拝堂の中に入って行こうとした。その時籠が目に入った。
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