イーゴリ公
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第一幕その四
第一幕その四
「公爵、ここにおられましたか」
「どうした?」
「ここからお逃げ下さい」
彼はそう公爵に申し出てきた。その前に片膝をついて。
「ここからか」
「そうです、馬は私は手配します」
彼は公爵に申し出る。その真摯な言葉で、
「ですから」
「私にか」
「なりませんか」
従者は公爵に問うた。
「ルーシーの為に」
「よせ」
だが彼は。従者を制止するのだった。
「それはならん」
「何故ですか?」
「それは危険だ」
彼が従者の言葉を拒むのは彼が危険だからではなかった。
「そなたが危険だからだ。いいな」
「私のことは構いません」
従者はそう述べて主の言葉を受けまいとした。
「それは覚悟のうえですから」
「それでも駄目だ」
彼はあくまで従者のことを気遣いそれを受けないのだった。
「わかったな。気持ちだけ受け取っておく」
「左様ですか」
「そうだ。わかったら下がれ」
彼は言った。
「わかったな」
「わかりました。それでは」
従者は下がる。公爵はその心だけを受け取っていた。それで寂しい顔になるのだった。
「その通りだが。私一人でそれは果たされるのならば」
「公爵、ここにおられたか」
そこに一人の壮年の男がやって来た。巨大な身体をしており見事な髭を顔中に生やしている。その髭と髪の色、その顔立ちから彼もまたポーロヴェツであることがわかる。その服は黒と赤で豪奢に飾られそれから彼がただのポーロヴェツの者ではないのがわかる。それも道理、彼こそがポロヴェーッツのハーンであり公爵の宿敵であるコンチャーク=ハーンであったのだ。ルーシーにとっては恐べき敵でありポーロヴェツにとっては偉大なる英雄、そうした男であった。
彼は公爵のところに来た。そうして低く威厳に満ちているがそれと共に穏やかで親しげな声を彼にかけるのであった。
「公爵、そこにおられたか」
「貴方か」
公爵は彼に顔を向けた。決して憎しみを向けているのではなかった。むしろ互いに認め合うような、そうした雰囲気の中にあった。
「心が冴えぬようだが」
「何でもない」
「狩の弓や犬が悪いのならわしのを貸すが」
「いや、いい」
遊牧民にとっては最高の気遣いを公爵に見せた。公爵はそれをまずは丁寧な物腰で断ったのだった。
「どちらもいい。だが」
「だが?」
「今の私はこうして貴殿の虜囚だ。それ以外の何者でもないのだから」
「何を言う」
ハーンは公爵のその言葉を首を横に振って否定した。
「貴殿は虜囚ではない。客人だ」
「客人と呼んでくれるか、この私を」
「そうだ」
ハーンは堂々と言った。
「ポーロヴェツは勇者を粗末にはしない」
それが彼の言葉であった。
「だから貴殿も貴殿の兵達も誰一人として粗末には扱ってはいない。違うか?」
「確かに」
公爵もそれはわかっていた。それには素直に感謝していた。
「それはわかっている」
「戦場で貴殿と戦ってわかったのだ」
ハーンは戦場での公爵のことを彼自身に対して述べた。
「貴殿はわしの友とするのに相応しいとな」
「そこまで私を買ってくれるのか」
「草原の民は嘘は言わぬ」
それが彼等の誇りであった。
「決してな。勇者に対しては」
「私をまたそう呼んでくれるか」
「その勇者に対してまた言おう」
そのうえでまた告げてきた。
「貴殿が望むものは弓でも犬でも。いや、剣も天幕も馬も」
どれも遊牧民達にとってはまたとない宝である。
「欲しいものなら何でも。授けるぞ」
「私にそうする価値があるというのか」
「わしは草原の主だ」
その自負は絶対のものだ。草原を支配する者は何も恐れない。昔から言われている言葉である。
「何者をも恐れず、誰もが恐れるこのわしを恐れぬ貴殿を粗末にしたことがあるか?」
「いや」
それは決してない。だからこそすぐに答えることができた。
「貴殿は私を非常に重く扱ってくれる。それは事実だ」
「そうだな。では何が欲しい」
「帰る」
彼が欲しいのはそれだけであった。
「私が欲するのはそれだけだ」
「ならば帰るがいい」
何処までも寛大なハーンであった。しかしそれには約束があった。
「ただしだ」
「何だ?」
「我が行く手を遮らぬな」
つまりは味方になれと。そういうことであった。
「ならばよいが」
「有り難い言葉だが」
公爵にはそれを受けるわけにはいかない理由があった。それを彼に対して告げる。
「私はルーシーの者だ。だからその申し出を受けることはできない」
「わしと戦うというのだ」
「そうだ」
堂々とハーンを見据えての言葉だった。
「私も誇り高きルーシーの貴族、その誇りにかけて嘘は言うわけにはいかない」
「それをわしに言うのだな」
「そうだ。私は自由になったなら必ず再び剣を手にし馬に乗る」
戦場に向かうというわけだ。
「そうして軍と共に貴殿の前に姿を現わすだろう」
「見事だ」
ハーンはその言葉を受け怒るどころか賞賛さえした。
「そうでなくてな。わしが見込んだだけはある」
「やはりそれは」
「わしは人を見る目は確かだ」
公爵が買い被りだと言おうとしたのを察してまた告げるのだった。
「何度も言うがな。では宴に来てくれ」
「私を呼んでくれるのか」
「無論だ。では行くぞ」
そう言って彼を招く。招いた場所ではもうポローヴェッツの娘達が待っている。ハーンはそこで自分の席に公爵を座らせた。そうして娘達の舞を見守るのだった。
華麗な舞であった。何時しかそれに男達も加わり華麗なものに勇壮が加わる。それは見事な対比であった。
公爵はそれを見てもまだ楽しまなかった。その中で一人考えに耽るのだった。遠くに離れてしまった祖国と妻のことを想い。一人考えに耽っていた。
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