イーゴリ公
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プロローグその三
プロローグその三
「下手したら死んじまうしな」
「だからだ。ここはずらかろうぜ」
スクーラはそうエローシカに言うのだった。
「こっそりとな」
「それで何処に行くんだ?」
「ウラジミール=ガレツキー様のところさ」
公爵の今の妻の兄であり大領主の一人だ。この戦いでは留守を守ることになっている。
「あそこで酒に女に」
「御馳走にか」
エローシカの目が輝いた。そこに幸せを見ていた。
「そうさ。じゃあ話は決まりだな」
「ああ、人生は楽しむものだ」
エローシカは笑顔で述べる。
「さっさと行こうぜ」
「ああ」
彼等はそっとその場から姿を消す。それと入れ替わりに一人の淑女が姿を現わした。白い衣に金の刺繍が入っている。その冠とベールから豊かな黄金色の髪が見える。目は湖の青であり何処までも澄んでいた。顔は気品に満ち溢れ穏やかな感じである。だが今彼女はその顔に不安を漂わせていたのであった。
「公爵様」
公爵の今の妻ヤロスラーヴナである。その美貌と慈しみで知られる女だ。
「行かれるのですね」
「うむ」
公爵は馬から降りた。そうして妻の前まで来て応える。
「勝って来る」
「ですが今は」
「時期ではないというのか」
「はい」
夫に対してこくりと頷くのだった。
「先程の太陽といい。それに」
「それに。何だ」
「今敵は強勢です」
領主の妻は政治も知らなくてはならない。彼女は優れた政治的な視野も持っていた。それで度々夫に助言して助けてもいるのである。
「ですから今は」
「避けよというのか」
「なりませんか?」
顔を見上げて夫に問う。公爵は立派な身体をしていて小柄な彼女が見上げてやっとであった。
「今は」
「いや、今しかない」
これが公爵の考えであった。
「今行かなければルーシーは」
「敵に蹂躙されると」
「そうだ。それだけは許さぬ」
公爵は強い言葉で答えた。
「だからだ。私は行く」
「それでは公爵」
ここで粗野な声が聞こえてきた。そうして黒い服を着たやけに大きな男が出て来た。熊の様な身体をしておりその髪も髭も異常に濃く真っ黒であった。獣めいた印象を与える男であった。
「兄上」
ヤロスラーヴナは彼を見て兄と呼んだ。彼女の兄であり公爵にとっても義理の兄であるウラジミール=ガレツキー公爵である。粗野で好色な人物として評判はよくない。かつてその大酒と好色による粗野な行動のせいで一族からも追い出されたのだが公爵の仲裁により助かっている。そうした経緯があり今は公爵の下にいるのだ。
「ここは私にお任せを」
「頼めるか」
公爵はガレツキーを見て言った。
「ルーシーの守りを」
「喜んで」
ガレツキーはその粗野な笑みを公爵にも見せた。何処か義理の兄であることによる優越感と公爵の人望に対する劣等感がそこに見えていた。
「ルーシーを。守ってみせましょう」
「では。兄として頼みたい」
公爵はその彼を今兄と呼んだ。
「妻を頼む」
「わかり申した。では妹よ」
優しげだがそれでも粗野なのは隠せなかった。ヤロスラーヴナもそれを感じたのかその整った顔を微かに顰めさせるのであった。
「行くぞ」
「行かれるのですね」
「御前の言葉は受け取った」
それは認める。しかしそれでも彼は行かなければいかなかったのだ。
「今司教も来られた」
正教の司教である。その独特のみらびやかな法衣が彼が正教の司教であることを皆に教えていた。彼は静かに公爵達の前に来たのだった。
「公爵よ」
「はい」
公爵は司教の言葉に応えた。
「それで御願いします」
「ええ。それでは」
司教は静かに公爵の前に来た。そうして司教は自分の前に跪いた彼等に対して祝福を与えるのであった。
「我等に神の御加護を」
「我等に神の御加護を」
兵士達も民衆達も司教の言葉を復唱する。
「神は我々に勝利を下さる」
「そう、勝利を」
「異教徒達に対する勝利を」
彼等にとって遊牧民達はただの異教徒ではない。恐るべき侵略者なのであった。だからこそ彼等は遊牧民達を恐れているのであった。
「では行くぞ」
公爵が軍に告げる。
「戦場に」
「勝利に」
今ルーシーの軍勢が出陣した。民衆は彼等を喚声で送り出す。だがヤロスラーヴナだけはその顔が暗かった。不吉なものを隠せないでいたのだった。
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