第二章
緩やかな目覚めの音楽で、目を覚ました。ビアンキが朝のイメージに近い音楽を選んで、決まった時間に流してくれるのだ。
「おはようございます、ご主人さま!」
パソコンのカメラに向かって手を振ると、ビアンキが画面に大写しになって微笑んだ。
「今日は2限から、民事訴訟法の講義ですよ」
……もうそんな時間か。僕はゆっくり身を起こした。
ビアンキに起こしてもらうようになってから、2週間が経つ。
最初の2~3日は、「いまビアンキが起動するのか!」「ビアンキが音楽を奏でるのか!」と緊張する余り、ちっとも眠れなかった。……馬鹿だ。仮想人格とはいえ、女の子に起こされるのなんて初めてのことで、妙にはしゃいでいた。初めて「おはようございます、ご主人様!」と声をかけられた日は、そんな言葉を女の子に言われてしまった面映さに、思わずパソコンの前で正座してしまった。
最近はもう、起こされることにも慣れてきた。
洗ったままハンガーに干しっぱなしのシャツを引っ張り、後ろ前じゃないことを確認して着る。ふとビアンキに目をやると、彼女は画面上をほうきで掃きまわり、黒い塊を作っていた。僕はちょっと『ご主人さま』を意識した口調で話しかけてみる。
「やあ、もう朝ごはんかい?」
「はい、朝ごはんです!」
朝ごはんの意味を分かっているのかどうか知らないけれど、ビアンキはにっこりと微笑む。
黒い塊はぶより、と蠢いたかと思うと、しゅるしゅると回りながらリンゴの形をとった。
「ほぅ、今日はリンゴか」
彼女が集めていた黒い塊は、スパムメールやサイトで拾ってきたウイルスやスパイウェアらしい。最初この子が何を食ってるのか分からなくて不安になって調べてみたところ、「消化機能」が働いているときのアニメーションだということが分かった。本当に手探り状態だ。MOGMOGに詳しい紺野さんとメアド交換しておいてよかった。
それにしても本当に美味しそうにリンゴを頬張る。……かわいいなぁ。優しく起こされたり、「ご主人さま」と呼ばれるよりも、おいしそうに「朝ごはん」を頬張るビアンキを見るのが今は一番好きだ。
「おいしいかい?」
いつものように、画面に声をかける。今日もキョトンとされるんだろうな…
「はい、おいしいです!」
彼女は一瞬リンゴから口を離すと、そう答えた。
へぇ…
これが、「会話学習機能」か……!
MOGMOGは、ユーザーが話しかけることでコミュニケーション能力を発達させていくことができる。僕が喋った中に、データにない言葉があれば、グーグルなどで検索して調べ、次に同じ言葉が会話の中に出てくれば、内容に応じた答えが返ってくるようになる。
「おいしい」って何なのか、彼女が理解してるかどうかは、また別の話なんだろうけど…
それでもビアンキがおいしそうにリンゴを頬張るのを見ていたら、僕も腹が減ってきた。じゃ、僕も朝飯を……
と腰を上げた途端、ちゃぶ台の上でスマホがブルブル振動し出した。
「…はい、姶良」
『よう、今大丈夫?』
待ち受けには「紺野」と表示されている。
「あ、大丈夫。…どうしたの、こんな朝早く」
『朝早くかよ、この時間が。いいな学生は』
「紺野さんだって学生時代あったでしょうよ。で、どうしたの」
『いいソフト見つけたんだよ。MOGMOGの。今日ヒマか』
「んー、二限が終われば、まぁ」
『昼飯時だな。新宿の「鐘や」で待ってる。分かるか』
「あ、うん知ってる、でも」
『じゃーな』
紺野氏は一方的に言うと、さっさと電話を切ってしまった。
…鐘やの豚カツ茶漬けは旨いんだけど…
正直、カツ茶漬け定食1200円は、学生のランチにはハードルが高い。僕にとっては、金があるときに恐る恐る出向く店の一つだ。
そして今は……
――結局、柚木からせしめることに成功した5000円が、手元にある。
よし、決まりだ。今日の昼飯は鐘やの豚カツ茶漬け。朝飯は抜いていこう。
鐘や2階の喫煙席で、紺野さんは待っていた。
「今日はちゃんと食ってるか、食い詰め学生」
「何も食ってないよ…」
「お前、若いうちはそれでもいいかもしれないけどな…」
「紺野さんがお昼『鐘や』なんて言うからだよ」
席に着くと、紺野さんがメニューを突き出した。手で制して、店員に豚カツ茶漬けを頼む。
「よく来るのか?」
「2,3回来たきりだよ。高いもん…で、MOGMOGの支払いなんだけど、分割でいい?」
「あー、あれはもういいよ。俺が無理やり入れたようなもんだから。これで金取ったら押し売りになっちまう」
「そんな!悪いよ。MOGMOG入れて良かったと思ってるし。絶対払うよ!…あ、来た」
頼んでからものの数分で、豚カツが運ばれてきた。半分は普通に食べて、もう半分をお茶漬けにするのが決まりだ。
「…で、最近どうだ、ビアンキは」
香ばしい豚カツの香気に鼻の下を伸ばしていると、紺野さんが尋ねてきた。…いけない、豚カツに気を取られて年配者に気を使わせてしまった。
「ビアンキ…ビアンキはまぁ、元気だよ」
でも早く食べたい!鉄板の上でじゅうじゅう焦げている、あっつあつのカツを一切れ、キャベツと絡めて頬張る。
「……ただな……」
僕は、ビアンキをインストールして2日目の事件を思い出していた。
その日は課題のレポートの仕上げに取り掛かっていた。学校で使っているパソコンからテキストに落とした資料をメールに添付して、僕のノートパソコンに送って、後は家で仕上げるだけ。
課題の提出を一回でも怠ると、普通に「不可」がつくことで有名な先生だ。できれば取りたくない授業だったんだけど必須だから仕方がない。この一年、わりと真面目に授業を受けてたし、余程のことがなければものの2時間で終了する!とたかをくくっていた。…だから、パソコンを立ち上げたのは、その日の夜遅くだった。
その頃はまだ動きがぎこちなかったビアンキが、僕に向かってぎこちないなりに、元気に微笑んだ。
「おはようございます、ご主人さま!」
…この頃の僕は、「ご主人さま」という言葉に照れてしまって、画面をろくに見られなかった。ぼそぼそと「おはよう」を返しながら、メールソフトを立ち上げる。
「……あれ?」
『商法課題テキスト』というメールは届いている。
なのに、添付ファイルがごっそりなくなっている。
添付忘れか?…いや、それはありえない!送信前に、わざわざ一つづつファイルを開けて確かめたんだから。
一応、何かをシャクシャク頬張ってる、僕のかわいいセキュリティ嬢に問い合わせてみる。
「ビアンキ……このメール、添付ファイルついてなかった……?」
ビアンキは、ナシらしき果物から顔をあげると、満面の笑顔で言い放った。
「はいっご主人さま!怪しい添付ファイルを、食べておきましたっ!!」
………え、ええええぇぇぇ――――――――――!! まじで!!!!
「たっ…食べちゃった!?」
「え?……だめだったんですか…!?は、はぁぁ……」
僕とナシを見比べながら、泣きそうな顔でオロオロしている。
「……その、ナシ?」
「ごっ…ごめんなさい……食べちゃいました~……あぁ~……」
ビアンキは、顔をおおってしくしく泣き出してしまった……
僕だって半分食いかけたナシを見て、オロオロするのが精一杯だ。
…いや、そんな食いかけのナシとか差し出されても困るよ…
「…課題提出は一限だ…この教授、課題サボると単位貰えないんだよ……」
ビアンキは肩を落として、画面の隅でうずくまって泣き出した。
く、くそぅ、泣きたいのはこっちなのに先に泣かれてしまった……。
「くっ、仕方ない!ちょっと学校いって来るよ。ビアンキ、留守頼む!」
「ごめんなさい~、本当にごめんなさい~……」
その後、深夜に学校に忍び込んでセキュリティシステムを作動させてしまったかどで、警備会社のひとに散々油を絞られ、学生証のコピーを取られ、ようやく開放されたのは夜中の1時過ぎ。なんかもう散々な一日で、へとへとになって帰ってきたら、起動しっぱなしだったらしいビアンキが、せっせと何か作業をしている。
「ただいま……何やってんの」
「は、はい!申し訳ないので、なにかお役に立てればと思って……」
いい子だ。プログラムだとは分かってても、なんだか和む。
「ご主人さまのお気にいりそうなサイトを、収集しておきました!」
……なんだと!?
慌てて立ち上がりっぱなしのブラウザの履歴を見る。
――Sexyメイド アスカ
――M女出張サービス「私のご主人様」
――M女ブログ「ご主人様の鞭」
――ロリータメイド陵辱の館
――納涼!スケスケメイド服特集
………うわぁ………
………僕の履歴が、エロサイトですごいことになってる………
なんか凄い眩暈をおぼえてパソコンの前に倒れこんだ。
ビアンキをインストールした日、なんか急に自分の中で「Mっぽいメイドブーム」が巻き起こり、優秀なセキュリティソフトを導入して気が大きくなっていたこともあり、つい夜を徹して「メイド」とか「調教」とかで検索しまくってしまったのだった。
…怖い、この子本当に怖い……!!
「あ、あの…お気に召しませんでしたか?…全て安全なサイトですよ?」
頭上で、オロオロしているビアンキの気配を感じる。
――頼むから、今の僕をご主人さまと呼ばないでくれ。
僕は君にご主人さまと呼ばれる資格はない……
課題がなければ枕を濡らして眠ってしまいたい……
――顔を上げると、紺野さんがひきつけを起こさんばかりに大爆笑していた。
「…紺野さん、あんた人の不幸をそんな楽しそうに…」
「ひっひっひ…いや~、災難だったなそりゃ」
「大変だったんだよ。次の日警備員から報告を受けた事務さんにまで散々絞られて。これバグじゃないのか?」
「いや、仕様だ」
「…仕様?」
「説明書、ちゃんと見てないな。キャラクター設定のとき、性格設定チェックボックスがあっただろう。あのメイドは、デフォルトで「ドジっ子」が入ってるんだ」
「…えぇ――?」
「インストールして最初に送られた添付ファイルは、例外なく「間違って」食べてしまう設定になってる。…有名な話だぞ?ま、添付ファイルに関しては、サルベージ機能がついてるからご愛嬌、と。ドジっ子好きにはたまらない設定だ。仕事上、どうしても困る場合は「ドジっ子」チェックボックスをオフにすればいい」
そ、そんな…! なんなのドジっ子好きって!…そのひとたち、こんな迷惑な目に遭ってそんなに嬉しいの!?
「ていうかサルベージ機能って何だよ!」
「食べたファイルを復元する機能だよ」
「え!?」
そんな機能があることを知ってたら、僕は……
何かやりきれない気分になってきた瞬間、タイミングよくキャベツのおかわりが届いた。僕はやけくそ気味に皿を奪うと、キャベツをもう2皿追加した。
「…話を始めるぞ。お前は食っててもいい。聞いてろ」
あれ以来、ほぼ無言でキャベツを掻きこみ続ける僕に痺れを切らしたのか、ふいに紺野さんが喋り始めた。
「さっき電話で話したソフトだけどな」
紺野さんはメッセンジャーバックを取り出してごそごそやりだした。キャベツをぼりぼり咀嚼しながら一応頷いて眺めていると、ラベルのついていないCDケースが出てきた。
「MOGMOG、カスタマイズソフトだ。…ネットで拾ったんだ」
「………」
僕は箸を止めた。それを「興味を示した」ととらえたのか、紺野さんは滔々と話し出した。…僕は僕で、「お茶漬け用の緑茶持ってきてもらうために箸を止めたと知ったら、すごいガッカリするだろうなぁ…」とさすがに気が引けたので、箸を置くことにする。
「お前が瞳の色を変えたように、MOGMOGはある程度カスタマイズが利くんだが、まぁ、色が変わるだけなんだよ。だがな、このソフトをインストールすれば、服装も変えられるんだ。それだけじゃない」「お待たせしましたー」
紺野さんが何か言いかけたとき、店員さんが「何か」を持ってきた。
「豚カツ茶漬けでございます!」
………え?
コトリ、と紺野さんの前に置かれた、作りたての豚カツ茶漬け膳。
僕は……
「あの、もしかして……?」
紺野さんは、気まずそうに視線をそらすと、ぼそりと呟いた。
「なんか腹減ってるみたいだったから……言い出しづらくてな……まあいいじゃないか、同じものだし」
僕は手元の、半分に減った豚カツに視線を落とした。…つまり、こういうことか…
紺野さんが先に来て、先に注文していた豚カツ茶漬けを、後から来た僕が食べてしまったのか……
さ、最悪だ……
呆然としている間に店員さんは厨房に消えた。場の空気的に、お茶漬けを頼むタイミングを完全に逸してしまったので、腹をくくってMOGMOGのカスタマイズソフトの話を聞くことにした。
「…えーと、あのな、とにかく…このソフトで、服装や髪型、それに、性格属性までカスタマイズ出来るんだ!」
「へぇ…カスタマイズ……カスタマイズか……」
……なんだろう、なんか今、「嫌な感じ」がした……
「ノーパソ持って来てるだろ。ほら、立ち上げろ!」
紺野さんは豚カツを脇に押しのけると、僕のノートパソコンを勝手にカバンから取り出して電源を入れて、画面を僕のほうに向けた。起動時に僕の網膜が認識されないと、正しく立ち上がらないからだ。…そんなのあとでもいいじゃないか。それより、あったかいうちに食べちゃおうよ…と言いたかったけれど、そんなことを言い出せる空気ではない。
起動前に貰ったCDをディスクに挿入。…しばらくすると、起動時の青い画面が、ビアンキの笑顔に切り替わる。
「…………」
…いつもは「お帰りなさい、ご主人さま!」と出迎えてくれるのに、どういうわけか、しばらく小首をかしげて僕を見たきり、困ったように口をつぐんで動かない。
「……ウイルス?」
「俺がいるから。…対人セキュリティシステム、俗に言う『人見知り機能』だ」
そうこう言っているうちに、ビアンキは画面の端から、かわいいレースのカーテンを引っ張り出して『しゃっ』と引いて隠れてしまった。紺野さんの顔がほころぶ。
「あーあ、すごい人見知りっぷりだな!…なぁ姶良」
「ん」
「…持ち主が呼ぶと、出てくるぞ」
「…インストールしてから呼ぼうよ」
「いいから呼べってば。…ビアンキー。……見ろ!ほら!カーテンの隙間からちょっと覗いたぞ!」
…最近、うすうす分かったことがある。
このひとは多分、手に入れたMOGMOGを売っていない。
高く転売するために並んで買ったものの、やっぱり自分で欲しくなって売るのをやめたのか、それとも、転売するというのはそもそも嘘だったのか。知る必要も今のところはないし、知りたいとも思わない。
でも紺野さんはどんなMOGMOGを育てているのか、ちょっと見てみたい気はする。語り合えないのは残念かな。
「インストール終わったぞ」
紺野さんの声でわれに返った。デスクトップに、タンスのようなアイコンが増えている。
「…これは?」
「ちょっと、クリックしてみろ」
紺野さんに促されてダブルクリックしてみると、タンスのアイコンがかぱっと開いた。…とても嫌な予感がする…最悪の事態に備えて音源をOFFにしようとした瞬間、水色にフリルと花柄のウインドウが「こかぽかぽん」という、木琴みたいな起動音と共に展開された。店員の女の子が、僕のパソコンにちらっと一瞥をくれて、怪訝な顔で通り過ぎる。
「……うわ」
「ほら、カスタマイズ画面が出たぞ!……何だよ、何で閉じる?」
「……理由が分からないか?」
若い男二人が、食い物屋で出された豚カツ食べないで、こんな萌え満載なソフト立ち上げているなんて明らかに異様だろう。
「まーいいから開けって。じゃ、まず手始めにコスチュームのチェンジだ♪」
…………コスチュームとか言い始めたよこのひと…………
誰とも目が合わない程度に、さっと周りを見渡す。隣のカップルと、紺野さんの後ろの老夫婦が、明らかに異常者を見る眼差しで僕らのテーブルをチラ見している。隣のカップルなんて「2次元界の住人はアキバに帰れ」くらいのことは思っている眼差しだ…ああ、やりきれない…紺野さんの手付かずの豚カツ全部食って逃げ帰ってしまおうか……
「ほら、かわいいコスチューム盛り沢山だぞー!?姶良、お前どれが好みだ!?」
…紺野さんは「僕が見やすいように」と、ウインドウを全画面表示にしてくれた…
もう店内の誰から見ても分かりやすいくらい、「MOGMOG着せ替えBOX♪」のかわいいロゴが大写しになった。…店員の女の子が、お茶漬け用の緑茶を、投げ捨てるように置いて行った。
「うわー、僕ー、この限界ぎりぎりボンデージなんか好みだなーこん畜生!!」
もうやけくそだ。どうにでもなってしまえ。
「お、なかなかM属性全開なチョイスじゃないか!よーしボンデージだな!」
ノリノリの紺野さんが限界ぎりぎりボンデージをクリックする。こかぽかこかぽかぽん、しゃららららららー……顔を上げなくても分かる。僕らは今、この店の注目の的だ。
……落ち着け、僕。今取り乱したら、僕の負けだ……
「お…おぉー、見ろ姶良!これやばいぞ!」
紺野さんの嬌声に反応して顔を上げた僕の目に最初に飛び込んできたのは、大事な何かがポロリとまろび出てしまいそうなラバーのブラと、ものすごい角度で股間に食い込む紐のようなラバーショーツだった。オプションの鞭と蝋燭を、もてあまし気味に振り回してみたりしているのが、なんか可愛い。
「う…うおぉぉ……」
言葉を失う僕たちを、不安げな表情で見守るビアンキ。
「あの…どうしたんですか…?」
…何か言っているが、耳に入らない。
「こ…この真ん中のチャックを下ろすと、どうなっちゃうんだろう…」
「…気持ちは分かるが、そういう機能はついてない」
「こっ…この童顔なビアンキが、メイド服の下に…こんなけしからんボンデージを…じっ、実にけしからん!おしおきだ!」
「落ち着け!この場合おしおきを受けるのはお前だ!」
血走った目でディスプレイを凝視する僕たちに、ビアンキが恐る恐る声を掛けてきた。
「あの…ご主人さま…これ…似合い…ますか?」
「に、似合うよ!超似合うよビアンキ!!」
「……なんか、嬉しくないです……着替えちゃ、だめですか……?」
「……」
「……」
「……」
「……うん、ごめん……こっちの花柄ワンピースにしような……」
ビアンキの素の嫌がりように、ふと我に返る。
――何をやっているんだ、僕は……
僕はその後、自己嫌悪で講義を3日休んだ。
……今思い出しても、懐かしさと悔恨で胸が締め付けられる、この日の、この瞬間。
もっと、「気にしてあげる」べきだったな…と。
推理小説を読んでいて「あれ?ここなんか変な表現だな」と感じることがある。僕も、多分他の大多数の人たちも、その時はただ読み進めたくて、もっと続きが知りたくて、わずかな違和感は通り過ぎてしまう。そして物語の終盤になって気づくんだ。あの「違和感」こそが、真実の答えだった…って。僕はそんなとき「あー、やっぱりあそこ違和感あったんだよね!」…と、あたかも自分は謎を解いてたような気分になる。
だけど、僕がこの現場に居合わせた探偵だったら、連続殺人事件は藪の中なんだ。
そして最後の犠牲者は、僕の前にむごたらしい骸をさらすだろう。
最後に気がついても、もう遅い。最後の惨劇を許してしまった小説は、もはや推理小説なんかじゃない。
低俗で残忍な、ホラー小説だ。
…このとき感じた「嫌な感じ」を、もっと深く突き詰めて考えていれば、
ビアンキも、僕も、もっと違ったエンディングを迎えられたのかな……