Sleeping Rage
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act-1"the-world"
環太平洋統一連合
日本
東京
雲一つ無い蒼空の下を人型をした《巨人》は飛翔していた。―否、その表現は厳密には間違いである。なぜなら《巨人》の眼下には海原に点在する島々のように雲が浮かんでいるからである。内部に収められた大容量バッテリーによって駆動する《巨人》は腰部と肩胛骨部にコネクトされた高出力バーニアによって大空高く飛翔し、ラジエータープレートを兼ねた大型の可変翼による揚力で鳥人の如く飛翔していた。人の如き鋼鉄の四肢と頭部に収められた“目”であるカメラアイを備えた《巨人》―Main Offensive Large Loader、通称「M.O.L.L.」である。
空中戦闘仕様M.O.L.L.「イカルガ」の編隊が月之宮学園都市の遙か彼方の上空を飛翔する。三機のイカルガはまるで定規で線を引いたように一直線に飛行し、そのあとに飛行機雲を残していた。これから警戒飛行に入るのだろうか、その方角は東―東京湾である。つい先日、同盟国アメリカからの物資輸送タンカーにWRFの工作員が潜入していたとニュースで派手に報じられていたことは記憶に新しい。ニュースではその詳細こそ語られなかったものの、SNSを中心に「悪天候による視界不良を利用してタンカー上空から潜入した」と言うスパイ映画顔負けの潜入を行ったという噂が流れた。あまりにも荒唐無稽で、危険極まりない方法であったが、わざわざM.O.L.L.を出動させてまで警戒飛行を行うとは、連合軍の参謀はその噂を鵜呑みにしているのか、それとも何らかの確信があるのか、はたまたそれとは無関係なものなのか。―おそらく大半の人々は気に留めもしない。
シノノメ ユウトは月之宮学園高等学校の片隅、新緑の葉々が映える紅葉の木の足下に腰を下ろしてM.O.L.L.の残した飛行機雲を眺めていた。「今日は三機だ」ユウトは誰にともなく呟く。昼休みの食後、この紅葉の木の足下で読書をすることは彼の日課だった。最近はそれに加えて、警戒飛行を行うM.O.L.L.の数を数えることも日課となっている。一週間前は五機。三日前から四機。今日は三機。四日後にはまた一機減るのだろうか。
彼はM.O.L.L.の機影が校舎の向こうに消えるのを見届けると、山吹色のブックカバーで覆われた文庫本をスピンを目印に開く。一昔前のテレビゲームを題材にしたSF小説。テロリストに占拠されたプラントへ秘密工作員が潜入すると言う、スパイ小説である。21世紀初頭に発表されたストーリーであるがそのSF考察は見事で、特に主人公が己の過去を突きつけられ、苦悩する展開は非常に引き込まれた。これでこの作品を読み返すのは三度目である。ストーリーは全て頭に入っているし、何処でどのような台詞が挿入されるかも覚えている。だが、近年出版されている粗製濫造された、ありふれた内容の小説にわざわざ金を出すくらいなら、この素晴らしい小説の世界に何度も入り込む方が良い。三度目の物語は序盤を終え、プラント内へ潜入した主人公が地獄の惨状を目の当たりにする場面にさしかかった。そして主人公はその惨状を引き起こした悪魔のようなテロリストに背後を取られ―突如現れた兵士がこう叫ぶのだ。
「伏せろ―!」と。
その台詞を読み終えた直後、ユウトの側頭部に衝撃と激痛が走り、それをまともに受けた彼の体は大きく右へよろけた。一瞬の衝撃に意識が明滅し、やがて左のこめかみに直撃したそれがサッカーボールであったことを理解する。「今の台詞の通り伏せていれば避けられただろうか」など、今更手遅れなことを考えながら。
「大丈夫か、おい?ちゃんと前見えてるかよ?」
こめかみを押さえながら起き上がるユウトの耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。心配しているようで、一切慈悲の気持ちの伝わらない、まるでこちらを小馬鹿にするような声が。そこに目を向けるや、やはりそれは月之宮高校サッカー部のエース、ドウミョウジ コウスケであった。身につけたビブスには、栄光の背番号5。月之宮高校サッカー部には最も実力を持つものにその背番号が与えられることが伝統であり、それを誇示するかのように昼休みのちょっとした戯れであるにも関わらずビブスを身につける彼はその行動が示すように自信家で過度な自己顕示欲の持ち主であった。それだけなら可愛いものだが、彼はそこに支配欲まで同居させているからタチが悪い。詰まるところ彼は“いじめっ子”であり、自らよりも立場の弱い、そして自らが気に入らないと判断した相手に対する嫌がらせや圧力に興じる悪癖があった。そしてその悪癖のターゲットは被虐者―他ならぬユウトだったのである。
「本に集中するのも良いけど回りには気をつけろよ。俺らだってプレイに集中してお前なんかに気を遣ってられねぇんだからよ」
「はい…分かってます。……気をつけます」
「本当は狙って蹴ってきたんだろ」ユウトは決して口にすることなく、その悪態を心の奥に封じ込めた。このようなことは今日に始まったことではない。ロッカーに荷物をしまい込むだけで肩をぶつけられたり、食堂で食事中に「手が滑った」と良いながら食べかけのトレイに牛乳をこぼすなど、幼稚で、悪質な嫌がらせを受けることは日常茶飯事だった。原因は分からない。コウスケとて理由無くこのようなことをしているわけではないだろうが、少なくともユウト自身に嫌がらせを受けるような心当たりはなかった。―だが、「やめろ」、「謝れ」などと言ったところで、彼がこの嫌がらせをやめるわけが無く、言えば余計に事態をややこしくすることは明白であった。その例を何度も見ている―全てより悪い結果を招くだけであるが。だからユウトはどのような仕打ちを受けても、ただ耐えるという選択を貫いた。決して逆らわない。決して事態をややこしくしない。
そう、決して。
ユウトはサッカーボールを拾い上げると、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべながら歩み寄るコウスケを見やった。背後には取り巻き―腰巾着と言っても良い―を引き連れ、自身を慕い、自身に支配されている者がどれだけいるかということをこれでもかとアピールしている。
「そろそろパシフィク・リム・カップですよね。…試合、頑張ってください」
こう言うときは適当な話題でおだてておけば穏便に済む。
「おう。まぁお前はサッカーのルールも分からないと思うけど、俺の活躍を見逃すなよ。見逃さなければ、だけどな」
いちいち嫌みを差し込んでくる。彼の脳には嫌み辞典でも入っているのか。
「えぇ、分かってますよ。…この間の大会みたいなミスはしないでくださいね」
作り笑いを浮かべながら答える。だが、ユウトはその言葉を耳にしたコウスケの表情が変わったことを見逃さなかった。―しまった、地雷を踏んだ。
この間の大会のミス―優勝を決定するその試合、緊張したのか、はたまた単に気づかなかっただけか、コウスケはユニフォームの前後を間違えたままコートに入場したのだ。先に気づいたのは観客とスタンドの面々だった。彼はあくまでエースらしく冷静に、そして好漢を演じながらユニフォームを着替え直したが、たったそれだけのミスが、彼にとっては恥辱に他ならなかった。彼の取り巻きの一人が笑い話程度でその顛末を話題にあげた翌日、その取り巻きが被虐者の一人になったのは記憶に新しい。そんな話題を既に被虐者であるユウトが口にすればどうなることか―それはこれから分かることだ。今まさに口にしてしまったのだから。
「…んだと……!」
明らかな苛立ちと怒りを表情に浮かべたコウスケはユウトの手にするサッカーボールを平手で叩き落とし、圧力をかけるように迫り寄った。
ユウトはその迫力に根負けし、一歩下がるが、それでも彼の間合いであることに変わりはなかった。コウスケのほどよく引き締まり日に焼けた腕が彼の襟元を捕らえ、グイと引き寄せる。怒りに眉を痙攣させたコウスケの顔面が目と鼻の先に迫る。今から謝罪すれば彼の怒りは修まるだろうか?否、不可能だろう。取り巻きをいともあっさりと切り捨て、ターゲットの一人にするような男だ。自らの逆鱗に触れた被虐者に対して慈悲の気持ちなどあるわけもないし、謝罪を受け入れるような寛容さもあるわけがない。「殴られる―」そう悟ると彼の拳に自然と力がこもり、来るであろうコウスケの鉄拳に身構えた。
「あんたたち、なにしてるの!?」
だがそれよりも先に割り込んできた凛とした声にユウトの、コウスケの視線が声の主へ向けられた。
「ドウミョウジ…あんたまたユウトにちょっかい出してんの!?3年が1年に手ェ出して…あんた恥ずかしくないわけ!?」
声の主―カイドウ ミノリはコウスケの反応を待つまでもなく二人の間に割って入り、ユウトを戒める手を振り払うとコウスケを突き飛ばした。「ユウト、怪我はない?」肩越しに背後のユウトに問うと、彼は視線を外してから、しばらくの間を置いた後に小さく頷く。それを見止めると、再びその視線をコウスケとその一味に向ける。体ばかりが成長した、幼稚な子供どもに。
その視線を受けたコウスケはちっと大げさな舌打ちをして見せ、ミノリとその背後で視線を落とすユウトを見やり、蔑むような笑みを見せ、嫌みったらしく答えた。
「良かったなぁ1年生、大好きなミノリお姉ちゃんが助けに来てくれたぜ。ほら、お姉ちゃんと一緒に保健室でも行ったらどうだ?……優しくしてくれるかも知れないぜェ」
「ドウミョウジ、あんた―!」怒りを隠すことなくミノリは食ってかかるが、それを遮るようにユウトが彼の言葉に応えた。
「大丈夫です、本当に…それと…さっきはごめんなさい。怒らせるつもりは無かったんです……」
ユウトはミノリとコウスケの間に入るように歩を進めると、一度彼を見据え、深く頭を垂れた。そして再度告げる。「ごめんなさい」と。ミノリはその態度に唇を噛み、対するコウスケは頭を下げるユウトを見下し、鼻で笑うと背を向け、取り巻きの間を抜けてコートへと向かった。取り巻きの一人がサッカーボールを拾いあげ、別の取り巻きがユウトの足下に唾を吐き捨てる。ようやく嵐が去った。落ち着いて読書の続きができる―わけがなかった。
ミノリは彼の手を取ると紅葉の木の下へ強引に引っ張り、彼の目を見据えて告げた。
「どうしてユウトが謝る必要があるのよ!ドウミョウジがわざとボールを蹴ったことくらい分かってるでしょ!?」
「本当に僕を狙ったかどうか分からないし……それより、なんで―」
「ミノリ姉ちゃんがここにいるのさ」ユウトはその一言を口にすることができず、言い淀んだ。
コウスケが馬鹿にするように口にした「ミノリお姉ちゃん」というのは皮肉でも嫌みでもなく紛れもない事実であり、ユウト自身が実際、そのようにしてミノリの名を呼んでいた。親同士の親しかった二人は幼い頃から共に遊び、ミノリはユウトを弟のように可愛がり、ユウトはミノリを姉のように慕っていた。端から見れば本物の姉弟のようだったろう。ユウト自身もその例外でなく、物心がついたときには彼女を「ミノリ姉ちゃん」と呼び慕っていた。
だが、時が移ろい二人も成長する。ユウトは16歳に、ミノリは18歳に。そしていつ頃からか、彼はミノリを呼び慣れた「ミノリ姉ちゃん」で呼ぶことを抵抗を覚えはじめていた。その原因は恥じらいと、コウスケのような自らを見下し、嫌がらせの対象とする者から標的になる恐れである。しかし彼がその呼び方を避けるには既に遅く、浸透しきった「ユウトはミノリをお姉ちゃんと呼ぶ」と言う事実は瞬く間にコウスケの耳に届き、今回もまた、嫌みをたたき込まれることとなった。
その事実を突きつけられる度、ユウトは痛感する。「僕はいつまでお姉ちゃん子なんだ」と。
「……なんで、って…なによ」
言い淀んだユウトに不満げなミノリは厳しい視線で彼の目を見据えた。彼を非難するような視線。それでいてどこか慈しみを含んだ視線。―それが彼には苦痛だった。
「なんでもないよ」と彼女の視線から目を外しながら答えると、砂埃にまみれた文庫本を拾い上げ、手で表面の砂を払った。どのページでコウスケからの妨害を受けたかは感覚で覚えている。指先でおおよそのページを開くとその前後に該当するページを見つけ、スピンを挟み込むとショルダーバッグにしまい込んだ。―もう今日は読書を続ける気分ではない。「もう教室に戻るよ」と告げると、ハンカチでこめかみを押さえながら、昇降口へと向かった。
「ッ…ユウト!保健室に行かなきゃ!」
「大丈夫だよ…血も出てないから」
「多分」ユウトはミノリに聞こえないように小さく付け加え、歩を進める。頭がずきずきする。午後の授業に支障がなければいいが。そもそもこのモヤモヤとした気持ちで午後の授業を受けられるか。ミノリの声を背に受けながら、考えるのはそればかりだった。
「ッ…いててっ……」
「少しぐらい我慢しなさい。男の子でしょう?」
ミノリの強引さは子供の頃から味わっているつもりだったが、手負いの相手にも一切容赦をしないというのはさしものユウトにも予想外だった。昇降口をくぐった時点で彼女の手はユウトのショルダーバッグを掴んで離さず、半ば引きずり込むようにして彼を保健室へ連れ込んだのだ。だが、今回もその強引さは正解だった。コウスケによって見舞われた一発によって彼のこめかみは擦り切れ、僅かだが出血を伴っていたのだ。すぐさま保険医、クスノキ キョウカが傷口を消毒し、その隣ではミノリが「言わんこっちゃない」、「隠しきれると思ってたの?」、「ばい菌が入ったらどうするの!」とお小言を並べ、その度にキョウカから注意を受けている。
「はい、これでおしまい」消毒を終えた傷口の上に防菌パッドを貼り付けると、キョウカの手がユウトの頬を一度撫でる。頬を赤らめたユウトが軽く頭を垂れると、キョウカは優しげな笑みを浮かべ、備品を片付けながら二人に問うた。
「今日はどうしたの?またドウミョウジくんにやられた?」
「そうなんですよ!ドウミョウジの奴またユウトにちょっかい出してッ…ホンットにヤな男ですよ!あんなのがうちのサッカー部のエースなんて……!」
「だいたいドウミョウジの奴は―」語気を強めたミノリは溜まりに溜まった不満をキョウカにぶちまける。要約するとその内容は「偉そうにしてるけど実際内弁慶で自分より強い相手には媚びへつらう最低な男」と言ったものだ。大分誇張された表現もあるが、本筋はその通りであるし、ユウトもキョウカも部分的にではあるがその言葉に納得している。
だが、いつまでも彼女の愚痴を聞いている余裕はユウトにはなかった。一刻も早く、ここを離れたい。―より正確には、ミノリから離れたい。ユウトはミノリの愚痴が小休止を迎えたのを見計らうとショルダーバッグを手に立ち上がった。
「ありがとうございます、キョウカ先生。ミノリ…姉ちゃんも……それじゃあ、これで」
「ちょっと、ユウト―!」ミノリの制止する声も聞き入れず、ユウトは逃げ去るようにして保健室をあとにした。ピシャリとドアが閉められ、それを見届けたミノリは不満げに先ほどまでユウトの座っていた丸椅子に腰を下ろす。
「……不満そうね、ミノリちゃん」
キョウカはまたいつもの優しげな笑みを浮かべると、備品棚から個人用のマグカップを二つ取り出し、卓上のコーヒーメーカーからコーヒーを注ぎ、その一つをミノリに差し出す。彼女はそれを受け取ると、手のひらでマグカップを包み、不満げに答えた。
「当然ですよ!ドウミョウジもムカつきますけど、ユウトだってユウトです!だって…ただ本を読んでただけなんですよ!?なにもしてません…それなのにあんなの……」
「……優しいのね、ミノリちゃん。…けど私、一つだけ気になることがあるんだけど…聞いても良いかしら」
「?……はい…なんでしょうか」
キョウカは一口、コーヒーを口に含むと、それを飲み干してからミノリの目を見据えて問うた。
「……どうしてユウトくんとドウミョウジくんのトラブルにミノリちゃんが割り込んだの?」
「それは―」キョウカの問いにミノリは言い淀み、視線を落とす。吸い込まれるような黒いコーヒーの水面に映った自分自身に。
些細なことだった。昼休み、友人らと教室で談笑していた際にたまたま視界の隅にいたユウト。彼女は友人らとの語らいをおろそかにするでもなく、自然と読書にふけるユウトに注目していた。そんなときだった。コートでサッカーに興じていたドウミョウジとその一行が突然ゲームを止め、何かを企みはじめたのは。その頃には、彼女は既に友人らの語らいを半ば無視し、ドウミョウジの企みを気にするばかりだった。ドウミョウジの指さすその先には他でもない、ユウトがいた。そして彼はボールを足下に置くと、試合のPKでも見せたことの無いような華麗なフォームでボールを蹴り飛ばし、綺麗な弧を描くボールは非情にもユウトのこめかみに叩き付けられたのだ。そこで彼女の怒りは沸点に達した。頭の奥で何かがプツリと音を立てて切れたのを感じると、自らを心配する友人らを無視し、一目散に階段を駆け下り、校庭へと向かった。そして放たれた第一声こそが「あんたたち、なにしてるの!?」である。
なにも彼女には関係なかった。ただ、ユウトを視界に捉えてしまっただけ。それなのに、いつの間にか問題の渦中に自分もいて。
「……ミノリちゃんが言いたくないのならそれで良いけど…人生の先輩として、厳しいかもしれないけど、一つ言わせてもらっても良いかしら」
「…はい……?」
「……ユウトくん、ミノリちゃんのこと…避けてるわよ」
キョウカの言葉にミノリの体がこわばる。大きく吸い込んだ息が胃の中に充満するだけで吐き出せない。自分でも分からないほど小さく手が震え、マグカップのコーヒーが小さく波を立てている。ユウトが避けている。あのユウトが、私のことを。
「そんな、なんでっ……」
「それはね。……ユウトくんが男の子で、ミノリちゃんは女の子だからよ。あくまで赤の他人の、男の子と女の子だからなの」
「それだけで…ですか……?」
「えぇ、それだけでね。……けどそれって、彼にとってはすごく重要なのことなのよ。彼ぐらいの年頃って一番多感な年頃で、異性とか、友達とか、家族とかの目をすごく気にする頃なの。…要するに、思春期って奴ね。そんな時期に女の子に庇ってもらったり、助けてもらったりする男の子って…どうかしら。私がユウトくんの立場だったら…すごく複雑だと思うのよね」
「…でもっ…あのとき私がいなかったら、きっとドウミョウジに―」
「えぇ、もっと酷い目に遭わされていたかも知れないわね。…けど、人はそうやって強くなるものよ。護られてばかりでもいけない…自分一人の力で解決すべき時もあるの。ミノリちゃんは優しいけど…優しすぎて、ユウトくんが自分の力で解決するチャンスを奪っているようなものなのよ?」
キョウカの言葉を一つ一つ受け止めながらミノリは思い返す。事ある毎にコウスケからの嫌がらせを受け、暴力を振るわれる度、その間に割って入ったのはミノリだった。そうなると大方、コウスケが一方的に捨て台詞を吐き捨てて去っていくか、ユウトが謝罪をしてトラブルは終わる。ユウトを護ろうとコウスケに食ってかかっているが、結局なにも変わらない。コウスケが一方的な勝利を勝ち取りユウトが屈辱を受けるというそれだ。助けたことになどならない―ユウトを庇うことで、彼自身に辛い思いをさせているだけだった。
「過保護すぎたってこと―」視線を落とし、先ほどまでとは打って変わってか細い声で呟くミノリに、キョウカは続けた。
「…だからって、ユウトくんを突き放せっていうわけでもないわ。ただ、いつもより一歩引いて見守ってあげてほしいの。……手を貸すのは、本当に手を貸すべき時まで取っておくの」
「本当に手を貸すべき時―?」彼女の言葉にミノリは顔を上げ、キョウカの目を見つめた。
「それっていつですか?どんなときに……?」
「……それはいずれ分かることよ。だってあなたは…ユウトくんを誰よりも知っているんだから」
キョウカは最後に優しく微笑み、コーヒーを飲み終えたマグカップを備え付けられたシンクへと片付けた。「そろそろ午後の授業が始まるから、飲み終わったら教室に戻りなさい」彼女の言葉にミノリはハッと手のひらの中のマグカップを思い返し、すっかり適温になったコーヒーを口に含む。
―本当に手を貸すとき……
キョウカの言葉を反芻しながら、ミノリは思い悩む。本当に手を貸すときはどんなときなのか。どんな状況なのか。いつなのか。まったく見当がつかない。昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。校庭の生徒たちが昇降口へと向かい、廊下からも慌ただしく行き交う生徒たちの足音が聞こえる。だが、今の彼女の耳にはそれすらも届かない。少なくともこれだけは言える―午後の授業内容は、頭に入りそうにない。
予鈴がちょうど鳴り終えたのと同時に教室にたどり着いたユウトはドアをくぐるや否や大きくため息をついた。―散々な昼休みだった。まさかコウスケに嫌がらせを受けるとは思わなかったし、そこにミノリが現れるとも思わなかった。ただ読書をしようとしていただけだというのに。次からはもっと落ち着いた―より正確には嫌がらせを受けない―場所で読むようにすべきか。そもそも読書自体控えるべきか。ユウトは再度大きくため息をつくと、ショルダーバッグを机の上に放り出し、ぐったりと席に腰を下ろした。―その刹那。
「イ゛ッ!?」
電流。そう言うのが適切だろう。バチッと言う音と共に首筋にちくりと針で刺すような痛みが走り、ユウトは首筋を撫でながら背後に振り向いた。そこには無邪気な笑みを浮かべる男がいた。手にライターほどの聞きを手にした男が。
「ケンジッ…今度はなんだよぉ?」
「へっへっへェ、スゲーだろ?お手製スタンガンだぜ。…威力は大分下げてるけどな」
シンジョウ ケンジは手にした手製スタンガンのスイッチを入れると先端の電極の間で光る火花をユウトに見せつける。高校入学以来の友人であり、ユウトが“友達”と呼べる数少ない生徒。人なつっこく気立てが良い性格でクラスのムードメーカー。何処からか仕入れた知識と何処にでも売っているような雑品で今回のようにいたずらグッズを作り上げては女子生徒たちにちょっかいを出し、教師の大目玉を食らっていた。だが彼は、コウスケやその他の自らの支配欲を満たすためにそんなことをしているわけではなく、友愛の気持ちを持って、いたずらに興じている。それを誰もが理解し、ユウトもその例外ではなかった。だから今のようなイタズラをされても許すことができる。―痛いのは事実であるが。
「っつーかお前どうしたよそれ?また3年の脳筋にやられたのか?」
ケンジが手製スタンガンで傷跡に張られた防菌パッドを示すと、ユウトは本能的に頭を下げて身を守った。無論、頭に一発食らわせるつもりがないのは分かっていても、防衛本能が勝手に働いてしまう。ユウトはため息をつきながら「そうだよ」と答えると、ショルダーバッグを机の脇のフックにかけ、机に備え付けられたラップトップを起動した。天板の中央がノートPCのディスプレイのように展開し、それに隠されていたキーボードが上面にせり出す。それと連動してディスプレイの右上にカードリーダーが飛び出すと、そこに学生証を挿入した。ディスプレイにユウトの氏名、クラス番号、授業内容が一覧となって表示され、「出席を確認しました」と言うメッセージと共に世界史のテキストが表示される。
「手痛くやられたなぁ、なんか気に触れるようなことでも言ったのかよ?」
「これの原因じゃあないけど、言ったのは間違いない…かな」
「ったく…これだから脳筋野郎は嫌だねぇ。やることったら嫌みか暴力か女を侍らせることしかねぇんだから」
「まぁ俺も女は侍らせたいけど」最後にケンジは付け加え、その言葉にユウトも苦笑を浮かべる。
授業の本鈴が鳴り、既に生徒は皆それぞれの机に着いてラップトップを起動させていた。しかし、教師の姿は現れない。「珍しく遅ェな」背後のケンジも頬杖をつきながら愚痴をこぼしはじめた。確かにケンジの言うとおりだ。世界史の担当教諭は時間にストイックなことで知られている―予鈴が鳴ったら既に教室に待機していることもあるくらいに。5分、10分と時計の針も進み、生徒たちも不満をこぼし始める中、各々のラップトップからメッセージコールが鳴り、学年主任からのメッセージを一斉に受信した。
《1-D生徒各位へ。本日の昼頃、WRFより都市地下鉄路線への爆破予告があり、現在各地下鉄及び鉄道路線が運行休止となっています。世界史担当のイシカワ マナブ先生も運行休止に巻き込まれ出勤が困難となっているため、本日は自習とします。―学年主任:フクシマ イサオ》
「なんだ今日来ねぇのかよォ、だったら昼休みでばっくれりゃあ良かった」
ユウトの背後でケンジが不満げに愚痴をこぼすと、それを引き金に教室のあちこちから「教諭が来ない」、「授業を受けずにすむ」と言う事実に対する嬉々とした声が上がった。生徒たちにはもはや自習を進めるという姿勢は全くなく、ラップトップを閉じ、各々の方法で時間を潰し始めた。ある者は漫画本を読み、ある者はわざわざ教室の反対側まで移動して友人と雑談を楽しんだり、ある者はラップトップを閉じて机に突っ伏し昼寝の続きを始めたり―ユウトとて、その一人であることに違いはなかった。勉強は確かに重要だろうが、どうせ拘束されない自由な時間ならば今は読書の続きをしたい。あくまでラップトップは閉じず、自習を装いながら、彼は文庫本のスピンに沿ってページを開いた。昼休みの事件の始まりとなった「伏せろ―!」の台詞。今度はそんな必要もなく、彼はその続きを読み進める。
「ったくこういうことは早く教えろってんだよなぁ」一方のケンジは、他の生徒たちが各々の方法で時間を潰している中、一人不満げに机に突っ伏していた。彼にとっては教室でこうして拘束されていること事態が苦痛であり、できることならば昼休みの時点でさっさとばっくれる―詰まるところ無断早退したいところだったのだ。もし学年主任からのメッセージがもっと早く届いていれば、せめて予鈴の鳴る前に届いていれば、早々に学校を抜け出していたというのに。
「WRFの連中も地下鉄と言わずもっと拠点を狙うって予告すりゃあ良いのによぉ。例えば…それこそ学校とかよ。…なぁユウト」
「馬鹿なこと言うなよ。……いくらサボりたいからって…学校が狙われたら命がないじゃないか」
ケンジの愚痴にユウトは振り返ることなく答える。単なる愚痴なら良い物の、不謹慎なことこの上ない。もし本当に学校が爆破の標的となったら、学校をサボるとか、そう言う次元の話ではなくなってしまう。だが彼は一切悪びれる様子もなく、「そうだけどよぉ」と答えながらヘッドロックを仕掛けてきた。もちろん本気ではない、戯れの力加減でユウトの首を締め上げ言葉を続ける。
「連中、爆破予告はする割りに一回も実行したことねぇだろ?実際に連中の工作員が捕まったのも精々離島…都心部で連中が行動を起こしたことなんて一度もありゃしねぇ。この間の輸送船に潜入した工作員だって船内で捕まったわけだしな」
「……爆破予告は全部ブラフで、本当はそんなつもりはない…ってこと?」
「あぁそうさ!」ケンジはヘッドロックを解くと、今度は肩を組むようにしてユウトを引き寄せ、まるで密談でもするような小声で続けた。
「これだけ予告をしておきながら行動を起こさなければお偉方も油断し始める。そこで本命をドンッ!だ。これは連中の作戦なんだよ!」
また始まった。ユウトは熱を帯び始めるケンジの熱論にため息を漏らす。
ケンジは根っからの陰謀論者であり、ニュースを始めとしたマスメディアの情報を当てにせず、何処をソースとしたかも分からない如何にも怪しげで荒唐無稽な論説を信じる傾向が強かった。大きな事件が起こる度にユウトを相手として独自の陰謀論を声高に演説し、ユウトのみならずその様子を傍目にする生徒たちの気力を奪っていった。
そして今回もその演説が始まったわけであるが、今日ばかりはそれを相手にしてやるほどの余裕がユウトにはなかった。昼休みの一件以降、とにかく今は気持ちを落ち着けたい。
「分かったってば…その話はあとで聞くから」
ユウトはケンジの腕を振りほどき、机と向き合って小説を開く。ふと窓越しの空に視線をやると、三本の飛行機雲が青空に描かれている。先ほど彼が見送ったM.O.L.L.の編隊が描いたものである。
「……戦争、か」
ユウトはM.O.L.L.の描く飛行機雲を眺めながらぼんやりと呟く。
彼ら学生の世代にとってはごく当たり前の光景であったが、彼らの祖父母の代の人々は口を揃えて「昔はこんな物騒ではなかった」と答える。そして彼らは必ずこう続ける―「太平洋一帯の国々が統一されてからいつもこうだ」と。
「環太平洋統一連合」と呼ばれる国際組織が設立されたのはおよそ四半世紀ほど前の出来事である。当時の列強諸国の一部は自国の繁栄と他国との共栄、そして平和と安全を維持するために、それまでの国家の枠組みを超えた、より巨大な統制機関を必要とした。それが環太平洋統一連合である。当時はその名が示すとおり環太平洋地域に属する国々を中心として設立されたものであり、その規模は徐々に拡大、今や環太平洋地域外の国々も加盟していた。連合諸国は政治的な意味合いでの国境が廃され、共栄と平和に向け大きな一歩を踏むことに成功した。
だが、それで世界平和が実現したわけではない。
南アメリカ、アフリカを中心とする非加盟国と連合諸国との間に摩擦が生じ始めたのである。そもそも非加盟諸国が連合への加盟を拒否した理由の一つが天然資源にあった。南アメリカは世界有数の鉱物資源国であり、アフリカもまた、それに匹敵する天然資源を有していた。連合へと加盟することでそれらが世界に分散配分されることを彼らは拒んだのである。
当初こそ会談による連合への加盟を求めた連合諸国であったが、非加盟国が頑なに連合の傘下に下ることを良しとしないことを知るや、その方法は少しずつ、だが確実に強硬な形へとシフトしていく。入国の制限、国内企業の撤退、輸出入の停止―それは明白な経済制裁であり、非加盟諸国はこの処遇に反発、連合諸国との間には深い軋轢が生じることとなった。非加盟諸国の国内は大きく荒れ、政権はその怒りの矛先を避けんばかりに公の場で連合を非難、打倒連合を謳う世論は日に日に増す一方であった。
そうして発生したのが8年前の戦争―「環太平洋戦争」である。非加盟諸国と一部の連合加盟国との間で引き起こされた世界戦争は両陣営の痛み分けで終わり、5年物間続いた戦いは両者の合意の下で停戦、一応の決着はついたかに見えた。しかし、その停戦を良しとしない一部将校がゲリラ化し、「WRF―World's Resistance Front―」を名乗り連合諸国に対する無差別なテロ行為を実行したのである。WRFによる無差別テロは瞬く間に世界へと拡散し、実態の見えない彼らの攻撃に連合は為す術もなく、終戦から8年の時を経ても尚、WRFとの終わりのない戦いを続けていた。
5年間の戦争と8年間の対テロ戦争。足かけ13年にわたる戦いは、学生である彼らにとってはもはや日常的なものとなりつつあり、M.O.L.L.の警戒飛行や治安出動程度で動じる学生など、今日日存在しなかった。例え犯行予告が発せられたとしても精々M.O.L.L.の治安出動が関の山で実際にテロ行為に遭遇したことは一度もない。戦いは全てテレビやラジオ、インターネットの向こうで起きていることなのだ。今尚戦争が続いていることが事実だとしても、実感することなど出来るはずもない。
上の空で飛行機雲を眺めていたユウトの耳に授業の終わりを告げる鐘の音が届く。生徒たちは鐘の音が鳴り終えると同時に各々のバッグを手に帰路へと着く支度を始めた。雑談は授業中のそれよりもボリュームアップし、喧騒が教室に溢れる。それに負けじと、教壇の前にあった少女が声を張り上げた。学級委員長のマキセ マナである。
「みなさーん!明日は社会科見学ですからねー!先日渡した資料を忘れないようにーっ!」
「遅刻も厳禁でーす!」マナのよく通る澄んだ声は教室中に響き、何人かの生徒が返事をしながら教室を去っていった。
「さぁーってと。そろそろ帰ろうぜ、ユウト」
既に帰宅の準備を終えたケンジがユウトの肩を抱くと、ショルダーバッグを背負ったばかりのユウトを強引に廊下へと連れ出した。去り際に教室に残った生徒たちへ「バイビー」と捨て台詞を残しながら。
「そう言えば明日は社会科見学だった―」ユウトはマナの言葉を思い返す。特に理由もなく、一番最初に目についたという理由で選択した見学先は連合日本軍兵器工廠。今回の社会科見学のためにわざわざ一部エリアを開放したというもので、ケンジ曰く「今回の目玉」であった。ケンジにとってすればM.O.L.L.を始めとしたラージローダーの建造現場を目の当たりに出来るかも知れないが、ユウトとしてはごくありふれた社会科見学の一つでしかない。
―…まぁ、普通の授業よりは楽しいだろうな
ユウトは苦笑すると、ケンジの手を丁重に振り払い、夕焼けの差し込む廊下を進んでいった。
暗闇の中、天井から差し込む夕焼けの光が《男》を照らしていた。
《男》は屈強な肉体に一つも衣服を纏うことなく、パイプ椅子に縛り付けられる形で腰を下ろしていた。《男》の全身には打撲痕が浮かび、特にその顔面はもはや身内のものですらその判別が出来ないほどに腫れ上がっていた。その上に刻みつけられたような火傷の数々―それらは《男》が長期間にわたる拷問を受けていたことを示している。
ギィ、と暗闇の中に金属の軋むような音が響き、《男》は視線をあげた。暗闇に姿が隠れているが、それは紛れもなく《奴》であると《男》は確信した。
「……君の協力に感謝する」
《奴》は静かに告げると、暗闇の中で何かを開き、それを《男》に示した。ラップトップのディスプレイだ。
《男》はそれを見やると目を見開き、驚愕した。
「馬鹿な、なぜだ…俺は話していない…俺は一言も話していないぞ!!」
暗闇の中に《男》の声が反響する。
だが《奴》は、くつくつと笑いながら続けた。
「君は痛みに耐えかねパスワードを教えてくれたんだよ。目もうつろで、視線も定まっていなかった…無意識だったんだろうな。…なに、自分を責めるな。仕方ないことだ」
《奴》の言葉に《男》は言葉にならないうめき声を上げながら拘束から逃れようと全身を揺さぶった。だが体を揺さぶり、捻る度に彼の体を戒める荒縄が食い込み、その肌をすり切っていく。痛めつけられた肉体でも尚、その痛みはリアルに実感できた。しかし、今は痛みに屈する場合ではない。何としてでも《奴》を止めなければならないのだ。
だが、《奴》にとってその抵抗は醜悪を以て他ならなかった。《男》の放つ悪臭、傷だらけの体、そして何よりも、環太平洋統一連合士官という肩書き―全てにおいて腹立たしい。《奴》はスーツの内に縫い込まれたホルスターから一丁の拳銃を抜き放つと、流れるような動作で《男》の額に狙いを定め、引き金を引いた。
サプレッサーによって抑制された銃声が暗闇に響き《男》の首を弾丸が貫く。
《男》は喉にぽっかりと空いた銃創から血と、己の命が流れ出ていくことを実感しながら、がくりと項垂れた。その視線が、《奴》が彼の足下に放り投げた“それ”を見止める。“それ”は医療用の注射器―それが意味することは一つだった。自白剤だ。
―…畜生……
こんな一本の注射器に俺は屈したというのか。それを口にすることも出来ず、《男》の意識はそこで途切れた。
《奴》は《男》が息絶えたのを確認すると、ラップトップのディスプレイを向き返し、そこに表示された施設の見取り図を見やる。「連合日本軍兵器工廠《ザ・ホール》」と銘打たれた見取り図を。
「そう言えば、言い忘れていたな。……ありがとう」
ディスプレイの光が、顔面に深い傷を刻まれた《奴》の表情を照らしていた。
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