シャンヴリルの黒猫
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39話「クオリ・メルポメネ・テルプシコラ (3)」
誤解が解けると、わたしたちはすっかり意気投合してしまって、それこそ朝から晩までずっと図書館に入り浸っては魔導書の解読につとめました。
もとからわたしの方が知識は深かったので、むしろ彼の為の魔法講座といっても過言ではなかったかもしれませんね。
そしてある朝、わたしが図書館に行くと、まだ早すぎたのか、彼はいませんでした。そのころ里は涼しい場所にあって、早朝は一枚羽織ってもまだ肌寒いくらいでしたから、わたしは図書館の中で彼を待つことにしたんです。
それまでずっと黙っていたユーゼリアが首を傾げた。
「『そのころ』って? 他にもあるの?」
「エルフは大陸中を転々とします。里は移動するんですよ。と言っても、引っ越しの頻度は年に1回あるかないか程度ですけど」
すらすらとクオリは答える。
「何年も同じ場所に止まっていたら、いつ人間に数で押し切られるか分かりませんから」
広くは知られていないが、例えば奴隷商などエルフの動向をよく調べている者であれば、この引っ越しについては特に真新しい情報ではない。
エルフの方もそれは承知しているので、クオリは何の気概もなく話していた。
対してユーゼリアは、エルフのその人間への警戒ぶりを知り、一部の富裕層の人間と、彼らを客とする奴隷商達に対する憤怒と悲しみの感情を持て余していた。それに気づいたクオリが笑ってフォローする。
「ああ、気になさらなくて結構ですよ。生まれたときからやってきたことですし、殆どのエルフはそういうものと割り切っていますから。…それより、話を続けましょう」
図書館には2種類の本がありました。1つは誰でも閲覧可能な、一般の魔導書。もう1つは、“立入禁止”の階に置いてある特別な本です。その本は一体何なのか。知っているのは、魔導書を護る一部の高位の司書と、一部の高い地位にいる者たちのみでした。父も、知らなかったかと思います。
わたしたちは、きっと貴重な魔導書なんだろうといつも階段の上を見上げていました。いつか、それを読んでみたいとも。
「そしてついにその朝、わたしは欲に負けてしまったのです」
寒さに図書館内に入ると、まるで100年の時が詰まったかのようなあの古書独特のにおい。早朝というのは深夜よりも余程人がその生の鼓動を静めるときでした。死んだような静けさの中、息をしているのは自分しかいないような錯覚を覚えるのです。
――今なら、誰にも見つからないかもしれない。
愚かなわたしは足音を潜ませて、例の“立入禁止”の階まで階段を上っていきました。そこはいくらかの障壁の魔道具があったのですが、たまたま魔力切れで障壁は張っていませんでした。毎日補給する魔力は、どうやら朝に司書か誰かが補給しているようで、本当に運の良いことに、ちょうど内蔵魔力が切れたときにわたしは階段を上ってきていたのです。
思ったよりずっとすんなり中に入れたわたしは、そこの蔵書の少なさに少し落胆しました。“立入禁止”の部屋は狭く、そうですね、シシームで泊まった宿の一部屋くらいの広さしかないのです。簡易ベッドとクローゼットをおいたらもう何も置けないような、小さい部屋。
ただ、当然その狭い部屋にはベッドもクローゼットも置いてありませんでした。あるのはびっしりと並んでいる書架。ぎゅうぎゅう詰めに本は入れてあり、入りきらないものは積み上げられて下に放置されていました。階下の整然と並べられた本と比べると、まったく扱いが悪すぎます。が、埃をかぶっている本からは、何か不思議な力が宿っているように感じました
「わたしは心を躍らせて近くの書架から本を一冊抜き取りました。今でも覚えています、開いたときのあの衝撃を。中には……」
ゴクリとユーゼリアの喉が鳴った。
「中には?」
「中には……航海記が書いてあったのです。手に取ったその本は、航海日誌でした」
「……は?」
拍子抜けしたようなユーゼリアの顔に苦笑すると、クオリは続けた。
なにしろわたしは未だ嘗て“海”という場所に行ったことは愚か、見たことすらなかったものですから、初めのうちはそれが何かの日記であることしか分からなかったのです。どうやら内容が海なるものについて書かれてありそうだと分かったとき、わたしはそれはもう落胆しました。幻滅と言っても良かったでしょう。
しかし次に湧いた疑問が、なぜこんなものがわざわざ結界を張ってまで立ち入りを厳禁した場所に置いてあったのか、でした。内容は名も知らぬ島々を巡った航海記。海の書物がエルフの里にあることも不可解でした。航海記の割に薄い本というのもひっかかりました。
そしてわたしがようやくそのことに気づいたのが、3日目の朝。あれから毎朝魔力切れの時間帯を狙って会員制の階に足を運んでいたわたしは、閃いたのでした。
封じられていた書架にあった本は、航海日誌に始まり、料理のレシピ、恋人との手紙のやりとりなど、まとまりが無く、本気でなぜこんなものが保管されているのか分からないものだらけでした。中には愛娘の成長日記なんてストーカーじみた内容のものまであったのです。……何月何日何曜日、愛しい愛しい我が娘が今日はいつもより7分遅い起床だった、とか、今日は娘が学校で鉛筆の芯を2回折った、とか。
わたしが閃いたきっかけは、あまりにも関連性の無さ過ぎる本達が同じ場所に積んであった、ということでした。
あの本は全て、れっきとした魔導書だったのです!
全てが独自の暗号で書かれており、解読は難を極めましたが、とうとう最初の1冊――あの航海日誌でした――を読み解くことができたのは、わたしが秘密の階に通い始めて半年後のことでした。実は、家に持ち帰って解読していたのです。探知系の魔法がかかっていないと判断してのことですから、安心して。
「今なら有り得ない大胆さというか……怖いもの知らずでしたね。あの頃は…」
苦い笑みと共に漏らした言葉は、僅かな後悔を含んでいた。
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