呉志英雄伝
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第四話~副官~
長江上に霞が出始めた頃、江は最早日常と化した執務室での書類との格闘に精を出していた。
蓮華の初陣に参陣してから既に三年が経っている。ここ最近、江の傍らには江の仕事の様子をじっと見つめる思春と蓮華の姿があった。その視線には常に尊敬やら憧憬やらが様々な感情が宿っている。
…しかし今日は少しばかり様子が違うようだ。
「…少し聞いてもいいか」
「ええ、構いませんよ」
そんな中、蓮華が江に話しかけた。
江は何やらやつれた顔で、しかし視線を書類に落としたままそれに応じる。
「…何故焔と祭がいるのだ」
そうなのだ。
江が竹簡とにらめっこをしているすぐ横に何故か焔と祭が控えているのだ。
…いや、控えているという言い方は誤解を招くかもしれないのではっきりといおう。
酒盛りをしているのだ。
「…こちらが説明していただきたいくらいです」
海よりも深い溜息をつく江の背中には、負の感情を体現するかのように巨大な髑髏が浮かんでいるように見える。
焔と祭という呉の宿将を前に口に出すことは憚られたが、蓮華と思春は江に深く同情した。
―――――――――――――――――――――
早朝から取り掛かっていた仕事は昼過ぎには終了した。
竹簡の山と戦うこと、そしてその最中に祭と焔が茶々を入れそれに対処すること、その2つの事柄のせいで江は精神的に疲弊し、ゴトッと鈍い音を立てて机に突っ伏した。
物言わぬ屍に、思春はそっとお茶を供える。
「ところで母様に祭様、今日はどういったご用件で?」
疲れきった表情だけを焔たちのほうへと向けて、江は問いかける。
それに対して焔は酒に頬を上気させながらも真っ当な答えを返す。
「あなたの副官について、ね」
「副官ですか?」
「そうじゃ。お主は既に国事に深く関わっておる。ならば副官の一人や二人、ついていてもおかしくはあるまい。それにちょうどいい娘たちがいてな」
祭もまた酒で頬を紅に染め上げながらも言葉を返す。
しかし、それに対する江の反応はイマイチだった。
「生憎仕事に関しては手が足りております。それに…」
そこで言葉を切ると、江はチラッと思春の方を見やる。
「副官をつけてしまったら、前々から私の下につきたいと言ってくれている思春があまりにも不憫です」
そう、江の一番の懸念は思春のことだった。
出会い方故か、思春は江に対して強い憧憬の念を抱いている。
そして江も蓮華の副官を立派に勤め上げたら、自分の副官にすると言ってしまっているのだ。
最近の蓮華は思春を気に入っているようで、思春は思春で蓮華に仕えることも満更ではないようだから、別段気にすることでもないのかも知れない。
しかし、それでも自分が懸命に努力して副官になろうとしているのに、その座をぽっと出の誰とも知れない輩に奪われるのは面白くないはず。
そう考えると自らの負担になろうとも、この提案を受け入れるわけにはいかなかった。
余談だが、このやり取りを見ていた思春は何やら惚けた顔で、「江様…」と普段からは想像出来ないほど女の子した声で呟いていた。
「はぁ………ねぇ、江?あなたは勘違いしてるわ。思春には文官としての補佐が出来ないでしょ?だからそこをやってもらうのよ」
「それでも…」
といいかけたところで、横から入った言葉に口を閉ざす。
声の主は意外にも思春だった。
「江様、お気遣い感謝いたします。しかし政務の量が膨大なのもまた事実。私のわがままでこれ以上江様の負担を増やすわけには参りません」
「思春…」
思春の言葉に、江は言葉を詰まらせる。
事の次第を見守った焔は、今一度江に言葉を投げかけた。
「それにあなたに副官をつけるのは決定事項よ。大人しくお受けなさい」
「…はい、母様」
思春の気遣いを無下にしたり、決定に逆らうという選択肢を持ち合わせていない江は大人しく従うこととなった。
江の承諾の意を聞き、祭も焔も満足そうにうなずく。
そして祭は江に尋ねた。
「ところで、お主が副官に求めるものは何だ?」
「呉への絶対的な忠誠、そして国事を担えるだけの能力、それだけ揃えば構いません」
そして江は即答で返す。
ちなみに『それだけ』と言っているが、一般的常識から見れば、この条件を満たす者は『逸材』である。
この辺りにも、江が自分に、そして他人に求めるモノが大きいことが表れている。
「…ならば性格や性癖の面では問題あってもいいのね?」
「?…別にかまいませんが?」
「そう、じゃあすぐ紹介しましょうか。ついてきなさい」
焔の言葉の中に不穏なものが含まれているような気がしたが、江は特にそれを気にかけることなく返事をし、そしてそのまままだ見ぬ副官の元へと向かうことになった。
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「姓は陸、名は遜、字は伯言です~」
「………諸葛瑾 子瑜」
通された部屋の中にいたのは翡翠色の髪をした少女と、黒い髪が目にまで達している小さめの少女が立っていた。
確かに後者の方は若干内向的には思えるが、別に問題するほどのことでもないように見受けられる。
それだけに先ほどの焔の言葉が江の思考の片隅に引っかかる。
「初めまして。姓は朱、名は才、字は君業………そうですね、この際真名も預けましょうか。江と呼んでください」
「「!」」
江の自己紹介に二人は驚きの表情を浮かべる。
その驚きはきわめて妥当である。何せ江と2人は初対面、そして江から見て2人は下の身分となるのだ。にもかかわらず、一目見ただけで真名を許したのだ。
そのことの異常性は誰にでも理解できるものだろう。
「あら、もう真名を許しちゃうの?」
江の横に立っていた焔が問いかける。
その表情には驚きは微塵もなく、むしろ笑みを浮かべている。それは祭にも言えることだが…
「ええ、母様たちの紹介する人たちですからね。それに眼を見ればある程度人となりはわかります」
「まったく………簡単に言ってくれるの。それがどれだけ難しいことかはおぬしも知っているじゃろう」
江の飾りのない言葉に祭は呆れ交じりの苦笑をもらす。そこへ、3人の会話に乱入者が現れた。
「………あなた、無用心すぎる」
スチャ
短い無機質な音が室内に響く。
「…これはどういったおつもりですか?」
未だに笑顔のまま諸葛瑾に話しかける江。
しかし先ほどまでとは違い、その首筋には不気味に光を反射する白刃が突きつけられている。
そしてそれを見守る祭や焔の表情にも変わりはない。
「………あなたは自分の立場を理解していない。既にこの呉において確固たる地位を築き、更に多くの国事に携わっている」
「ええ、それが何か?」
「それなのにもかかわらず、隙を見せ過ぎ…あなたはいつ命を狙われてもおかしくない立場」
「確かに命は狙われてもおかしくないですね」
でも
江は言葉を切ると、変わらない表情の中に有無を言わさない強い圧力を加えて、再び口を開く。
「それならば何故私は今生きているのでしょうか?賊上がりであり、他の方々から忌み嫌われてもおかしくない私が」
「………それはあなたの母親が焔様だから」
「…ふむ、ではもう少し詳しく言いましょうか」
何故今まで何度も暗殺されかかっているのに、今こうして生きているのでしょうか?
ピシッ
「………え?」
突然、諸葛瑾の握っていた短刀が音を立てて崩れた。
そして目の前の男は、諸葛瑾にとって予想外のことを言ってのけた。
二つの想定外に直面した諸葛瑾はその能面のような顔にわずかながらの驚愕を浮かび上がらせる。
「頭のいいあなたなら予想がついたはずです。『賊上がりのガキ』が何故抵抗もなく重要な地位に就けるでしょうか?そしてその様を見て、一部の人間が野放しにするでしょうか?」
「………」
「つまり子瑜ちゃんは『今、江様が生きている』という事実から暗殺にさらされたことがないと判断したわけですね~、あ、私のことは穏とお呼びください」
「御名答です。では穏と」
「………ちょっと待って。じゃあどうやって生き延びて…?」
淡々と答える江と、それに便乗する穏においていかれ、たまらず諸葛瑾は声を上げる。
「答えは今あなたがその手に握っているではないですか」
「!?………つまり」
諸葛瑾の手には既に形を成していない崩れた短刀。
それが示している答えとはすなわち………
「そういうことです。暗殺してくる人を『力』を以て跳ね返しただけのこと」
「そ、そんなことできるわけが………」
「現にあなたの短刀は出した瞬間に砕かせていただきましたよ?もっともあなたには見ることはおろか、気づくこともできなかったでしょうがね」
諸葛瑾が反論の二の句を告げる前に江は事実を示し、その弁を叩き潰す。
先ほどまでの無表情がうそのように、少女の顔には焦りの色が見える。それはまるで鬼の首を取ったかのように喜んでいた子供が、次の瞬間にその行動の間違いを知らされたような様子。
「まぁ、落ち着いてください」
そんな憔悴しきった少女をいつくしむように、江は目線を同じ高さまで下げると、頭を優しく撫でながらいった。
「確かに多少の読み間違いはあれど、その推察力、そしてこのように実行する胆力、驚嘆に値します。そして何より、わが身を心配してくれたことに感謝します」
「…え?」
「穏も先ほどのやり取りに顔色ひとつ変えない度胸、そして子瑜の考えを的確かつ簡潔にまとめた機転、感服しました」
「私も内心はドキッとしたんですけどね~」
「それでもです。感情を表に出さないという軍師の原則にして最大の障害を既に克服しているのですから。どうぞ誇ってください」
それだけいい終わると、江は諸葛瑾の頭から手を離し、元の姿勢になると二人を交互に見やって頭を下げた。
「そんな二人には是非とも、この国を支えるためにも私の副官を引き受けていただきたい。どうぞよろしく頼みます」
ずっと江に驚かされていた二人は、ここで今日一番の驚愕に直面することとなった。
自分よりもはるかに上の存在が『副官になってほしい』と自分に頭を下げている。それは主従という枠を大きく逸脱した行為。
その証拠に傍らの祭と焔もため息をつき、苦笑を浮かべる。
「…頭を上げて」
「そうですよ~。上に立つ人が軽々しく頭を下げてはいけません」
二人とも内心では大いに驚きながら、江に頭をあげるように促す。対する江は頭を上げると
「力を貸してほしいと頼むからにはそれくらいの礼儀を成さなければ、ね?」
先ほどよりも一層温かみのある笑みで言ってのけた。
「………夕」
「………?」
「真名………夕」
「…それは承諾と受け取っても?」
コクリと小さな頭が縦に揺れる。
「私にも異存はありませんよ~」
それにもう一方の少女が続く。
「それはよかった。では今このときより、私たちは仲間ですね」
そう言うと、江は二人の手をとり、そして言った。
「孫呉を導くべく、あなた方のお力使わせて頂きます」
こうして江の副官に2人の文官がつくこととなった。
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