呉志英雄伝
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第三話~過去~
「墓参り…もしや」
江の問いを聞き終える前に、焔は一度だけ軽く頷く。
「施家に嫁いだ私の姉様のね」
「そう、ですか…」
それを聞くと江は暗い顔で押し黙らざるをえなかった。
2人は黙々と馬を走らせる。
さて、焔の姉である施氏だが既に故人である。
今から10年前、当時桃蓮に文官として仕えていた彼女は、視察に訪れていた農村が賊の襲撃を受けたことにより、同伴してい
た子供共々殺された。
そして今ではその農村は廃村となっている。
それが江が焔から伝え聞いた全てであった。
この話を聞いた時、江は直接面識のない義理の叔母のことに、そしてそれを淡々と語る義母の姿に大きな悲しみを抱いた。
それからしばらく馬を走らせると地平線の果てに建物群を視界にとらえた。
というよりも『元』建物と言った方が適切だろう。最早屋根など存在せず、壁も既に崩壊している廃墟ばかり。
人の気配など皆無だった。
廃村を遠目に見た江は心がざわめくのを感じる。
見た事のない風景。
しかしどこか懐かしく、そして忌まわしい感覚。
その感覚が江の胸を掻き乱す。
やがて廃村の中へと入り、馬から降りると江は目的地に向かう焔の後について行った。
そして焔が立ち止まった。
目の前には質素な墓標と枯れ果てた花が添えられていた。
「本当は故郷まで持って帰りたかったんだけど、死体の損傷が激しくてね…」
声に悲しみを宿して、焔はじっと墓標を見ている。
後ろに控える江にはその表情を読み取れないが、何かをこらえているであろうことは強く握られた拳から容易に想像できる。
「少し…お話をしましょうか」
立ち尽くしたまま、語り始めた。
「そういえば、あなたにも姉様の話をしたことがあったわね」
「はい。とても優秀な文官だったと。…そしてこの村で賊に命を絶たれた、と…」
江はただ悲痛な面持ちでそのことを口に出す。
「…私が最後に姉様と会ったのは、姉様の子供が生まれた直後でね。然って名前だったんだけど、その子は姉様によく似た赤い髪をしてた。時折見せる陰りのない笑顔も姉様そっくりだったわ」
当時の様子を懐かしむ目で語る焔。
「姉様はいつも息子に語りかけてた。『いつか孫呉の大黒柱となりなさい』ってね。おかしいわよね。まだ言葉が分からないってのに」
ズキッ
突然襲ってきた頭痛に思わず頭をおさえる江。
「そのあと、私は司馬に任命されて呉、会稽の不服住民の討伐に出た。5年もかかる大仕事だった。残党は他の所に逃げたけど、敵の頭は潰した」
焔はあくまでも淡々と語る。しかしその背中は小さくみえる。
「そして帰ってきたときには…姉様が死んでいたわ」
焔の声がやや低くなる。
「ちょうど桃蓮が長沙へ赴任する直前でね。姉様は事前に視察をしてきたいって息子をつれてここに来たらしいの。…そこをどこから現れたかも知れぬ賊に襲われた」
焔の拳から血が滴り落ちるのが確認出来た。
「姉様の死体を見ることはできなかったけど、致命傷の他にもいくつもの刺し傷があった。息子に至っては死体すらも見つからなかった」
ズキッ
また江は頭に痛みを覚える。
火の海と化した村。
そこらに転がる無数の骸。
そして遠くから聞こえる女性の悲鳴。
それらの場面が断片的に江の頭の中をよぎる。
こんな光景知らない。
知りたくない。
思い出したくない。
「生存者がいなくて、どの賊の集団かも分からず仕舞い。…そして今から5年前、とある賊を討伐して、奴らの顔を見て驚いたわ」
「…5年前って…まさか」
喉が渇き、やっとの思いで絞り出した声。しかしその言葉を言い終わる前に焔は次の言葉をつづけた。
「姉様の死体の話を聞いて、ずっと疑問に思ってたの。明らかに恨みを持った人間の仕業、でも一体誰が、ってね」
そこまで言うと焔は言葉を切る。
そして自嘲じみた深い溜息を吐くと、口を開いた。
「なんてことはない、昔呉で私が討ち漏らした残党どもだったのよ。…恐らくは姉様の存在を知って復讐したのも奴らでしょうね」
「っ!?」
江にとって驚くべき言葉。
つまり江が属していた賊は十中八九焔の姉を殺した者たち。
「…今日、人を斬ることはなかったみたいね」
「はい…」
「確かに人を殺さないことに越したことはない」
でもね
焔は強い後悔を宿した目で江のほうを振りかえる。
「最高が最善であるとは限らない。最善を取るために、時には最低な手段を使うことも必要なの。…たとえそれが皆殺しだったとしても」
「分かり、ました…」
「あなたは近い将来、『孫呉の大黒柱』となる時が来るわ。…だからあなたの力でみんなを護ってあげなさい」
ドクッ
心臓が跳ねるように強く鼓動する。
と同時に頭の中の何かをせき止めるものが決壊した。
頭の中を埋め尽くす膨大な情報。
激しい吐き気と頭痛で江はその場に膝をつく。
「江、大丈夫!?」
そもそもおかしかったのだ。
江は幼少時の記憶があやふやだった。
それは物心がつく以前のものではなく、もう自らの言葉の意味が理解できるようになってからのもの。
ずっと蓋をしていたのだ。
漏れ出さないように。思い出さないように。
もうこれ以上傷つかないように。
「…そうか、そうだった…」
突然のことに慌てて江に駆け寄る焔。
しかし江は何やら一人で納得したような言葉を呟いている。
「覚えていなかったんじゃない。…『無理矢理』忘れていたんだ」
先ほど断片的に見えていた光景も、今なら全てが自身の記憶であったことが分かる。
『然、いつか孫呉の大黒柱となりなさい』
『母上』が口癖のように幼い自分に言い聞かせていた言葉。
『あなたの力でみんなを護ってあげなさい』
その時には必ずこの言葉が付いて来た。
『…何が、あっても…生き延びなさい。…然、愛してる、わ』
そして血塗れになった『母上』が最後に言った言葉。
『チッ、何だよコイツ。女みてぇな顔して、男じゃねぇか』
『男のガキでも雑用ぐらいは出来んだろ。憎いあの女の甥だ。精々こきつかってやろうぜ』
下衆の笑みをこちらに向け、そんなこと話し合っている賊たち。
今なら全てを思い出せる。
自分が悲しみに押し潰されないように記憶も感情も抑えこんだことを。
今ならはっきり分かる。
自分は何を為すべきなのかを。
「…そう」
頭痛も吐き気もある程度治まった江は全てを話した。
自分が焔の甥であり、記憶を取り戻したことを。
しかし焔は驚きを見せなかった。
「驚かないのですか?」
「もしかしたらとは思っていたわ。私も桃蓮も祭も。…いいえ、そうであってほしいと思っていた、のほうが適切かしら」
それだけ言い終わると、焔は地面に膝をつき、手をつき、頭を下げた。
「あなたの母が死んだのは私の甘さのせい。許してくれなんて言わない。殺されたって構わない。でも謝らせて。ごめんなさい」
そう言ったきり、焔は顔を上げない。地面に一滴ニ滴と滴が落ちる。
ついた手も、頭も、体もふるふると揺れている。
「…頭を、あげてください」
低い抑揚のない声で、下げられた焔の頭に声が降りかかる。
その声にビクッと体を震わせながらも、江に殺されるならと、焔は涙に濡れた顔を上げる。
江は無言で焔に近づくと
パンッ
その場に乾いた音が響いた。
「………え?」
何が起こったのか理解できない焔は呆然とする。
江はそんな焔を強く抱き締める。そして震える声で言った。
「…そんな悲しいことを言わないでください。私に最後の肉親を、私の母を殺させないでください」
「あ、あなたの母親は」
「確かに『母上』は死にました。でも『母様』は私に新しい名前と生きる場所をくださいました。何より忘れていた愛情を注いでくれました」
焔を抱き締める力がより一層強くなる。
「私にとってあなたも亡くなった母上もどちらも大切な母なのですから」
この言葉を聞いた焔は江にしがみつき、江の胸の中で声が枯れるまで泣いた。
その後、城へ戻る江はその道中で密かに誓いを立てた。
我が知、我が武、我が身の全てを孫呉のために使うこと。
それを亡き母上、母様、そして自分自身に誓う、と。
大剣は掲げ、額に押し当てると、江は誓いの言葉を呟いた。
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