こうもり
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2部分:第一幕その二
第一幕その二
「チョコレートとクッキーでも食べてね」
「それとココアですよね」
「そうよ。好きでしょう?」
アデーレに問う。
「それを食べてね。気を取り直しなさい」
「わかりました」
彼女もその言葉を聞いて何とか気を持ち直してきた。
「じゃあそうします」
「そうして。じゃあ私はちょっと用事があるから」
こう述べて彼女から離れた。
「暫くそこにいて。すぐに戻るから」
「わかりました」
奥方は一旦大広間から姿を消した。すると後ろのガラス窓の扉から一人の男が現われるのであった。さっきの歌を歌っていた男である。
「さあ飛び去った小鳩よ」
「小鳩!?」
アデーレはそれに気付き顔を扉の方に向ける。すると左右に絹のカーテンを配した白い木と透明なガラスの窓が開けられていた。そしてそこから彼が入って来ていた。
「今この私の願いを」
「あら、貴方は」
アデーレは彼の姿を見てすぐに気付いた。
「アルフレートさん」
「おお、フロイライン」
その男アルフレートは大袈裟な動きで彼女に歩み寄ってきた。そのうえで言う。
「今日も可愛らしい」
「有り難うございます。それでですね」
「うん」
「何の御用件でしょうか」
「それは決まってるじゃないか」
「歌でしょうか」
「そう、僕はテナーだからね」
彼は言う。
「今日はオフだからここに来たんだけれど」
「明日はまた忙しいですか?」
「この都は新年にこそ歌わなくてはいけないんだよ」
彼はそう述べてきた。実際に新年になるとオペラハウスはあちこちでここぞといった演目を出すしオーケストラも新春を祝って演奏会をやる。音楽の都はその中心でありオーストリア皇帝と共にそれを祝っているのである。
「けれど今は」
「今は?」
「一人の為に歌いたいんだ」
「そうなんですか」
「うん」
彼はこくりと頷いてきた。
「だからここに来たんだよ」
「誰の為でしょうか」
「残念ですがフロイライン」
彼はアデーレに述べる。
「貴女ではありません」
「あら、それは残念」
悲しそうにみせるがこれはお芝居である。わざと芝居がかった仕草を見せているだけだ。
「そうだったなんて」
「私が会いたいのは」
「アデーレ」
そこへ奥方がやって来た。
「誰かいるの?さっきからお話しているみたいだけれど」
「あっ、奥様」
ここでアデーレは咄嗟に何かを思いついた。先程の宴のことがあることが閃いたのであった。
「ねえアルフレートさん」
「何だい?」
「お聞きしたいのですがその御会いしたい方とはどなたですか?」
「わかってると思うけれどね」
耳元に囁いてきたアデーレにそう答えながらちらりと奥方を見た。
「どうかな」
「はい、よく」
アデーレは彼女の視線を見て応えた。そのうえでまた囁いてきた。
「それじゃあですね」
「うん」
「ここから消えますのでお願いがあります」
「何だい?」
「チップを」
現金にそれを主張してきた。
「ドレスをレンタルできる位の。いいですか?」
「お安い御用だよ」
アルフレートは快くそれに応じてきた。ウィーンは何かと宴の多い街なのでドレスや鬘、そうしたもののレンタル業も盛んであった。そして売れっ子のテナー、テノール歌手である彼にとってはそれをレンタルできるだけのチップを出すことなぞ造作もないことであったのだ。
「それじゃあ」
「有り難うございます」
垢抜けたドイツ語で応える。この街の言葉であった。
「じゃあそういうことで」
「お願いするよ」
「はい。奥様」
アデーレは急に深刻な顔になって奥方に声をかけてきた。
「どうしたの?」
「実は大変な手紙がまた来たのです」
「大変な手紙が」
「はい、叔母が重病らしくて」
「叔母さんが!?」
「そうです。それで今夜見舞いに行って宜しいでしょうか」
「そうなの。けれど」
だがここで奥方は難しい顔をしてきた。
「今日からうちの人が警察の御厄介になるから」
「はあ」
「あの」
アルフレートはそれを聞いてアデーレに囁いてきた。
「伯爵は何をされたの?」
「はい、実はですね」
アデーレに彼に応える。そしてまた耳元で囁いてきた。
「酔って倒れられているところを介抱しようとしたお巡りさんの顔を何発か殴ってうすのろって罵って。それで五日の禁固刑になりまして」
「ああ、それは仕方ないね」
彼はそれを聞いて納得したように頷く。
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