椿姫
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第一幕その六
第一幕その六
「これを」
「椿を」
彼はその手の中に渡された赤い椿を見た。
「はい。その椿がしおれた時に」
「また御会いして宜しいのでしょうか」
「はい」
ヴィオレッタはにこやかに笑ってそう答えた。
「御会いしましょう」
「有り難うございます」
彼は喜びを身体全体に現わしてそう言った。
「何と幸福なことか」
「それで御聞きしたいのですが」
「はい」
アルフレードはヴィオレッタにまた顔を向けた。
「まだ私を好きだと言えますか?」
「勿論です」
彼は迷わずそう答えた。
「何度でも申し上げます。そして何時までもお慕い申し上げます」
「まさか」
「僕は本気です」
「一時の戯れでは」
そう言いながら横目でアルフレードを見る。だが彼は真剣なままであった。
「先程も申し上げましたが嘘は申しません」
「では」
「はい。僕の心は貴女のものです」
「気の迷いではなくて」
「勿論です。この言葉に偽りはありません」
「左様ですか」
しかし彼女はそれを信じた様子はなかった。だがアルフレードはそれには気付かなかった。ヴィオレッタから椿の花を贈られてそれだけで気持ちが一杯であったのだ。
「マダム」
「はい」
アルフレードは歩み寄って来た。そしてその手を受け取った。
「今はこれで。宜しいでしょうか」
「どうぞ」
ヴィオレッタは頷いた。するとアルフレードは彼女の手に近付きその手の平に接吻をした。別れの挨拶であった。
「それではこれで」
彼は顔を上げてヴィオレッタに対してそう言った。
「さようなら」
「この椿の花が教えてくれた時にまた御会いしましょう」
「それまでご機嫌よう」
「はい」
こうしてアルフレードは屋敷を後にした。彼と入れ替わるように客達がダンスホールから戻って来た。
「マダム」
「はい」
ヴィオレッタは客達に応えた。
「もうすぐ朝ですのでこれで」
「お名残惜しいですが」
「朝なのですか、もう」
「はい」
客達はヴィオレッタにそう教えた。
「朝陽が我々にそう教えてくれました」
「もう快楽の時間は過ぎ去ったのだと」
「早いものですね」
ヴィオレッタはそれを聞いて残念そうにこう言った。
「時間が過ぎ去るのは。そしてお別れの時が来るのは」
「仕方ありません」
客達はそう答えた。
「ですがまた出会いの時は訪れます」
「その時にまた御会いしましょう」
「ですね」
彼女は気を取り直した顔を作ってそれに頷いた。
「ではまた」
「はい」
こうして客達はそれぞれ帰って行った。ヴィオレッタは広い屋敷にただ一人となってしまった。
「朝が来たというのに」
彼女は物憂げな顔でそう呟いた。
「私の心は夜の世界のまま。いえ、住んでいる世界さえも」
そう言いながらゆっくりと立ち上がった。
「けれど。何故かしら」
自身の胸を見て呟く。そこにはいつもある筈のものがない。だがそれ以上のものがあるように感じられた。
「あの人の言葉が。まるで心の中に刻み込まれているよう。こんなことははじめてだわ」
心が乱れていっているのを感じていた。
「真実の恋なんて。道を踏み外し、夜の世界にいる私にとっては全く縁のないものである筈なのに。どうして今こうして私の心を捉えるの?」
自分に対して問う。だが返答はない。
「愛し、愛される」
また呟いた。
「それは私の知らないこと。喜びなのでしょうか。それとも」
自分に対して問うていた。
「怖れ。この空虚で何時終わるかわからない仮初めの人生。それがあの人によってどうなるのというの?」
その心にアルフレードが宿っているのがわかった。
「愛を知ったのかしら。この私が。娼婦の私が」
また自分自身に対して問う。
「真実の愛に。そう、あの人に教えられたのよ」
だが思い直した。俯き顔をゆっくりと横に振った。そしてまた言った。
「いいえ」
今まで自分の言っていたことが馬鹿馬鹿しいものに思えて仕方がなくなってきた。
「そんな筈はないわ。そんな筈が」
不意にそう自嘲めいてそう呟いた。
「このパリで。空虚な街で。夜の世界で。私は何を求めようとしているの?」
目を閉じ口だけで笑っていた。
「この街では、夜の世界では愛なんてないわ。あるのは快楽と享楽だけ。それに身を任せるのが私の人生なのよ」
そう今までは思っていた。そして今もそう思おうとした。
「花から花へ。飛び歩くのが私の人生。夜の花を飛び歩くのが」
だが飛び歩けなかった。胸が苦しいのではない。何故か足が動かなくなってしまったのだ。それは何故なのか。彼女にはわからなかった。
「愛」
ここで屋敷の外から声がした。ヴィオレッタはその声を聞いてハッとした。
「あの声は」
それはアルフレードのものであったのだ。だからこそ我に返ったのであった。
「愛は全ての世界に存在する」
「全ての世界に」
ヴィオレッタはそれを聞いてまた俯いた。そして考え込んだ。
「そしてこの世をあまねく支配しているんだ」
「まさか」
首を振ろうとする。だが今度はそれはできなかった。
「・・・・・・・・・」
ヴィオレッタはそれを感じて沈黙してしまった。そこにアルフレードの声がまた聞こえてくる。
「神秘的で気高く、そして美しい。心に喜びを与えてくれるんだ」
彼はヴィオレッタに花を贈られたことで舞い上がっていただけであったかも知れない。だがその言葉でもヴィオレッタの心を打つには充分であった。
「私にも愛が」
「愛は誰にも平等に与えられるんだ」
「それじゃあ」
ヴィオレッタは顔を上げた。そして宙を見上げた。
「私も」
「愛に生きることが人生。そしてそれがこの世の全てなんだ」
「それなら」
彼女は決心した。もう迷いはなかった。
「アルフレード、貴方と」
「愛しのヴィオレッタ、この椿が告げる時に」
「永遠に結ばれましょう」
「僕は貴女のものに」
今二人の心は通い合った。そして二人はそれに従うのであった。
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