ソードアート・オンライン 夢の軌跡
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芽生える気持ち
──お母さん、大丈夫かなあ……。
私はそうやって、今日だけでも何度目になるかわからない物思いに耽ってしまう。
なぜなら、既に郵便局での事件から一ヶ月が経ったのに、お母さんは今でも小さな物音にも敏感に反応するし、滅多に家の外に出ないからだ。
私はそんなお母さんのことが心配で、ずっと側にいたいと思っている。だけど、平日は学校があってできないのだ。
それでも、意味のない考えに没頭することをやめられなくて、再び思考の回数を増やしてしまう。
そんな私を現実に引き戻したのは、事件のあとから学校でよく話すようになった、羽月君だった。
「……さん? 朝田さん?」
「え? ああ、ごめん。ぼんやりしてて聞いてなかったわ。なんの話だっけ?」
「いや。朝田さんが疲れてるように見えたから、大丈夫って聞いてたんだけど……本当に大丈夫?」
羽月君は心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「あっ、うん。大丈夫だよ。今はちょっとぼうっとしてただけだから」
私がそう返事をすると、羽月君は語感を強めて言ってきた。
「今だけじゃないよ。自分では気づいてないかもしれないけど、授業中もたまにぼんやりしてたよ」
「え、嘘でしょ」
私は驚いて、咄嗟にそう返していた。だけど、思い当たる節がない訳ではなかった。
そんな私の心を見透かしたかのように、羽月君が続ける。
「嘘じゃないよ。だから心配なんだよ。僕にできることはないかな?」
「それは……」
「話してみるだけでも、楽になると思うんだよね」
そう言って、羽月君は微笑みを浮かべる。
──やっぱり、羽月君は優しいな。
私は今まで以上に、そう思った。
他人を気遣い、困っている人は放っておけない。そんな性格だから、私は羽月君に気を許しているのだろう。
学校で……いや、家族以外で初めての、安らぎを与えてくれる人。
最近のお母さんに付きっきりにならないで、ちゃんと学校に行っている理由の大半は、〝羽月君に会えるから〟だと思う。
だから私は、正直に全てを話すことにした。
「あの、ね。私のお母さんが、あの事件以来、ちょっと……その」
「事件の傷が癒えない、ってことかな?」
「うん。そんな感じ。私のお母さんは、事件の前から精神的に少し弱かったから……」
そこまで話すと、羽月君がおずおずといった感じで訊ねてくる。
「ねえ、これって聞いた僕が言うのもあれだけど、話しても大丈夫なの?」
「大丈夫よ。だって他の人に話したりはしないでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
なんて口では言いながらも、羽月君は納得のいかなそうな表情を浮かべていた。けれども私は、そんなことを気にせずに続ける。
「じゃあ平気よ。それで、私にお父さんがいないことは、話したわよね?」
「うん」
「私が小さい頃に交通事故にあって、亡くなったんだ。その時に、お母さんはお父さんが死んで行くのを見ていることしかできなくて、心に傷を負っちゃったの」
自分でも以外なほど、すらすらと言葉が出てきたけど、それは羽月君が真剣に聞いてくれているからだと思った。
「なるほど。だから朝田さんのお母さんは、心が傷ついたままだったんだ」
「そう。そんなところにあんな事件が起きたから、もっと深く傷ついちゃったみたいで……」
「そうか……。やっぱり、心配だよね」
「うん」
「……わかった。それじゃあ僕は、色々と調べてみることにするよ」
私はその言葉の真意を理解できなかったから、問いかけた。
「調べるって何を?」
「精神的な病気を治す方法、かな」
あっけらかんとした口調で答えられて驚いたが、すぐに否定する感情が浮かび上がってくる。
「そんなこと、できるわけないわ」
「やってみないとわからないよ。それに、こういうことだって知っていれば、いつか役に立つかもしれないしね」
その言葉と共に浮かべた笑みを見て本気だと悟り、唖然とした。
しかし私は、羽月君が勉強でも力を抑えていることを知っている。なぜならこの前実際に、羽月君の従兄弟が去年高校で使っていたという問題集をすらすらと解いているのを見たことがあるからだ。あの時は呆然としたのに、なぜか自然と納得できた自分がいた。
まあそんなことがあったからか、なんだか羽月君ならできそうな気がして、私は笑顔で返した。
「わかったわ。頑張ってね」
「うん。でも、あまり期待しないで待っててよ」
「そうしておくわ」
そのあと、なんとなく可笑しくなって、顔を合わせて二人で笑った。
***
あれから二週間ほど経ったが、羽月君は毎日図書館で膨大な量の本を読んでいる。
私もたまに図書館に行ったけど、いつもいるからとても驚いた。
羽月君は本気で治そうとしてくれているらしい。
だから私は、本当に優しいなあと心の底から思って、最近は羽月君がいるかの確認のために毎日図書館に通っている。
「羽月君」
「朝田さん。今日も来たんだ」
「それを言うなら羽月君だって毎日来てるじゃない。しかも私よりも早くに」
「治せるなら、できるだけ早く治したいからね」
そう言ってくれるのは嬉しいけど、学校がある日は学校が終わってからすぐに来てるみたいだし、休みの日なんて本当に朝から晩までいるから心配になってくる。
「でも大丈夫なの? 道場に通ってるんでしょ。それに家族の人は心配しないの?」
「道場には理由があるので休ませてくださいって言ってあるし、家族の方も人助けのためって言ったら、自分が満足するまでやりきりなさい、って言われたから大丈夫だよ」
どうやら私の心配は杞憂だったみたいだ。それに、羽月君の周りにいる人も気立てのいい人ばかりのようだ。
「そうなんだ。今まで羽月君が無理してるように見えてたから、それを聞いて少し安心したわ」
「無理はしてないよ。それに、家でもできるトレーニングをしているからね」
やることをちゃんとやっているところが、羽月君らしいなと思った。
「なら心配しなくても大丈夫そうね」
「僕は大丈夫だよ。それより、朝田さんのお母さんは、どう?」
「うん……。殆ど変わってないわ」
「そう、だよね……。でも、僕の方はそろそろ何かが掴めそうな気がするんだ」
もしかしたら、と思ってはいたけど、予想していたよりもずっと早くて驚いた。だからどうにも信じられなくて、疑ってしまう。
「本当に?」
「うん。結構心身症について理解が深まってきたからね。それを治すための方法をもう少し調べれば、なんとかできそうかな」
「そうなんだ……。よかった。ありがとうね、羽月君」
「まだ治るって決まった訳じゃないから、お礼なんていいよ。そもそも、お礼を言ってもらうためにやってる訳でもないしね」
──また謙遜してる。
私は無意識にそう思っていた。だって羽月君にお礼を言うと、いつもお礼はいらないと言われてしまうからだ。
そしてそのことに我慢できなくなった私は、自分の考えを話すことにした。
「私がお礼をしたいからしてるだけだよ。それに、お礼は素直に受け取るべきだと思うわ」
すると羽月君は顔に驚きの色を顔を浮かべた。こういう顔は初めて見たから、なんとなく得した気分になった。
「そうだね、うん。……じゃあ、どういたしまして、かな?」
「それでいいわよ」
そう言って、互いに笑みを浮かべる。
私はそれから、思ったままのことを言った。
「本当に羽月君って凄いね」
「そんなことないよ」
「あるよ」
私は咄嗟にそう返していた。そしてそのまま、自分でも制御できない感情に任せて続ける。
「だって、自分のためでもないのに、こんなにも努力ができるんだから」
すると羽月君はゆっくりと首を横に振った。
「買い被りすぎだよ。今やっていることだって、自分のためなんだから」
私はその時、どうしても何かを言わないといけない気がして、素直な思いを口にした。
「それでも、私の心が軽くなっているわ。それに、本当に自分のためになることだけしかやらない人は、そんな風に言わないと思うわ」
「……朝田さんは、優しいね」
「羽月君の方が優しいよ」
私は思ったままのことを告げる。
「……ありがとう」
返ってきたのはその一言だけだったけど、今まで以上に羽月君に近づけた気がした。
「うん。どういたしまして」
そこでふと時計を見ると、帰らないといけない時間が近づいていた。
「あっ……。私、そろそろ帰らないと。羽月君は今日も残るの?」
「今日はちょうど一段落したところだし、僕も帰るよ。一緒に帰ろっか」
そう言われて嬉しかったけど、迷惑を掛けているように思えたから、やんわりと断りの言葉を口にした。
「別にいいよ。家の方向が違うでしょ」
「僕が一緒に帰りたいんだ」
力強くそう言われて、余計に胸の鼓動が高鳴る。でも私は、それを悟られないように答えた。
「……それなら、一緒に帰ろうか」
「うん。帰ろう」
それからは二人並んで話しながら、ゆっくり歩いて帰った。なのに、あっという間に私の家に着いてしまう。
本当はもっと沢山のことを話したかったのに、その気持ちを抑えて言った。
「私の家、ここだから」
「そうなんだ。じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
それだけ言って、羽月君は歩き始めた。
私は少しの間だけ、その後ろ姿を眺めていた。
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