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椿姫

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第二幕その六


第二幕その六

「いいよ。何処へ?」
「少しね。それじゃあ」
 アルフレードを見た。一瞬であったが確かに見た。二度と忘れないように。
「さようなら」
 そう言ってそこから去った。そしてそこから永遠に姿を消したのであった。
「どうしたんだろう」
 アルフレードは首を傾げながらもそれが何故かよくわからなかった。
「あんなに悲しそうに。悲しむ理由なんてないのに」
 やはり彼は何もわかってはいなかった。これは時として勇気になる。無知故の勇気だ。
「まあいいか。少し休もう」
 そう言ってそこにあるテーブルに座った。そして本を読みはじめた。読みながら父も待つことにしたのだ。
 ふと思うところがあって懐から懐中時計を取り出す。見ればもういい時間であった。
「今日はもう来ないのかな」
 時間を見ながらそう呟いた。
「まあいいか。明日もあるし」
 ここで誰かがやって来るのが見えた。庭の方だった。
「?あれかな」
 アルフレードはそれが父であるかと思った。だがここで別の方向から声がした。
「こんにちは」
「はい」
 彼は立ち上がってそちらに声を送った。
「アルフレード=ジェルモンさんはおられますか?」
「僕ですけれど」
 それに応えながら玄関の方に歩いて行く。
「どうしたのですか?」
「郵便です」
 見れば郵便職員であった。彼に一通の手紙を差し出していた。
「これを」
「これは」
「先程頂いたのですよ。とある貴婦人から。丁度馬車をお乗りになっておられまして」
「馬車で」
「ええ。パリに向かわれる途中でした。そこで御会いして頼まれたのですよ」
「また運がいいね」
「おかげさまで。チップも貰いましたし」
「それは何より。じゃあ僕も」
 彼もそれに感じるところがあって懐から財布を取り出した。そして金貨を彼に渡した。
「少ないけれどこれを」
「有り難うございます」
 彼はそれを受け取って満足そうに頷いた。
「それではこれで」
「うん」
 郵便局員は立ち去った。アルフレードはあらためてテーブルの側の椅子に座り手紙の封を切った。まずは名前を見た。
「!?」
 何とそれはヴィオレッタからの手紙であった。彼はまずそれをいぶかしんだ。
「どうして彼女から」
 今さっきまで共にいたというのに。それがどうしてなのか不思議で仕方なかった。
 読みはじめる。最初は何が書いてあるのかわからなかった。だが次第に理解できてきた。
「な・・・・・・」
 それは別れの手紙であった。読んでいるうちに驚愕の色が身体全体を覆った。アルフレードはその絶望に耐え切れずまたしても立ち上がった。
「嘘だ、そんな・・・・・・」
 蒼白となり呻く。だが手紙に書いてあることは変わらない。それが彼の心をさらに乱した。
「ヴィオレッタが僕を。そんな・・・・・・」
 ここで玄関にまた誰かが姿を現わした。それはすっとアルフレードの方にやって来た。
「アルフレード」
「お父さん」
 見ればそれはジェルモンであった。アルフレードは父に顔を向けた。
「来られていたんですか」
「御前のことが気になってな」
 彼は沈痛な顔でそう答えた。
「御前に何が起こったのかはわかっている」
 彼は優しい声で息子に対してこう言った。
「だからこそ聞いて欲しい。いいか」
「僕にかい?」
「そうだ」
 彼は言った。
「御前はパリに出るまでずっと私達と一緒にいた。故郷のプロヴァンスに」
「うん」
 彼は椅子に座った。そして落胆したまま父の話を聞く。
「それは覚えているだろうか。あの優しい海と陸を」
「忘れる筈ないじゃないか」
 彼は弱い声で父にそう述べた。
「今までずっと住んでいたのに」
「そうだろう。ではあの太陽も覚えているな」
「うん」
 アルフレードはまた頷いた。
「あのプロヴァンスにこそ御前の居場所があるのだよ。あの地こそが御前の安住の地なんだ」
「パリじゃなくて」
「そう。そしてここでもない」
 彼ははっきりと言った。
「ここにいては御前も道に迷うところだった。だがそうはならなかった」
「お父さんのせいで?」
「違う」
 それには首を横に振った。
「神の御導きなんだ。全ては」
「僕は神により今の仕打ちを受けているんだね」
「何故そんなことを言う。御前がパリに出た時から我が家は変わった」
「そうだったの」
 声にはもう魂が宿ってはいなかった。虚ろな声となっていた。
「家は悲しみに閉ざされた。そして御前の話を聞く度に私は辛かった。心配でならなかったのだ」
「そしてここまで来たんだね」
「来てよかった。御前は救われたんだ」
「どうしてそんなことが言えるのさ」
 彼は首を横に振ってこう言った。
「僕は。全てを失ったというのに」
「御前は何も失ってはいない」
 これは慰めではなかった。真実であった。
「全てを失ってしまった人は別にいる。その人は御前の為に犠牲になったのだよ」
「嘘だ」
 彼はそれを否定した。
「そんな筈がない。そんな筈が」
「いや、本当のことなのだよ」
 この上なく優しい声であった。顔も。それは息子を愛する父親のものであった。
「全ては。そして御前は」
「僕は認めない」
 そう言ってまた首を横に振った。
「こんなこと。認められる筈がないじゃないか」
「何を言っているんだ」
 ジェルモンは立ち上がったアルフレードに対して言った。
「聞き分けられないか。私の言葉が」
「お父さんの言葉じゃないんだ」
 彼は父の言葉とは別のことを見ていたのだ。
「ヴィオレッタが何処に行ったのかはもうわかっているんだ」
 彼女のことはわかっているつもりであった。何もわかっていなくてもわかっているつもりであったのだ。
「パリなんだね、そこの夜会にいるんだね」
 夜の世界の女は必ずそこにいる。一度そこに顔を出したならばわかることであった。
「何を考えているんだ、アルフレード」
 彼は息子に対して問うた。
「決まっている、行ってやるんだ」
 彼はそう言って玄関に向かった。
「見ていろ、この侮辱」
 怒りで身体を震わせながら言う。
「必ず晴らしてやる!」
「あっ、待つんだ!」
 だが父の制止は間に合わなかった。アルフレードは馬に乗りパリに向かった。道はもう暗くなりはじめていた。夜の世界が訪れようとしていたのであった。
 
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