ソードアート・オンライン ―亜流の剣士―
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Episode1 お人好し
「おや、旅の剣士さんじゃないですか」
そういって俺のことを出迎えた女性はこの家のおかみさんだ。
鍋をかき混ぜていた手を止めて、こちらを振り向いた彼女は疲労の滲む顔に無理に笑みを浮かべた。
「お疲れの剣士さんに悪いですが、お水くらいしか出せるものが…」
「いえ、結構ですよ」
そう答えた俺に一度軽く会釈した彼女は再び鍋をかき混ぜ始めた。
その彼女の頭上には《クエスト進行中》を示す金のビックリマークが浮かんでいた。
《クエスト》というものは、古今東西あらゆるRPGにおいて採用され続けてきた。ゲーム内で掲示板やNPC、どんな形であれゲームデータという形でプレイヤーに与えられるそれは、一定の条件をクリアすることにより通常の狩りを大きく上回る効率で経験値とお金、そしてアイテムを得ることができる。
そして、もちろんこのSAOにもクエストは存在し、俺が今受けているのもそんな中の一つ。その名は《森の秘薬》。
さらに付け足せば、今現在俺の気分を暗いものにしている原因である。
しばらく無言で鍋をかき混ぜていたおかみさんが不意にこちらを振り向き、困ったような笑顔を見せた。
(今日こそ、断れ俺!)
自分を叱咤するように心の中で呟いた言葉に被るように、彼女は口を開いた。
「…今日も、ダメだったのでしょう?」
「……」
彼女のとても申し訳なさそうなその声を聞いた時点で既に俺の覚悟は折れかけていた。
それでもなんとか決心を固め直し、はいと返事をした。
「…そう、ですか」
言ったきり彼女は黙り込んでしまったので、二人の間に気まずい沈黙が流れた。
だが、言ってしまえばこんなこともう幾度も繰り返してきたことだ。本当に大事なのはこのあと…。
「あの…なんでしたらもう諦めてもらっても構わないんですよ?」
ほら来た!
そんな心情を顔に出さないようにしつつ、俯いていた俺は顔を上げた。ここで一言肯定の言葉を返せばいいのだ。そうすれば…いや、そうしなくても俺は明日からもっと先へ冒険に出るんだ。
ただ、喉がおかしくなったのかと思うくらい声が出ない。それでもようやく一言を搾り出そうとしたとき、
「コホン、コホンッ!」
家の奥の部屋から苦しそうな咳が聞こえてきた。
…ガラガラッ、と自分の決心が崩壊する音が聞こえた気がする。出かけていた言葉が引っ込み、妙にはにかんだ顔で俺の表情が固定された。
その間もおかみさんはクエストキャンセルを促すような言葉を続けているが、扉の閉められた奥の部屋から聞こえる咳の音が完全に俺の意識を捕らえて離さないでいた。
そして、気付けばもう何度も繰り返した言葉を口にして家を後にしていた。
「…もう一日、頑張ってみますよ」
久しく寝床にし続けているカビ臭いベッドに体を投げ出した。
ホルンカの村には、あまりこのように寝泊まりができる場所はないのだが、たいていのプレイヤーはほとんど滞在しないので村の外れにある、この無人の家は我が物顔で使わせてもらっている。
ベッドがギシギシいうのを無視して足を2、3度バタバタとした後、大きく息を吐き出して脱力した。
「結局、断れてねぇじゃねえか…」
あの家で聞いた少女と思われる子の咳の音が耳を離れない。…あれがNPCだというのだから、まったくやり切れない。
これでクエストをキャンセルすることに挫折したのは……何度目だろうか。正直数えていられない。
「明日頑張るって…ねぇ。ははっ…笑えるな」
まったく顔が笑えていないのだが、そう呟いた。これだって何度目か分からない。
クエストというものは基本、プレイヤーの任意のタイミングでキャンセルできるものだ。一部例外もあり、受けたが最後、クエストを完了までやり抜かねばならないようなものもあるが、今回はその例外には当てはまらない。
普通におかみさんに「これ辞めます!」と一言告げれば終わるものを、俺はぐだぐだ引きずっている。
このような事象を招いているのは、ひとえに俺自身の問題である。頼みを断れないこの性格……と若干『運』に見離されている感はあるが。
このクエストは完了に《リトルネペントの胚珠》というアイテムが必要になる。ホルンカの村付近に棲息するリトルネペントがドロップするのだが、少し条件があり、ごく稀に出現する『頭に花の咲いた』リトルネペントしかドロップしない。
まぁ、出現率もドロップ率も所詮ゲーム上に設定されたものであり、0%ということはないのだろうが……ここ数日ではそれすらも怪しい。
「…やめた、寝る!」
このままではどうにも思考が「俺だけドロップ率0%なんじゃね?」のような所に至りそうだったので、無理に思考を切って徐々に迫りつつあった睡魔に身を任せた。
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