アルジェのイタリア女
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第一幕その二
第一幕その二
「まあよい。最後の言葉は次の機会じゃ」
エルヴィーラはそれを聞いてほっと胸を撫で下ろす。顔色が戻ってきていた。
「じゃがな」
「はい」
「何かあれば、わかるな」
「勿論でございます」
「ならばよい。ハーリー」
「はい」
傍らに控える一人の男がそれに応えた。顔中髭だらけで荒れた服装の如何にもといった感じであったがその顔付きは意外と穏やかであった。
「この前捕らえていたイタリアの者がおったな」
「リンドーロですか」
「何かあればすぐにあれにくれてやれ。よいな」
「あのムスタファ様」
ハーリーはそれを聞いて小さい声で言う。
「あの男、ムスリムではありませんが」
イスラムで結婚出来るのは同じイスラム教徒だけである。
「知っておるぞ」
「ならどうして」
「だったら話は簡単じゃ。あやつをイスラム教徒にせよ」
「はあ」
滅茶苦茶な返答が平然と帰ってきた。
「よいな、あ奴はあれで見所がある」
「そうなのですか」
「そうじゃ、キリスト教徒であってもな。それにわしは寛大じゃ」
その大きな腹を震わせて言う。
「とりあえず呼んで参れ」
側に控えていた従者の一人に言う。
「よいな」
「わかりました。では」
その従者はすぐに動いた。そしてそのリンドーロを呼びにやった。
陽気そうな顔立ちを暗く沈ませた男が緑と水の庭にいた。アフリカの植物を熱い太陽、そして水のせせらぎの音を聴きながらそこにたたずんでいた。
「運がない」
彼はまずこう言った。見ればこの宮殿の奴隷の服を着ている。意外とみすぼらしいものではない。実はイスラム社会では奴隷はわりかし権利が認められていた。それにイスラム教徒になれば許してもらえるのだ。そこが実に寛容であった。実はイスラムはキリスト教社会より寛容だったのだ。ムスタファにしろ奴隷は自分の大切な財産である。だからそれなりに大事に扱っているのである。
「イタリアを出て海の旅に出たら海賊に捕まって。そして奴隷となりこの地に来て三ヶ月」
イスラム教徒の海賊達の目的は略奪と奴隷の確保であった。これでかなり儲けていたのである。
「イザベッラは元気でいるだろうか。あの美しい笑顔は今悲しみに沈んでいるだろうか」
それを思うと気が気でない。イタリアが恋しい。
「遠く離れて暮らすわびしさ。心は痛みに耐え難い。けれど何時か待ち焦がれた日が来る」
それでも希望は忘れない。
「それまでは絶対に耐える、何があっても。イザベッラの愛を信じて耐えてみせる、何があっても」
「あっ、こちらでしたか」
「ん!?」
そこにムスタファに命じられた従者がやって来た。
「リンドーロさん」
「何ですか?」
そしてリンドーロに声をかける。彼はそれに返す。
「御主人様が御呼びですよ」
「御主人様が」
「はい、すぐに来て下さい」
「わかりました。では」
彼はそれを受けてムスタファのところにやって来た。そして頭を垂れる。
「御呼び頂き有り難うございます」
「うむ、リンドーロよ」
彼は仕事を済ませた従者に褒美を与えながら彼に応えていた。
「そなたを呼んだのは他でもない」
「はい」
「そなた、まだ妻がおらんかったな」
「左様ですが」
「それでじゃ」
ここでちらりとエルヴィーラの方を見た。
「妻が欲しくはないか?」
「結婚ですか」
「うむ、その際はそなたは奴隷ではなくなる」
口髭をこれでもかという程反らせながら言った。
「解放して頂けるのですか」
「悪い話ではないだろう」
「は、はい」
幾ら扱いが良くても奴隷は奴隷だ。それから解放されることが嬉しくない筈がない。
「是非とも」
「で、好みはどうじゃ?」
「好みですか」
「うむ」
ムスタファはまたエルヴィーラを見た。何処か好きな女の子に意地悪をする男の子の様な目である。
「美女か。お金持ちか?」
「私の好みは」
「優しい女か?可憐な女か?もっとも全てを兼ね備えている女は」
またエルヴィーラを横目で見た。
「わしも一人しか知らぬがな」
「私もそれは同じです」
「ほう」
ムスタファはそれを聞いて面白そうに声をあげた。
「知っておるのじゃな」
「そうです、真面目で親切で」
「うむ」
「二つの瞳は明るく」
「よきかな、よきかな」
「髪は黒く」
「よいのう」
それを聞いてさらに機嫌をよくさせる。
「頬は赤く」
「さらによい」
ムスタファはリンドーロの話を聞いて何故かエルヴィーラのことを考える。またしても妻の方を見るのだ。
「可愛らしい顔立ちで」
「ううむ」
だがそれには納得いかないようである。
「彫刻の様に美しいのではなくか?」
「それが私の理想の女性であります」
リンドーロは頭を垂れて答えた。
「左様か」
「はい」
「まあよい。恋はよいものじゃ」
ムスタファは語る。
「美女に金、何よりも生涯の伴侶を得る幸福、いいものじゃぞ」
「全くです」
「では楽しみにしておれ」
「わかりました」
「すぐにそなたは幸福になるからな」
そこまで言って彼はその場を下がった。そして廊下を進む。その途中ハーリーが彼に声をかけてきた。
「あの、まさか」
「確かにあ奴は奴隷から解放してやる」
「では」
「しかしな」
ムスタファは言う。
「わしの考えはわかっておろう」
「それでは」
「わしの妻は一人だけじゃ」
強い言葉であった。
「よいな」
「わかりました。けど」
「何じゃ?」
「奥方様は」
「言葉は二回までは取り消せるのじゃ」
ムスタファはしれっとした様子であった。
「わかったな」
「はあ」
結局彼も彼で素直ではないのだ。だがその臍曲がりが。とんだ惨事を起こすことになるのだ。
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