ラ=ボエーム
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第三幕その五
第三幕その五
「その咳は。嘘じゃないよね」
「・・・・・・・・・」
「君には幸せになって欲しい。だから」
「ロドルフォ・・・・・・」
ミミはロドルフォを見た。辛そうに顔を背けている。
「だったら」
ミミはわかった。そしてそのうえで言った。
「私の引き出しの中の金のブレスレットと聖書。受け取って」
「うん」
「あと貴方がクリスマスに私に買ってくれたあの薔薇色のボンネットも返すわ」
「いいんだね?」
「それを私だと思ってくれたらいいから」
「わかったよ」
ロドルフォはそれを聞いて頷いた。その後ろではショナールとコルリーネが無言で立っている。マルチェッロもそれは同じであったが店の中の喧騒に気付いた。
女の声が聞こえてくる。その声の主がわかって彼は顔を顰めさせた。
「あいつか。こんな時に」
ムゼッタであった。それがわかったから彼は顔を顰めさせたのだ。
「こんな時まで。馬鹿騒ぎしやがって」
「さようなら、楽しい朝の目覚め」
「さようなら、夢の様な生活」
ミミとロドルフォはそれぞれ言った。
「何もかも」
「さようなら」
ここで店の中から窓を破ってコップや皿が飛んで来た。そしてマルチェッロの側にまで落ちて来る。
「いい加減にしろ、あいつ」
ムゼッタが何やらトラブルを起こしているのがわかる。マルチェッロは腹に据えかねて店の中に入った。そしてムゼッタを外に引っ張り出してきた。
「何するのよ」
「一体何をしていたんだ」
「何でもないわよ」
ムゼッタは憮然として返す。
「嘘をつけ」
「嘘じゃないわよ」
「そんなこと信じられるものか」
マルチェッロはムッとして言い返す。
「御前の言うことなんてな」
「信じないっていうの?」
「そうさ」
「おい、ちょっと待て」
「ここは」
ショナールとコルリーネが二人の間に入ろうとする。
「ちょっと下がっていてくれ」
「すぐに済むから」
「すぐに済むって」
「そんなことを言ってる場合じゃ」
「とにかく」
「だからいいんだって」
マルチェッロもムゼッタも止めようとする二人を逆に引き離そうとする。
「放っておいてくれよ」
「邪魔よ」
「邪魔でも何でも」
「ここは大人しくしてくれないか」
「春になったらお別れにしましょう」
「春になったら」
「ええ」
ミミはこくりと頷いた。
「冬に一人でいてそのまま死んでしまうのは。あまりにも寂しいから」
「わかったよ」
ロドルフォはその言葉を受け入れた。
「春になったらお日様がいてくれるから」
「うん」
「今は何処にもいないお日様が」
冬のパリの朝は遅い。まだ日は出ていない。
「側にいてくれるから」
「わかったよ、じゃあそれまで一緒にいよう」
「ええ」
「このうぬぼれ」
マルチェッロ達はその後ろで本格的に罵り合いはじめた。
「大体いつも御前は」
「何なのよ」
「馬鹿騒ぎばかりして他の男にも馴れ馴れしいし」
「それが私の流儀よ」
「何が流儀だ、この浮気女」
「浮気はされる方が悪いのよ」
「じゃあ僕が悪いっていうのか」
「そうよ」
売り言葉に買い言葉だ。ムゼッタはキッとした顔で言い返す。
「悔しかったらあんたも浮気してみたら?」
「こいつ!」
「よせって」
「こんなところで騒いでも」
「ええい、止めてくれるな」
ショナールとコルリーネの制止を振り切ろうとする。
「ここで退いたら」
「男が下がるとでも言うつもりかしら?」
「ムゼッタも止めろよ」
「全く。いつもいつもこんな喧嘩ばかりして」
「それも今日で終わりだ」
「どういうこと!?」
「別れてやる、もう」
「言ったわね」
ムゼッタも完全に頭に血が上っていた。
「今の言葉、わかってるわね」
「勿論だ」
そしてマルチェッロも。こうなってはもうどうしようもなかった。
「別れてやるよ」
「ええ、こっちこそ願い下げよ」
「って二人共何言ってるんだ」
「落ち着けよ」
「僕は冷静だ」
これがそうではないのは誰でもわかることだった。わかっていないのはマルチェッロとムゼッタだけだった。完全に周りも後先も見えなくなっていた。
「冷静にこう言ってるんだ」
「私もよ」
「何を馬鹿な」
「いい加減にするんだ」
「だから別れるって言ってるんだ。もう顔も見たくないよ」
「それは私の台詞よ」
「あっ、言ったな」
言い返すと向こうも。
「ええ言ったわよ。何ならまた言いましょうか?」
「その必要はないね。もう顔に書いてあるから」
「あんたの顔にもね」
「このあばずれ」
「この甲斐性なし」
完全に壊れてしまっていた。
「これはもうどうしようもない」
「お手上げだな」
「あっちはもう」
ショナールはロドルフォとミミを見た。
「入る必要はないけれど」
「僕達が言えることじゃない」
「そうだな」
「それじゃあ春に」
「うん」
ロドルフォはミミの言葉に頷いた。
「別れましょう」
「花の季節に」
「冬の間はずっと一緒にいて」
「最初の花が咲いたら別れよう」
「それまでは二人でいましょう」
「いいんだね、それで」
「もう決めたから」
ミミは答えた。
「それを思い出にして生きていくわ」
「わかったよ。それじゃあ」
「けれど」
そしてミミは一瞬悲しい顔になった。それまで無理に作っていた笑みが消えていた。
「私思うの。冬がずっと続けばいいって」
「僕と一緒にいられるからかい?」
「ええ」
彼女は答えた。
「ずっと。だったらいいのに」
「ミミ・・・・・・」
「けれどもう決めてしまったから。花が咲くのと一緒に」
「僕達も」
「貴方のことは忘れないわ」
「僕だってそうさ」
ミミをじっと見ていた。
「何があっても」
「ずっと覚えておいてくれるのね」
「だって僕は君が何よりも好きだから」
彼は言う。
「忘れたくはないから」
「私もよ」
それはミミも同じである。
「貴方といられた時間、忘れないわ」
「有り難う」
「この浮気者!」
「看板描き!」
「マムシ!」
「ヒキガエル!」
「魔女!」
「悪魔!」
マルチェッロとムゼッタはその後ろでまだ罵り合っていた。もうショナールとコルリーネにもどうしようもなかった。ロドルフォとムゼッタは雪の振る暗い朝の中じっと抱き合っていた。冬を名残惜しむかの様に。
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