ラ=ボエーム
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第一幕その一
第一幕その一
第一幕 冷たい手を
広い屋根が上にある部屋だった。小さい窓からは雪に覆われたその屋根の表が見える。だが部屋の中は簡素なものであり、質素な木製のテーブルと戸棚の他は本箱に椅子、ボロボロのソファーとベッドがあるだけであった。他には本や画架が散らばり、部屋の中は無造作に散らばっていた。その部屋の中のテーブルには一人の優しげな顔立ちの青年が座っていた。見れば何かを書いていた。
悩んでいるようであった。その愁いを帯びた顔はまるで貴族のそれの様に気品がある。くすんだ色の上着にズボン、そして部屋の中なのにコートを羽織っている。これは部屋の中が寒いからだろうか。
ペンを手にし、目の前の紙に何かを書き綴っている。だがそれが容易にまとまらず、苦しんでいるようであった。
彼の名はロドルフォ。生粋のパリジャンであり、実家は裕福な家である。親の金でソルボンヌ大学に入った後でその後詩人として生きていきたいと思い親の家を出て今こうしてこの屋根裏部屋で仲間達と共に暮らしている。まだ名の知られていない無名の詩人であった。
その彼がペンを手に悩んでいる理由は一つしかなかった。その詩のことで悩んでいるのである。
その後ろでは髭を生やした大柄な男が絵を前にして首を捻っていた。彼の名はマルチェッロ。シャンパーニュからパリに出て来ており、今こうしてロドルフォと共に暮らしている若き画家である。彼もまた無名であった。
「参った」
彼はたまりかねて溜息と共にこう言った。
「紅海を描くには。この部屋は寒過ぎる」
「また何でそんな題材を選んだんだい?」
ロドルフォはマルチェッロの方を振り返りこう尋ねた。
「紅海と言えばエジプトだよね」
「ああ、そうさ」
見れば海が割れ、前にモーゼが立っている。聖書での有名な場面の一つである。
「冬なのに。そんな絵を描いて」
「仕事だから仕方ないさ」
彼は苦笑いを浮かべて仲間にこう答えた。
「司祭様から頼まれたんだ」
「へえ」
「モーゼの絵を描いてくれって。それで描いているんだけれどね」
「よかったじゃないか。そんな仕事が入って」
「けれど生憎。思うように筆が進まないよ」
肩をすくめてこう言った。
「こんなに寒いとね。どうしたものか」
「趣向を変えてみたらどうかな」
「趣向を?」
「そうさ、ファラオを溺れさせてみせるとか」
ロドルフォはいささか冗談でこう言った。勿論実際にはファラオは溺れてなぞはいない。
「それは面白そうだけれどね」
マルチェッロは目を細めて言葉を返した。
「生憎。厳しい司祭様でね」
「おやおや」
「きちんとした絵でなければ納得してくれないんだ。困ったことに」
「アレンジや新解釈は芸術の基本なんだけれどね」
「生憎その司祭様は写実主義なんだ。困ったことに」
「自然主義とかじゃないのか」
「あれは司祭様にとっては唾棄するものだろうね」
マルチェッロは述べた。
「人の醜い姿ではなくて綺麗な姿を見たい人だから」
「それじゃあルネサンスの時代にでも行けばいいのにね」
ロドルフォも笑いながら言った。
「あの時代だって芸術は凄かったけれど」
「人間も教会も凄かった」
「今の王様達だってびっくりさ」
「全く。醜い姿があるからこそ綺麗な姿もあるものだけれどね」
「何ならファラオの顔を醜くしてみたらどうかな」
冗談めかして言う。
「どんなふうにだい?」
「例えば何処かの偏屈な学者とかさ」
「うちにも一人いるしね」
「確かに、ははは」
「ところでロドルフォ」
マルチェッロはまたロドルファに声をかけてきた。
「何だい?」
「何を書いているんだい?」
「勿論詩だよ。けれどね」
「けれどね?」
「今はそれよりも。こいつを見ているんだ」
そう言って暖炉を指差した。見れば真っ暗で火の一つもない。
「何も動かないなと思ってね」
「仕方無いさ、給料を貰ってないんだから」
「給料を」
「そうさ、もう長い間ね」
つまり薪を買う金もないのである。名もない芸術家らしいといえばらしいか。
「困ったことに」
「どうしようかな」
「なあロドルフォ」
マルチェッロは彼に声をかけてきた。
「どうしたんだい?」
「重大な提案があるんだけれどね」
「うん」
その提案に顔を向けさせた。
「寒くはないかい?」
「確かにね」
ロドルフォは友のその言葉に頷いた。
「けれどそれが一体」
「鈍いな」
マルチェッロはそれを聞いて苦笑いを浮かべた。
「寒いならどうすればいい?」
「火が必要だね」
「そう、そしてそれには薪が必要だ」
「けれどそんなのはないよ」
「何言ってるんだ、ここにあるじゃないか」
そう言ってニヤリと笑ってきた。
「おいおい、そんなのないって」
「今君の目の前にあるぜ」
「僕の?」
「そうさ、これだ」
自分が今まで描いていたキャンパスを見せた。
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