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蝶々夫人

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第三幕その四


第三幕その四

「御気を落とされずに」
「御気を!?一体」
「彼は一旦ここに来た」
「一旦は」
「そう。けれど」
 言いにくい。彼がこれまで経験した何事よりも。しかし言わなければならなかった。そして彼は何とかその言葉を述べたのであった。
「もう来ない」
「来ない!?まさか」
「いえ、本当です」
 絞り出す様な言葉であった。
「もう。二度と」
「二度と・・・・・・」
 その言葉が次第に蝶々さんの心に滲み入ってくる。その彼女にシャープレスはまた言うのだった。
「そして。この女性の方は」
「まさか」
「・・・・・・おわかりですね」
 これ以上直接言うのは辛い。だから蝶々さんが察してくれたのは有り難かった。内心そのことに感謝さえしていた。そう、彼女への感謝であった。
「罪はありません、この方には」
「・・・・・・わかりました」
 その言葉にまた頷く。
「それは。ですが」
「御願いします」
 また蝶々さんに対して頼み込んだ。
「どうか。堪えて」
「私に残っているのはその一つだけなのです」
「それも。わかっています」
 わかっていない筈がない。しかし。それでも彼は言わなければならなかったのだ。
「ですが」
「・・・・・・わかりました」
 そして遂に蝶々さんも頷いた。そうするしかないのもわかっていてだった。
「それでは」
「すいません。子供は」
「きっと私が」
 これまでそこにいるのが地獄に感じられ顔を蒼白にさせていたケートも言う。彼女も己がしなければわからないことがわかっていたのだ。
「はい。ですが」
「ですが?」
「少し時間を下さい」
 こうシャープレス達に頼んできたのであった。
「半時間程。宜しいでしょうか」
「最後のお別れなんですね」
「そうです」
 その言葉は半分は真実であった。しかしもう半分は隠した言葉であった。だがそれは決して口には出さないのであった。決して。
「私もでしょうか」
「ええ」
 鈴木に対しても答える。
「御願い。どうか」
「わかりました。それでは誰に」
「御子息はどうされていますか?」
「眠っています」
 こうシャープレスに答えた。
「今は」
「そうですか」
「その子に最後の別れがしたいのです」
 また言うのだった。
「ですから」
「はい。それでは」
「蝶々さん。私達は暫く」
「去りますので」
 こうして三人はこの場を去った。蝶々さんは一人になった。一人になるとすぐに家の中に入るのであった。
「明る過ぎるし春めき過ぎるから」
 障子も襖も何もかもを固く閉めながら家の奥へと入っていく。
 その部屋には仏壇がある。その仏壇の前に座ると蝋燭に火を点けて静かに祈る。それから立ち上がると仏壇の反対側にある神棚に近付きそこから白い布に包まれた細長いものを取り出す。それは短刀だった。蝶々さんの家の最後の家宝、ピンカートンとの婚礼の時に見せなかったあれだ。それを静かに取り出すと鞘を抜いたのであった。
「名誉を守ることができなければ名誉の為に死ね」
 座ってからこう呟いた。そうして喉元に刃を当てる。だがその時だった。
 子供が部屋に入って来た。彼に気付いて動きを止めた蝶々さんに駆け寄る。
「御前!?御前、どうして」
 蝶々さんは我が子を見て思わず声をあげた。
「どうしてここに。どうして」
 思わず我が子を抱き締める。抱き締めると涙が流れた。
「見せたくはないの。百合と薔薇の花の様な御前のその穢れのない瞳に可哀想な蝶々が消えていくのを見せたくはないのよ」
 子供を抱き締めながらの言葉であった。
「御前は海の向こうで幸せに生きて。お母さんに捨てられたと思われたくはないの。御前は御空から光に満ちて授かったのだから。だから」
 我が子に自分の顔を見せる。そうして言うのだ。
「御前のお母さんの顔を。忘れないでね。だから」
 最後の言葉だった。もういかなければならなかった。
「さようなら。これで」
 我が子に反対側を向けさせてその手に日本とアメリカの国旗と人形を握らせる。その時にそっと目隠しもさせた。その間に子供をじっと見詰めた後で障子の向こうに消えて。そこから我が子のシルエットを見つつ静かに喉に刃を突きつける。そうして。最後を迎えた。
 短刀がゆっくりと落ちて生じが開いた。倒れた蝶々さんの手が最後の力で開けたのだ。その時に弱かったのか子供の目の目隠しが落ちていた。子供は蝶々さんに静かに寄って来る。倒れ伏し域も絶え絶えの蝶々さんも少しずつ我が子に近寄る。だがそれも適えられそうになかった。命の火が消えようとしていた。仏壇の火が消えていくのと合わせて。その力尽きて子供のすぐ側で動かなくなった。
「蝶々さん!!蝶々さん!!」
 家の外からピンカートンの声が聞こえる。しかしもう遅かった。何もかもが遅かった。全ては終わってしまっていたのだった。全てが。


蝶々夫人   完


                  2008・2・12
 
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