蝶々夫人
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第一幕その二
第一幕その二
「面倒な人はいないよね」
「まあそういう人は呼んでいませんので」
こうピンカートンに述べた。
「御安心下さい」
「わかったよ。じゃあ安心させてもらうよ」
「はい。それでそちらの参列の方は」
「もうすぐ来られる筈だ」
ピンカートンがこう言うとすぐに白い髪と口髭の恰幅のいい初老の男がやって来た。温厚で思慮深そうな学者の様な顔をしている。白い服とネクタイをしている。
「ふう、長崎はいい場所だが」
彼は額の汗をハンカチで拭きながらピンカートンのところにやって来た。
「坂道が多いのが。困りものだな」
「この方だよ」
ピンカートンはその白い服の男の側まで来てにこりと笑って紹介した。
「領事のシャープレスさんだ」
「ああ、もう来ていたのか」
そのシャープレスの方もピンカートンに気付いて顔を向けるのだった。それから彼に声をかける。
「流石に早いな」
「ようこそ来て下さいました」
「登るのが大変だったけれどね」
シャープレスは苦笑いを浮かべてピンカートンに応える。
「だが。景色はいいね」
「海に街に山に」
ピンカートンはシャープレスと二人で今二人が今いる場所から見える長崎を見渡して言う。街も海も山も見事な美しさを二人に見せていた。
「アメリカにもこんな場所はそうそうありませんよ」
「そうだな。それでこれが君の家だね」
「そうです」
家に顔を向けたシャープレスの言葉に答える。
「九百九十九年借りました」
「千年生きるつもりかい?」
「契約は何時でも変えられるので」
ピンカートンは軽薄に笑ってシャープレスに述べた。
「この国では家でも契約でも思う通りになりますので」
「あまりいいことではないがね」
シャープレスはそのことには顔を顰めるのであった。
「イギリス人みたいな真似をしないでくれよ」
「わかっています。僕もアメリカ人です」
ここでも軽薄な笑いをシャープレスに見せるのであった。
「あんな連中みたいなことはしませんよ」
「だといいが」
アメリカとイギリスはお世辞に仲がいいとは言えない。これは歴史的なものだ。とりわけ海軍同士はあまり仲がいいとは言えないようだ。ピンカートンはかりにも将校であるので自重しているが兵士達はイギリス兵をライマーと呼んで馬鹿にしている。これはイギリス兵達が健康の為にライム入りのラム酒を飲んでいることから来ているのである。
「ですがアメリカ人です」
「それは今聞いたが」
「ですから」
ピンカートンはその軽薄な調子をさらに強いものにさせて言うのであった。
「世界の何処に行っても危険を顧みず楽しみ大儲けしてみせます。運を天に任せて嵐が船をひっくり返して帆柱が折れるまで突き進みどんな花でも手に入れてみせます」
「そうしたやり方が最近の我が国の評判を落としているのだが」
シャープレスは顔を顰めてピンカートンに忠告する。
「海軍士官だったら慎んで欲しいのだが」
「まあその程度はいいのでは」
「どうかな。それでは人生は楽しいだろう」
「勿論」
満面の笑みでシャープレスに答える。
「楽しくて仕方がありません」
「だが最後には報いが待っているものだ」
人生に関しての深い言葉であった。
「それを覚悟しておけ」
「何、どんなに打ちのめされても運命を取り戻すのがアメリカ人」
しかしその忠告はピンカートンには届かない。
「ですから日本流に九百九十九年の間結婚します。何時でも自由にできるという条件で」
「全く。そんなことでは」
「まあ一杯」
五郎に手渡された杯を手渡す。
「喉も渇いておられますね」
「まあそうだが」
「ミルクポンチかウイスキー。どちらが」
「ウイスキーにしておこう」
そうピンカートンに言葉を返した。ピンカートンの気楽さに不安を感じたがそれを消す為でもある。
「バーボンだな」
「勿論。アメリカ人はイギリスのウイスキーは飲みませんので」
「それはいい」
これに関してはシャープレスも同意した。その言葉を受けてピンカートンはシャープレスが受け取った盃にバーボンを入れていく。それから自分のものにも入れて乾杯をするのであった。
「合衆国に栄光あれ」
「うん。ところで」
シャープレスは一杯飲んだ後でまたピンカートンに問うた。
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