蝶々夫人
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第一幕その一
第一幕その一
蝶々夫人
第一幕 婚姻
明治維新から数年経った日本の長崎。青い海もその街並も眺めることのできる丘の上に小さな家が建てられている。周りには桜の木が咲き誇り花びらが風により漂っている。その中で家を見ながら黒い海軍の軍服を着た金色の髪に青い目の背の高い男が驚いた顔をしている。顔は朗らかな笑みを浮かべている。何処か軽薄な感じがするのは否めない。
「これがかい」
「はい、そうです」
彼の隣には小柄でまだ髷をしていそうな感じの風采のあがらない男がいる。彼は紛れもなくこの国の男だ。
「これが日本の家です」
「これが障子で」
白人の海軍の男は障子を指差して彼に問う。
「これが天井、これが襖なのかい」
「全てその通りです」
男はそう答える。
「そうか。五郎さんだったね」
「ええ」
男は海軍の男に名前を問われて答えた。
「そうです、ピンカートン中尉」
「この前までは少尉だったんだけれどね」
笑いながら自分の右手をぽんぽんと叩く。見ればそこには二本の金色の線がある。一本は太くもう一本は細い。それは中尉の階級を表すものである。
「この前なったんだ」
「左様ですか」
「うん。それでだね」
彼はまた五郎に問うのであった。
「建て替えが随分楽そうな家だね」
「自由に開けたり閉めたりできますので」
五郎はその問いにまた答える。
「お好み次第にお部屋の模様替えをできますよ」
「じゃあ婚礼の部屋は」
「どちらでも」
五郎は家の二つの部屋を指差して述べた。
「そうかい。広間は」
「こちらです」
別の部屋を指差す。
「それでここからも出入りが」
「しかし。軽そうな家だね」
ピンカートンは五郎の話を一通り聞いた後で家全体の感想に入った。
「少し強い風が来たら吹き飛ぶんじゃないのかい・この辺りは台風も多いんだろう?」
「ああ、それは御安心下さい」
しかし五郎は笑ってピンカートンのその疑念を打ち消してみせた。
「土台から屋根まで塔の様に丈夫ですから」
「そうなのか」
「はい。ですから御安心下さい」
「だといいけれど。あとは」
「使用人ですか?」
「ん。そちらの手配はどうなっているのかな」
家から目を離し五郎に顔を向けて問う。
「それでしたらもう」
五郎がぽんぽん、と手を叩くと一人の小柄な女性が姿を現わした。緑の着物を着て黒い髪を上で結っている。穏やかな表情をしていて目は垂れ気味である。小走り気味の歩き方がピンカートンの目についた。
「この人なんだね」
「そうです。花嫁さんのお気に入りのお手伝いさんです」
五郎はそのお手伝いを手で指し示しながらピンカートンに説明する。
「名前は?」
「鈴木です」
女中のほうから答えてきた。答えると共にぺこりと頭を垂れてきた。
「どうか宜しく御願いします」
「ミス鈴木、いや」
ピンカートンはその鈴木を見て英語を出し掛けたがそれをすぐに消して言い方を変えた。
「鈴木さんだね」
「はい、そうです」
「それでそれが日本の挨拶なんだね」
「御存知ですか」
「一応はね」
そう鈴木に対して答える。
「知ってはいるよ」
「そうですか」
「うん。ところで鈴木さん」
ピンカートンは顔をあげた鈴木の顔を見て彼女に問うた。
「どうして笑っているんだい?何か日本人はいつも笑っている人が凄く多いけれど」
「笑いは果物や花の様なものです」
鈴木はその穏やかな笑みと共にピンカートンに答えるのであった。穏やかな風が桜の花びらを運びピンカートンの前を舞う。
「花の様なもの」
「そうです。笑いは怒りの横糸を解きほぐし真珠貝の口を開き利をもたらします」
「日本ではそう言われているんだね」
「はい。それは御仏の下された香水であり生命の泉なのです」
「それは誰の言葉かな」
「奥生です」
その言葉を述べた者の名を述べた。
「昔の僧です」
「仏教のだね」
「はい。御存知を」
「わかったよ。ところで五郎さん」
ピンカートンは鈴木の話が終わるとまた五郎に顔を向けて問うた。
「何でしょうか」
「花嫁さんはまだかな」
「もうそろそろだと思いますが」
「そうか。それで親類の人は多いんだよね」
「ええ。二十は超えています」
「大体二ダースってところだね」
ピンカートンはそれを聞いて呟いた。
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